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テーマ:本日の1冊(3685)
カテゴリ:読書フィクション(12~)
「文藝春秋2021年2月号」 普段は芥川賞なんて直ぐには読まない。今回取り寄せたのは、若い受賞者と私との「距離」を測りたかったから。誤解を恐れず私の経験を書く。 私にも「私流の推し」は「たくさん」いた。いわゆるアイドルに関しては、AKBの数人。2012年、テレビが壊れて2ヶ月間YouTubeを一日3時間から12時間見る生活が続いた。YouTubeは関連動画が次から次へと現れる。やがて周りの同世代の誰よりも詳しくなり、一応「推し」を決めるのは必然だったろう(どの様な熱を持って「推し」てきたかは、「総選挙公式ガイドブック」の2015ー2018を検索してみてください)。 残念ながら、私が推しメンにすると、何故か1-2年後に4人中3人が卒業を決めた(今だに何故なんだろうと思う)。もう1人はアイドルとして不幸になったし、私は推しメンを決めることを止めることにした。うち3人は「事件」が起きて卒業するのであるが、この書と関係ありそうなのは須藤凛々花(りりぽん)の「結婚発言」事件である(説明すると長くなるので知らない方はググってください)。 当時私はマイブログにこう書いている。 (略)ファンを裏切ったと、(本当のファンが言うのはいいとしても)ファンでなかった者が言うのは、良くないと私は思う。AKBに迷惑をかけているのは、その通りだと思うので、卒業するのは一つの選択肢として仕方ない。しかし、秋元康も慰留したそうだし、本当の意味でAKBに迷惑をかけたとは、私は思っていない。私は彼女の哲学者宣言に共感してファンになったのであるから、私が彼女の哲学的行動を貫いたことを応援しこそすれ、非難するはずがない。(略) さて、本書の主人公の推しのレベルは、私よりも数十倍高い。それは読む前からわかっていた。私なんか一回も握手会に行っていないヘタレファンなので、そもそも比較するのが間違っているのかもしれない。私は当然「推すことはあたしの生きる手立てだった。業だった」とまでは言わない、言えない。私はりりぽんの卒業も引退も淡々と受け止めた。彼女も、上野真幸くんの「ファン殴打事件」を淡々と受け止めた。しかし、流石に最終盤の上野くんの決意を受け止めることはできない。そこに、私と彼女との大きな違いがある。 人は思うかもしれない。私の感情は一般的には「ファン」と言われているものだろ?主人公の「推す」とは次元の違うものだろ?でも私は普通に「推す」という言葉を使っている。確かに彼女とは大きな違いがあるけれども、「推し」を解釈し続けて、応援し続ける感情に大きな違いはない。私自身のイメージは、舞妓を支援する「集団旦那」の更に下っ端という感じ。立派な芸妓になるのを見守っているだけのハイヤーの運ちゃんというイメージです。舞妓が引退して地方に帰っても、ずっと忘れない。この主人公、最後は突発に終わるが、やがては小さな旦那或いは小さな下っ端になるだろうと確信します。彼女は主観的には「命にかかわる」と思っているかもしれないが、私はそうではないと思う。もちろん、一般論として彼女が突発的に死を選ぶ可能性は否定できない。けれども、小説的なラストは、それを否定している。 コロナ禍のもと、AKB商法は完全にオワコンになってしまった(劇場が存続する限りはAKBはそのまま続くが)。けれども「推し」の文化は決してなくならない。なぜならば、平安時代からずっと続いている文化だから。主人公の「推し」は形を変えて続いてゆくだろう。 「推し、燃ゆ」は雑誌全体の1/6にも満たない。後の記事もたいへん読み応えがあった。半藤一利追悼特集で、保阪正康が、『日本のいちばん長い日』の昭和42年の試写会に出席した生残り兵士が「結局、あのことはまだ分かっていないんだな」とつぶやいたことを暴露している。映画を2本見て、本も読んだ身としては大変興味がある。後塵の学究者の奮闘をお願いしたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年02月26日 15時37分56秒
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