|
カテゴリ:旅の記録
ずっと来たかった、岡山県瀬戸内市のハンセン病療養施設だった長島愛生園に行った。 旧事務本館(歴史館)。長島のハンセン病(らい病)の歴史と実態と問題点を過不足なく展示していて、素晴らしい博物館だった。 1930年(昭和5年)竣工。この年、この長島に国立療養所第一号として、長島での「らい病」患者隔離政策が始まる。2003年に歴史館として開館。職員施設だったこともあり、美しい造りになっている。 もっとも人がいた頃の長島愛生園の島のジオラマ。それにしても、こんなにも住宅でひしめいていたのだとビックリする。この人たちは、一生、日本と接点を持たずに死んでいった。 「らい病」と長島の歴史を過不足なく説明。特に、万民を分け隔てなく接していた一休宗純が、気に入らなかったとは言え、兄弟子の「らい病」死を「仏罰だ」と切って捨てたというエピソードはショック。それほどまでに、「らい病」は嫌われた病気だったということか。 十坪住宅。劣悪な環境を改善しようと患者の結婚した人たちの住宅を「寄付」で建てる運動が、戦前に始まっている。しかし、条件は結婚カップルは断種手術をすること。この住宅が147棟建てられた。 十坪住宅への寄付を募る文章(昭和10年)。 この島に隔離することが、国の為になるとハッキリ書いている。「祖国を浄化させるため」「(隔離する事で)20年経たずにらい病を根絶できるだろう」そのための住宅問題の解決である。 その他見たもの。 夢の国に行くかのように誘う長島のパンフ(戦前) ビックリ! 90年代まで使われた投票箱。 無数に開いている穴は、投票用紙を蒸気で「除菌」するためである。 これがつい最近まで、最も公的な場所で行われてきた事である。 ハンセン病を学ぶことは、差別とは何かを学ぶこと。無関心が差別を生むのだ。 ‥‥この「教訓」が、非常に大切だ。 全文を書き写す。 「ハンセン病に対する偏見と差別は、国が政策を誤ったことにより助長されてきました。 しかし、それを容認してきたのは国民一人ひとりです。 「無関心」は、誤解と偏見を生み、差別につながります。 現在も様々な差別に苦しんでいる人たちがいます。 その人たちに関心を持ち、正しい理解の輪を広げることこそ、ハンセン病問題から学ぶべき大きな教訓です。」 「様々な差別」としてパネルでは、「障害者への差別」「外国人への差別」「同和問題」「ハンセン病問題」「病気への差別」などを挙げている。確かに全てまだ未解決の問題だと思う。 その他の展示物 そのあと、外へ出て少し回った。コロナ禍のもと、全て歩けない。これは収容桟橋。収容者用の桟橋は、職員用とは別になっていた。 収容所(回春寮)。入所すると、ますこの建物に収容される。現金などの全ての持ち物が没収される。 そして入浴。 監房跡。開園と同時に設置されたらしい。逃走したもの等を収容。懲戒権は所長に与えられていた。昭和28年になって、やっと廃止。 何故か園内では、NHKラジオ放送が延々流れていた。 使われていない公衆電話。 とおもいきや、上に各施設内内線電話表があった。むかしは頻繁に此処が使われていたのか。 「人間回復の橋」長島大橋(1988年開通)。 そこから観た虫明の美しい海。牡蠣筏が無数に浮いている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[旅の記録] カテゴリの最新記事
長島愛生園を写真入りで紹介してくださって感謝します。私もできれば一度訪ねたかった所です。尊敬する先輩、原田季夫師が夫人と飛び込んで「長島聖書塾」という神学校を立ち上げ、病者による病者の伝道を目指した所です。惜しむらく道半ばでがんで倒れました。
(2021年11月21日 17時00分08秒)
象さんさんへ
こんにちは。コメントありがとうございます♪ >尊敬する先輩、原田季夫師が夫人と飛び込んで「長島聖書塾」という神学校を立ち上げ、病者による病者の伝道を目指した所です。 そうなんですね。 宗教の力は偉大だと思います。 もっとも中立で公正であるべきな選挙投票の、明確で非科学的、差別的な行為が、90年代まで続いていたこと、それを岡山県民の私が知らなかったことはショックでした。 (2021年11月22日 17時05分50秒) |
|