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カテゴリ:山大新聞会
9月15日 晴れ 2日目 朝の朝食。 車でザビエル聖堂前まで行ってみる。今日はミサがあるということで、駐車場は満杯だった。91年の焼失によって、98年に再建されたというこの記念聖堂を観たのはこれが初めてだった。元のどっしりと構えた茶色い聖堂から一新してモダンな建築に変わっていた。 洞穴の中のマリア像。外なので、焼失からは免れているはず。 最近このような事情で鐘が寄贈されたらしい。 打たせてもらった。余韻の残る見事な鐘だった。 このザビエル聖堂がある亀山記念公園には、思い出がある。あれは80年の12月8日のことだった(と思う)。私たち新聞会は、忘年会を終えてたいていはこの公園に登ることが多い。酔い覚ましの運動である。その日、ジョンレノンが射殺されたという一報が入ってきた。私は、そんなに思い入れはなかったが、相当なショックを受けている先輩の影響もあり、その時のこの階段からの眺めが未だに頭に残っている。平和を願った世界的ミュージシャンの死を、世界的に有名な聖堂が悼んでいる。気がした。 亀山記念公園の頂上からは、龍泉寺方向の市街などがよく見える。 これは、県庁方向。かつて、新聞会で、60年安保の体験者の話を聞くために、私がインタビューをしに行った木造の県庁はもはやない。 これは湯田温泉方面。ずっと向こうに山口大学があるはずだが、見えない。 そのあと、山口市歴史民俗資料館に向かう。博物館フェチとしては、空いているところは一応チェックしておかないと、という気持ちだったのだが、実は今日最大の収穫だった。企画展は「信仰でたどる江戸時代」だったのだけど、常設の考古遺物がとても充実していたのである。県立博物館の比ではなかった。こういうことはよくある。 私の関心事、弥生後期の遺跡は、ここにもあった。赤妻遺跡(山口市内付近)、上東遺跡、下東遺跡(湯田温泉東あたり)と、弥生から古墳時代にかけて、やはり住居などが発掘されていたのである。弥生終末期、山口県空白説は、これにより先ずは宙に浮いたと思う。 しかも、この遺跡からは下関の綾羅木郷遺跡に特有な木の葉紋の土器も出土していた。自然模様のようで、幾何学模様のよう。この紋様の変遷はとても興味があるのだが、いま私はそこまで手が伸ばせない。誰かやってもらえないかしら。 いちおう、県立博物館に行く。 まあ、総合博物館なので、地学とか生物とか理系の展示が多い。秋吉台を形成している石灰石は、もともとはサンゴ礁だったかららしい。つまり、あの山は元々は海の底だったのだ。ところが、すぐそばにはジャングルもあり、それが積もって泥炭層になっていたりするから、数億年前の山口県は、海やら森やらあるグズグズの浅瀬だったわけだ。 県立博物館なのに、あまり質のいい土器は置いていなかった。考古学コーナーは申し訳程度にしか無い。全ては下関市の考古学博物館にあると言う事なのだろう。しかし、県教育委員会の力の入れようの無さには呆れた。 県立博物館に車を止めて長いお散歩。瑠璃光寺隣の洞春寺に行く。毛利元就の菩提寺。そこにある美術館に寄るためである。 そこにある「のむら美術館」という小さな美術館。観覧料200円。割と良かった。なんでこんなものがここに、というものがたくさんあった。 我が郷土備前国の江戸時代の画家、岡本豊彦の絵もあった。差し障りがあるので、絵は見せれない。 なんと、伊藤若冲の絵もあった。鶏がビックリ顔をしている。ほとんどマンガである。この革新性は正に若冲!でも、なんでここに?間違いなくホンモノらしい。雪舟の絵もあったが、こちらは管理人の方は「多分」と歯切れは悪かった。 一つの目玉として、桂小五郎(木戸孝允)が、桜田門外の変の時に、たまたま隣の長州藩屋敷に居て、(どの時点でかは不明だが)事の次第を見て、水戸藩士の「快挙」に共感して、各地の同志に決起の檄を飛ばした文章が昭和の時代に発見されて、(何故か)この美術館に展示されていた。桂小五郎の文章は達筆である。勢いは、そのまま桂小五郎の心情を表しているのかもしれない。それにしても、何故こんなものがここに? 隣の瑠璃光寺五重塔に行く。近影。 亀山公園から見た五重塔。 そして近づいて見た近影。 日本三大五重塔の一つらしい。全部で41基が作られて、現存している。(現在は67塔)瑠璃光寺資料館には、その全国の五重塔模型が全て展示されていた。 この日は暑かった。久しぶりにかき氷を食べた。 瑠璃光寺には、実は初めて来た(と思う)。もしかしたら、入学式の時に母親と来たかもしれない。どちらにせよ、山口市最大の観光地なのだが、大学時代一切興味がなかった。今回は湯田温泉といい、瑠璃光寺といい、40年経って、やっと山口を観光した。 そうは言っても、普通の観光とは少し違う。五重塔を見た司馬遼太郎の碑があった。まぁ私もそう思う。小京都といいながら、都会には無い、優しさがある。ところが、田舎とも言えない。雅なところはある。面白い。 若山牧水歌碑もあった。 はつ夏の 山のなかなる ふる寺の 古塔のもとに 立てる旅人 明治40年6月に中国地方を旅した時にここに寄り詠んだらしい。岩越しに塔を見る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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