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中江兆民

2016年09月03日
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カテゴリ:中江兆民
8月25日(木)二日目


7時起床。ここのホテルは100円追加すると、朝食がつくと言うので、追加しておいた。こんなすごいボリュームとは知らなんだ。絶対これはお得でしょうう。



雨が降っていた。昨晩も駅に着くと、雨が止んだ直後だったし、今日も雨が降っている。天気予報は曇りのち晴れである。このように、天気予報が全然信用出来ないのは、今年始めの出雲の旅でも経験した。海沿いの地方の特色なのかもしれない。常に海から天気が変わってくるとしたら、訪問神は海からやってくるという信仰は、非常に説得力があったかもしれない。セブンイレブンで500円の傘を買った。まさか、雨はこの時だけで、そのあと一日中ずっと邪魔な傘を持ち歩くことになろうとは、その時は知る由も無かった。ともかく、チェックアウトの前の朝の遺跡巡りに出かける。高知市内には古代の遺跡はない。今回は弥生遺跡は完全に諦めている。今回の旅のテーマは、私の人生テーマのひとつである「中江兆民の時代をめぐる」である。左のカテゴリーに「中江兆民」があることからも、私の関心の深さを推察して欲しい。その割にはカテゴリーに記事数がこの数年間増えることは少なかったが、今回の旅は、「旅(日本)」にカテゴリーしない。たった2日の旅ではあるが、まだ全然書き切ってないが、非常に長くなる予定であり、カテゴリーは全て「中江兆民」にする予定である。何故ならば(これが旅の醍醐味なのだが)今回の旅で私の自由民権運動への視点が大きく変化したからである。そのことを文献を駆使しながらかなり長く書くと思う。もちろん、本来の旅の記録も、これから書くので、まるで司馬遼太郎の旅行記みたいな記事になりそうな予感がある。写真は、駅前から南に百mほど歩いた処にある山田町の八幡神社だ。その神社の至る所にの勧請を担ったであろう人々の名前があった。明治5年にこの町に移って来たというから、この名前は中江兆民の幼馴染の可能性がある。或いは幼馴染の親の名前か。名前を眺めるだけで、当時の様子が想像出来る。私は研究者ではないので、そのように自由に想像力を膨らませながら、大胆に記事を書くだろう。



八幡神社の絵馬。願い事は、非常に具体的で、かつきちんと名前・住所まで書いているのが多かった。この土地の伝統なのかもしれない。



中江兆民(弘化4年(1847)~明治34年(1901))幼名は竹馬。のちに篤助或いは篤介。兆民は筆名である。八幡神社のある旧山田町に生まれた。山田町の中でも、篤助は部屋町という武家屋敷に住んでいた。すぐ近くに牢があったようだ。土佐勤王党の志士が切腹する処を、少年篤助は塀をよじ登って見たことがあるらしい(15歳)。つまり、彼が父親の跡を就いで大人になる直前に尊皇攘夷運動の嵐は止んでいたのだ。


 父元助は足軽でしたが兆民が14歳の時亡くなり、母に育てられながら藩校文武館に入りました。

 文武館では萩原三奎、細川潤次郎について洋学を学び、岡本寧浦を師とする奥宮慥斎について陽明学を学びました。


 藩から留学を許された長崎ではフランス語を平井義十郎について学ぶとともに坂本龍馬や後藤象二郎、岩崎弥太郎たちと知り合いました。


 彼の語学力はすばらしく、岩倉遣欧使節団に参加フランスに行き法律や哲学を学ぶ中でルソーの著書に出会いました。


 帰国後しばらく法律の仕事をする合間にルソーの「社会契約論」を「民約論」として翻訳したり、フランス語学校校長などをしましたがすぐにやめ、自由民権運動に取り組むようになりました。


 明治23年(1890)第1回衆議院議員選挙に当選するも理想とかけはなれた議会に失望し国会を「無血虫の陳列場」とののしって辞職しました。
 以後、筆で政府と渡り合い、東洋自由新聞を創設しましたがわずか40日あまりでつぶされました。
 明治33年(1900)のどに痛みを感じ耳鼻咽喉科で喉頭癌で余命1年半あまりと宣告を受け、切開手術を受け「一年有半」「続一年有半」を書き残しました。(「土佐の歴史散歩」より)



山田町は武家も住んではいたが、基本的には町民の町ではなかったか。今でも醤油屋や機械工場がたくさんあった。今も運河がすぐそばに通って、商売にはいろいろ便利だったことが伺えます。しかし篤助は基本的には家で本ばかりを読む読書家だった。性格は温和でおとなしい。のちの奇行を好む変人の姿はなかった。



過去、高知市内には二回入ったことがある。一回は団体観光。桂浜の龍馬像は観たが、とうていこんな処まで来れる余裕はなかった。もう一回は、労組の会議で。朝早く起きたならば、来れたかもしれないが、事前の準備が悪くて、場所が全くわからなかった。この日もなかなか迷いました。もっとも、中江兆民誕生地の周りの風景は、こんな普通の路地である。よっぽどの物好きでなければ来ない。



やっと来ることが出来ました。中江兆民先生!
高知城から2キロ東にある町である。あとで述べるが、武市半平太が道場を開いていた菜園町も南に数百mほど行った処にある。江戸の町風に云えば、下町である。
石塔は1953年(s28年)、石碑は1981年(s56年)に建てられている。いずれも高知市教育委員会建立である。高知市内は昭和20年7月4日の空襲で、ほとんどが灰燼に帰したらしい。当時を偲ぶ建物は一切ない。






最終更新日  2016年09月03日 10時18分07秒
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2016年09月02日
カテゴリ:中江兆民

猛暑がまだ終わらない8月24日真夏の夜の倉敷駅。夏の旅に出た。無理やり出た。休みが取れないので、仕事が終わると飛んで帰って、倉敷駅から電車に乗って高知へ。午後7時5分発の特急南風。高知で食べれるかわからないので、先ずは電車の中で旅気分のビールを空ける。何だか忙しくて、美味しいという味がしない。得々切符で、特急往復6480円の切符をゲット。2時間40分の夜の電車で、瀬戸内海と四国山脈を横断する。


高知駅では、くず入れさえも、郷里の作家と云うことでアンパンマンが迎えてくれる。


宿は寝るだけと思ったので、「ホテルタウン駅前」という、まんまの名前の宿にした。楽天ネット割大格安3700円!という値段と思えば、韓国のモーテル(現在おそらく3500円以上するはず)よりも上等な部屋でした。


そのホテルの近くに12時まで営業しているというので、利他食堂という魚料理居酒屋に行って見る。カウンターのご主人にこの店の名物カツオの藁焼きを頼んだら、もう品切れでした。カウンターには、伊賀焼きが並んでいて、豪快なカツオ料理に合わそうとするおしゃれな店。


でも、「一口だけならカツオがある」と云うので、それを頼んた。「合うワインは何ですか?」と聞くと、タトール・プリミティーヴォ・サレント(イタリア辛口・プリミティーヴォ種)を勧めてくれた。なるほど、これは合う。カツオも臭みはなくて、甘みのあるような刺しなのだが、それでもワインのしっかりとした香味がカツオにはとっても合うということがわかった。スーパーで買うカツオとは一味も二味も違う。


これはお通しの「うるめいわしとモズクの酢物」。


ご主人が今日の一押しということで、勧めてくれたのがこのメジカの新子。何でも、メジカは大きいモノは必ず鰹節にする上物らしい。しかも、すぐに鮮度が落ちるので決して刺身に出来ないのだそう。しかし、新子(小さな魚)だけは、鮮度が12時間持つそうだ。よって、メジカの刺身が食べれるのは、新子が出回るこの夏休みだけの貴重なものらしい。「羨ましい。私も食べたい」とご主人。閉店間際で売れ残りそうだったので勧めたのは有りありなのだが、高知でしか食べれないということもあり、乗ってみた。味は、ものすごい蛋白。臭みは一切しない。辛口の日本酒と合わせたら、美味しそう。赤ワインとは絶対合わないf^_^;)。ともかく面白いモノを食べさせてもらった。腹は既に一杯だったので、これぐらいで切り上げる。今回の旅はグルメが目的じゃない。あくまでも明日がメインです。帰って早く寝なくちゃ。実は、この旅を通してこの利他食堂が最も美味しい食事になろうとは、この時には思いもしなかったのではある。


高知は、コインパーキングさえ、龍馬を使うのか!






最終更新日  2016年09月02日 11時36分30秒
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2016年08月05日
カテゴリ:中江兆民


日蘭協会等が主催した「初めてジャーナリストと呼ばれた男  岸田吟香」講演会を聞いてきました。

岸田吟香研究者の森泰通(豊田市郷土資料館館長)さんの基調講演は、あまり期待していなかった分、とても興味深いものでした。豊田市(三河)は幕末は挙母藩。その藩の飛び地が岡山県の現在の美咲町にあって、岸田吟香はそこで生まれました(1833年)。

秀才の甲斐があって、津山や江戸で学問修行をして、当時の若者らしく、尊皇攘夷思想にかぶれます。1859年安政の大獄で、仲間が次々に獄に繋がれますが、岸田は仲間がシラを切ってくれたお陰で罪を逃れる。ここで、岸田は突然「ノンポリ」になるのです。1861年脱藩(28歳)。なぜそうなったかは詳しいことはわからない。その5年後の手紙の中で、彼は「武士であることがイヤでイヤでたまらなかった」とも書いています。「ままよのぎん」になるのだ、とも書いています。市井に入って、様々な職業を転々とする。深川で銀次と名乗り、仲間に「ぎんこう」と呼ばれたために、名を「吟香」と改める。1970年代の全学連闘士の挫折の姿が重なります。

眼病を患い、横浜のヘボンを訪れ、治癒、その点薬をガラスの小瓶にいれることを思いつき、のちに大きく成功します。同時にヘボンから和英辞典を手伝ってくれと頼まれ、和漢文と市井言葉に精通していることが活きる。これが日本初の和英辞書となる。同時に、遭難者で米国の通訳になったジョセフ・ヒコと横浜で日本初の「民間新聞」である「新聞紙」を創刊。しかし、これは世に出るのが早すぎて一年で休刊。その後三つの新聞の創刊に関わるが、自分の名前はあまり出さなかった。脱藩以来、政治の表舞台に出るのを避ける傾向。

1873年東京日日新聞主筆。1874年(41歳)明治7年、台湾出兵に無理やりついてゆく。「新聞は国家の耳目なり」という信念。日本で初めての従軍記者になる。吟香従軍記事は、絵もついていて文章も読みやすく評判をとる。「論説の桜痴、雑報の吟香」と言われた。1875年、言論規制法。主筆を退く。政治と真っ向から立ち向かわないのが吟香の処世術だと森さんは云う。安政の大獄でよっぽど嫌なことがあったのだとしか思えない。

吟香は議論よりも行動。常に庶民目線のわかりやすいユーモアたたえた文章を書く。会場には、吟香のひ孫、岸田劉生の孫、岸田夏子さんもきていて、楽善堂の使用人は、主人と同じ食事をしていたと証言。吟香の庶民目線はホンモノである。

私は彼を「初めてのジャーナリスト」と評価するのは保留したい。ただ「日本大衆ジャーナリズムの父」という言い方は出来ると思う。彼の姿勢は、現代週刊誌の目線と全く同じである。ただし、中江兆民のように、全集が存在しない以上、それ以上に彼を日本思想史上に位置づけることは出来ない。彼が日本の政治をわかった上であの態度をとったのか、単に時流に乗るのがうまかっただけなのか、おそらく判断はむつかしいだろう。なかなか惜しいと思う。

彼の好奇心は360度に飛ぶ。その他にも吟香が先鞭をつけたことは多く、巧みな広告戦略、石油の掘削(失敗)、蒸気船定期航路の開拓、天然氷の販売、日本広告株式会社(のちの電通)創設に関わる、盲唖学校の設立、楽善堂(点薬や図書の店)の中国進出と日中交流、など。ちなみに四男は岸田劉生。







最終更新日  2016年08月05日 13時44分00秒
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2016年05月28日
カテゴリ:中江兆民
実は、現在12年目に突入しているこのブログ、ちょっと前に4000日経過、そして記事件数も3264本になりました。よく続けたものだと思うのですが、ここまで来ると昔書いた記事はすっかり忘れています。ところが、最近ブログ機能に「最近よく読まれている記事」ランキングを示すコーナーが出来て、何の拍子にか時々とんでもない記事が目の前に現れることがあるのです。

そういうわけで、その中で頻繁に現れる記事は省略して、私自身がびっくりしたような「傑作記事」の紹介をしてみようと思いつきました。

一回目はナント私の掌小説です。40万アクセス記念で、三題話を貰って書いてみた話です。思ったより良くで来ているな〜と思いました。さらにいえば、ここで中江兆民が話題に載せている「パリコミューン」は、ちょうど(たった)145年前の今日が、1871年5月28日に、パリの労働者たちが築き上げたバリケードを奪われ、刀折れ弾丸尽きて、歴史的な最後を遂げた日であったことを、一言付け加えておきたい。

この頃、NHK大河ドラマに「篤介」を持って行きたいというのは、願望ではありましたが、可能性は技術的なものだと思っていました。しかしあれから8年、NHKがそんな題材を選ぶのは夢のまた夢になろうという時代が来るとは。苦笑いしかありません。

1873年モンマルトルの丘 2008年06月19日

カテゴリ中江兆民 (10)

1873年の秋、青年中江篤介はフランスのモンマルトルの丘に登っていた。篤介はこの丘が好きだった。狭い階段を登りきってうしろを振り向けば、突然ヨーロッパ文明が現れる。計画的に作られた道路、ほとんど二階三階建ての煉瓦造りの家々、ところどころに天に聳える教会が頭を出している。

見えるのはそれだけではない。中心通りにある一画の建物が崩れているのは、2年前の民衆の反乱事件―のちにパリ・コミューンと呼ばれる―の名残だ。篤介は一年前にフランスに来たので、その事件は見てはいない。だから当初は江戸末期の「ええじゃないか」と同じように民衆の不満が爆発した「狼藉」だと思っていた。けれどもこの一年間、酒場でいろんな人物と飲み歩いていると、単なる暴動ではないと思えるようになって来た。篤介は留学前は江戸でフランス語の通訳をしていた。日常会話程度なら会話に困ることはなかったのである。

昨日も酒場で面白い人物にあった。 
その人物は職業は絵描きだという。けれどもこのモンマルトルの丘で画家の卵がよくしているような風景画家ではないと言う。
「即興画家といえばいいのかな。ポンチを描いているんだ。その絵を俺は新聞社に売るのさ。印刷にかけるから、複雑な線は描けない。単純な一本の線で本質を描く。例えば、二年前の共和政府弾圧の顛末とかさ。」
「あれは暴動ではなかったのか」
「まさか。あれは我々労働者が主人になった国家だったのさ。たった72日間だけだったけどさ。俺たちはちゃんと政府も作った。女たちも初めてそれに参加した。子供たちも、教育を受けるのは無料にした。」
「そんな無茶なことを。自由にやりたいほうだいじゃないか。」
「やりたいほうだいじゃあ、ない。君は自由の概念がわかっていない。」

篤介はうっと詰まった。実は自由と言う言葉は深い意味があるということを、フランスに来る前アメリカでも感じていたのである。ここでは便宜的に英語を使って篤介の疑問を解説したい。日本では古くから自由という言葉はあった。「日萄辞書」(1603)においても「liberty」が「自由」と訳されている。しかし、その後の日本の町人文学の中での使われ方は「自由気ままに」という使われ方であった。篤介はしかし、それは町人たちの限られた範囲の中での「自由気まま」であることは知っていたし、町人は侍に逆らうことは許されず、自由とはわがままと同じような意味にも捉えられていたのではある。しかし、アメリカではlibertyとはrightとして扱われていたのである。のちに福沢諭吉が「西洋事情」の中で、「人生の自由はその通義なりとは、人は生まれながら独立不羈にして、束縛をこうむるのゆえんなく、自由自在べきはずの道理を持つということなり」と喝破したように自由と独立はセットであり、権利として捉えられていたのである。

どこからそのような考え方になるか。
篤介自身は知らなかったが、アメリカの独立宣言は、「全ての人間は平等に造られている」と唱い、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げていた。そしてこの宣言の基礎となったのが、1789年のフランス革命で謳われた人権宣言のなかの「自由・平等・友愛」の精神なのである。

「"人間は自由なものとして生まれた。しかも至る所で鎖につながれている。"」とポンチ画家は突然暗誦するように語った。「"人民自ら承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。"」彼は紅潮して言う。「だから大多数を占める我々が話し合って法律を作ったのだ。どこがやりたいほうだい、なんだ?」
「悪かった。」篤介は素直に謝った。
「君の意見は私の人生を変えるかもしれない。もっと教えてくれ。」
「いや‥‥‥」と青年は急に頭をかき、「これは実は俺の兄貴の受け売りなんだ。なんでもルソーと言うえらい学者の書いた「社会契約論」にあるそうだ。」
「ルソー‥‥‥」
篤介はやっと自分の進むべき道を見つけたような気がした。
先ずはルソーを読もう。
それだけじゃなく、フランスやヨーロッパの歴史を学ぼう。自由とは考え方ではない。長い歴史の中で血と汗で勝ち取ってきたものなのだ。俺は福沢諭吉みたいな学者然とした啓蒙活動かにはならんぞ。理論を学べば、あとは実践していく。それなしに、自由の獲得はありえない。
篤介のちの東洋のルソーといわれた中江兆民の出発点がこのフランスの居酒屋だった。

篤介は遠くまで煙るように続く巴里の都を見据えながら一人呟く。「それにしても、あの青年は面白かった。確かジョルジュ・ビゴー といったけ。日本に行きたいといってたな。来たら歓迎しなくちゃ」のちにビゴーは本当に日本にやってきて、ちゃっかり中江兆民の仏学塾の教授に納まりながら、漫画雑誌を創刊したりするのであるが、兆民が日本に帰り、自由民権運動の中心になっていくさまはまたの機会に書きたい。

abi.abiさんからの「40万アクセス記念リクエスト」遅くなってすみません。調べておこうと思った本がどこかにいっていたもので‥‥‥。
彼女からの三題話「アメリカ、フランス、自由」はこんな感じでいかがでしょうか。

モンマルトルの丘.jpg
モンマルトルの丘から眺めた雪景色の巴里






最終更新日  2016年05月28日 15時02分05秒
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2012年07月02日
カテゴリ:中江兆民

岩波文庫中江兆民評論集/中江兆民/松永昌三
中江兆民の「論外交」(明15「自由新聞」)を紹介したい。「三酔人経綸問答」の様に問答形式ではなく、社説なので、そのまま兆民の主張になっている。外交問題について、現代に対しても、一つの問題提起になっていると思う。

これは、発表の二週間前にソウルで起こった壬午の変に触発されての発言である。(福沢がこれに触発されて「脱亜論」を書いたのは有名)兆民は、「富国強兵策や文明優越意識を批判、道義外交論を展開する。」この論を一言で言うとそうなる。しかし、全体も大事だが、細部にこそ重要な部分があると私は思う。原文は漢文調子なので、完全に力不足だけど少し詳しい「意訳」をしてみたい。

「外交を論じる」
今も昔も為政者は富国強兵をいう。富国はいいけど、強兵は必要性がわからない。兵は「不仁の器」である。不仁の器を提げて不仁のことを行うこと。これが強兵の目的ではないか。不仁の器を蓄え、不仁の謀を巡らし、人を殺して野にみち流血千里の災いを行い、それを愛惜する所がない、これが果たして天の道だろうか。

しかし、人は君子ではなく、殺人も起こす。追い剥ぎもする。あるいは、陰謀を企てて謀反を起こし欲をだす人もいる。およそこういう人は不仁の人です。よって、政治家は必ず軍備を蓄えるのですな。かつ、国々はみんな各々の利益を求めて、その国民の福祉を伸ばそうとします。けれど、いったん利益が衝突すれば軍隊を動かして雌雄を決めざるを得ない。よって、国を与(あずか)る者は平時において必ず軍事訓練をして軍備を蓄え侵略者に備えるのは、もちろん必要です。

ところで、兵士を養うことは、経済の道にはなはだ反しますな。したがって、軍備を大きくすれば、税金は重くならざるを得ない。これは、為政者最も苦労する所です。しかしながら、前説の種々の原因により、国を与る者は軍備は必要である。

ここで気がつきます。富国強兵この二つは、お互い相い認める事の出来ない事を。このふたつをそれでも、しばらくお互い認めさせて一時の政策を行うこと、これが富国強兵の二つの言葉が出る所以である。しかし、道理でもって考えれば、富国はまことに為政者の目的とするべきものですが、強兵は、結局万やむ得ないときの一策に過ぎません。

人はあるいは、言います。国家財政が富むから軍備が大きくなるのだ、と。だから富国強兵は決してあい認める事の出来ないものでは無い、と。ああ、これは「純専の見方」と「比較の見方」を区別していない論理です。単純に比較すれば確かに富める国は多く兵を持ち、貧しい国は少ない。しかし比較をやめて道理で考えて見よう。もともと、国では軍備の為に犠牲になっているものがある。例えばフランスと日本、今の国力が日本の10倍とする。もしお互い軍備費用を他の事に使ったらどうなるだろう。国がさらに富むこと、今日の100倍になるだろう。だから強兵は窮余の一策なのです。
(‥‥‥ここまで)(114p)


すみません!
まだ全体13ページの3ページを訳した処で挫折しました。「三酔人経綸問答」を現代語訳した桑原武夫さんたち京大チームは本当に凄かった。兆民の古典に対する素養の甚大なこと、それらを無視しながら訳して、なんかもう臆するばかりです。

兆民が漢文調で書いたので、おそらく福沢諭吉ほどにはその主張が広まらなかったのかと思うのですが、しかし、古代政治に理想を見出し、「道義外交論」を論じる場合、必然の文体ではあったのでしょう。

下線を引いたのは、私です。現代にもう一回吟味すべきことだと思ったからです。防衛費は、毎年5兆円の額が使われています。明治の頃に比べれば、確かに「万やむ得ないときの一策」である、と国民は認識している、と仮にして置いてもいいが、それにしても、本当に「万やむ得ない」のだろうか。もう一度突き詰める必要があるのではないか、と思うのである。

「純専の見方」は、現代では沖縄で証明されつつある。沖縄経済は基地に依存している、と本気で思っている沖縄人は今ではほとんどいないのではないか。読谷基地の土地を返還後に上手く活用した自信が沖縄に広まっている。「戦争が無いほうが人類は栄える」この思想は、まだ世界全体のものになっていない。しかし、ものすごく大事な視点だと思う。

これだけ訳しただけでも、現代にとって新鮮な視点が幾つもある。「三酔人経綸問答」は既に古典であるが、これもそれに数えて良いのではないか。

特に、兆民が国のグランドデザインを「小国主義」に置いて居る事に注目したい。日本はその立地や資源から言っても本来「小国」なのでないか。そのことを日本国民は全員忘れてはいないか。小国のとる立場とは何か。没落しつつある某大国に金魚の糞の様に追随し、自らを「勝ち組」として振舞う事ではない。「信義を堅守して動かず、道義のある所は大国といえどもこれを畏れず、小国といえどもこれを侮らず。彼れもし不義の師を以て我に加ふるあるか挙国焦土となるも戦ふべくして降るべからず。隣国内訌あるも妄に兵を挙げてこれを伐たず。いわんやその小弱の国の如きは宜しく容れてこれを愛し、それをして徐々に進歩の途に向はしむべし。外交の道ただこれあるのみ。」(124p)大国との関係は、非同盟中立を旨とすべきことを別に明治21年に述べている。(「東雲新聞」での「外交論」)






最終更新日  2012年07月02日 23時48分35秒
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2012年07月01日
カテゴリ:中江兆民
津山の洋学資料館には、ずらりと薬草になる花々が植えられていました。ベニバナはちょうど今の時期に咲いているようです。乾燥した花を薬草に使うということ。効用は血行促進作用。他に染料や食用油に使われることも有名。

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「三酔人経綸問答」中江兆民 岩波文庫
時の政策を批判する時に、批判ばかりしていたのでは良くない。対案は持つべきではある。しかし専門家ではない市民の身、原発政策や経済面の複雑な論議に入っていくと埋没してしまって抜け出せなくなる。よって、一番根幹の論議とは何かを考える。根幹を押さえて置くと、結論は直ぐに出るだろう。すると、結局はアメリカとの関係をどうするのか、というところに行き着くのである。それは即ち日本の外交政策をどうするのか、というところに行くだろう。だから憲法9条をどうするのかということは、世の中ことを論ずる時には必要不可欠だし、中国脅威論云々というのは、基本的には決して無駄な論議ではない。

しかし繰り返すが、専門家ではない市民の身、脅威論等の細かな軍事比較などしては居られない。良いのは、物事の最初に立ち返ること。グランドデザインを決めた明治の論議をみることだろう。

格好のテキストがある。それが本書である。原文と現代語訳の両方があり、訳文は現在に至っても多分最高峰である。

三者三様の立場から意見を闘わして方向を探るのは、空海の「三教指帰」から始まり良い方法である。私はかつて真似の戯れ言をしたことがある

紳士君は「民主政治」の立場をとる。(←共和主義に近い)そうなって「自由平等」になれば、軍備や戦争は必要ではなくなる。学芸も栄え、道徳も高尚になる。万一他国が攻めて来たら、主張すべきことは断乎として主張し、「弾を受けて死せんのみ」と答え豪傑君の失笑を買う。

豪傑君はどうか。争いは動物にとっても人間にとっても避けられないものであるだけでなく、政治家や軍人にとっては楽しみである。恋旧家と好新家が対立するが、恋旧家は社会の「癌腫」だから、それらをアジアかアフリカの大陸に送り、小国を大国にする方法を構ずればよい。そのことにいま着手しなければ、欧州諸国はかならずアジア侵略を開始するだろう。という。

詳しくは読んで頂くとして、現代の我々に最も傾聴に値する論は南海先生の論だと私は思う。

専制から一挙に民主制にはならない。立憲制をとおるのが順序である。恩賜の民権を大切に扱い、回復の民権に変えていくのが進化の理法であるという。ここは、兆民自身が「いささか自慢の文章です」と書いているように、当時最も現実的なグランドデザインだったと思う。

さて、外交である。「もし彼らの軍備拡張が小規模であるならば、あるいは爆発するかもしれないが、大規模に軍備拡張しているから、爆発することはあり得ないのです。」これは中国脅威論、昔ならソ連脅威論にあたるだろう。それでも、もし攻めてきたとしたら専守防衛に尽くすしかない。「わがアジア諸国の兵隊は、それで侵略しようとする時には不十分だけれども、それで防衛するには十二分なのです。」「二つの国が戦争を始めるのは、どちらも戦争が好きだからではなくて、じつは戦争を恐れているために、そうなるのです。」「要するに、外交上の良策とは、世界のどの国とも平和友好関係を深め、万やむ得ない場合になっても、あくまで防衛戦略を採り、遠く軍隊を出征させる労苦や費用を避けて、人民の重荷を軽くしてやるよう尽力してやること、これです。」

この結論に対して紳士君、豪傑君共に「少しも奇抜なことはない。今日では、子供でも下男でもそれくらいのことは知っています」と笑ったが、果たして現代日本の若者はそういう水準だろうか。自衛隊は果たしてこうなっているか、知っているだろうか。(←じゃあ、お前は自衛隊を認めるのか、と聞かれたならば、私は「安保条約を廃棄し、自衛隊を一旦解体し本当の自衛隊になれば認める」と言おうと思う)

専制から立憲君主制に移り、やっと民主制に移りつつある現代(移ったとは決して言えない)、最も現実的なグランドデザインはこうだ、と私も思う。現実的だけれども、未だ現実化されていないのが、日本の不幸なのである。






最終更新日  2012年07月01日 23時41分26秒
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2012年06月22日
カテゴリ:中江兆民
前野良沢、杉田玄白、渡辺崋山、高野長英、と続く洋学の思想は、明治に至りて、二人の巨人を生む。福沢諭吉と中江兆民である。

福沢諭吉と中江兆民が、近代国家建設の出発点にあたり、どのような文明論、国家論を構想したか、それを見据えることで、内政、外交ともに息詰まっている現代日本の課題が浮き彫りになる、そういう本だと思う。


「福沢諭吉と中江兆民」松永昌三 中公新書
諭吉は日本の独立発展のためには、西洋文明の受け入れは必要不可欠と見ていた。文明を善、正義、力、進歩と見ていて、野蛮→半開→文明の発展段階説をとっていた。衝突があった時に、善や正義は常に文明の側にある。文明化が他の地域の植民地獲得をまねくことも、一定の批判は持っていたが不可避と見ていた。西欧列強の植民地支配を避けるためには、西洋文明を受け入れ一刻も早い国家的独立を達成し、さらには他の地域の植民地獲得に進む以外にないのである。その意味では、富国強兵は必然的選択であった。


さて、中江兆民はどうか。兆民は進歩史観は持っていなかった。思えば、進歩史観は世界史的に見ても19世紀の産物である。それまでも現状批判とか現状改革ということはあった。しかしそれは、古い時代を理想とみて、旧に復す、復古という観点から、現状批判するのが普通だった(ルネサンス、王制復古、聖人治世)。ルソーの社会契約論も、過去に神と民の約束ということで、自由平等友愛が保証されたのである。兆民は中国古代三代の治世を理想状態にとらえていた。そこから見えるのは、「文明開花」は理想社会ではない。兆民はヨーロッパ人のアジア・アフリカ人への態度を厳しく批判しているが、同様に日本政府のアイヌ政策も厳しく批判している。兆民は「開花をむしろ悪とさえみているのである」。一方、福沢もヨーロッパ人のアジア、インド人への蔑視の場面を見て記しはいる。しかし、彼はだから早くヨーロッパ波に文明開化し、「勝ち組に入るべきだ」という主張になるのである。


福沢は、国家間の交際(外交)は基本的には力関係で決まるのであって、一個人の道徳と一国の道徳を混同すべきではないことを強調する。その帰結が「脱亜論」であった。


兆民も文明と侵略は一体だと考えていた。しかし、国家の道徳と個人の道徳を分離してはいけないと考えていた。兆民が目指していたのは、富国強兵ではなく、道義立国であった。それはつまり、福沢の功利主義、実用主義への批判にもなるだろう。


福沢の実用主義は、「西洋近代化が国際社会で生き残れるか、否かを決める鍵」だと信じられている時代にあって、確固とした現実的方策を示したもので、時代の要請に応えたものだっただろう。問題は、福沢の言う実学の精神が真に近代日本人の血肉になったか、ということだろう。


山県有朋は富国と強兵は相互い矛盾する事を承知して強兵を選択していた。福沢は結局その言い分に乗っている。「東洋の政略果たして如何せん」(明15)で、情勢の逼迫のために、増税も朝鮮強硬策も、「国民が選択しなくてはならない」と説く。つまり賛成している。


兆民はその時どう論じたか。ひとつ「論外交」がある。富国強兵策を批判、富国と強兵は矛盾する、「富国は為政者の目的だが、強兵は結局万止むを得ない時の一策に過ぎない」と説く。日本のような小国が進む道は、スイス、ベルギー、オランダよような小国・中立主義を取るべきだと説く。


福沢の言う富国強兵の道。兆民の言う小国主義。明治の始めに2人の思想家が二つの日本の進む道を示していた。これは、現代日本にも未だ突きつけられている「課題」なのではないか。






最終更新日  2012年06月23日 00時01分18秒
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2008年06月20日
カテゴリ:中江兆民
NHK大河ドラマ「篤姫」が好調なのだそうだ。視聴率20%超えがもう10回も続いているらしい。やっぱり宮崎あおいちゃんの魅力によるところが大きいのでしょうね。(←ミーハー的なファンです)

ところで、昨日久しぶりに中江篤介こと中江兆民関係の記事(私は左に「中江兆民」とカテゴリーまで設けている)を書いて思い出したのであるが、私はかねがね大河ドラマの企画としてぜひとも主人公として扱って欲しい、人物と時代がある。それは江戸末期から始まり、日清戦争で列強の仲間に入り自由民権運動が衰退し、社会主義運動が起こるまでの時代を生きた中江兆民の生涯を大河ドラマとして扱って欲しいということである。

「篤姫」が幕末を従来と違った視点で取り上げて成功したのと同じように、この大河も非常にユニークな視点を持つものとなるのは明らか。そしてあまり知られていないが、兆民は本当に波乱万丈、いろんな人物と接点があり、しかも、時代時代の節目にいつも顔を出している点で非常にビジュアル向きなのである。

少年時代は土佐勤皇党の顛末を身近に見、
長崎留学時代は坂本竜馬の小間使いをし、
江戸に出たら明治維新の真っ只中。大久保に掛け合って留学を実現。
そして昨日の記事にあるように、「自由民権運動」の生きたエッセンスを誰よりも吸収する。この留学時代に馬場辰井、西園寺公望などと交友を結ぶ。この西園寺は非常に面白い人物で、兆民と謀って自由民権運動の最右翼の雑誌を創刊したかと思うと、桂園時代といわれる首相も経験する。
日本に帰れば、一般には知られていないが、勝海舟と相談しながらクーデター計画まで考えていた。
西南戦争に折には、仏学塾の学生が戦争に行ったので、戦地の九州まで旅をしている。
そして自由民権運動の中心にいつも座る。
憲法が発布したときにその価値と利用のと方を一番知っていたのは彼のはずだった。
彼は議員としてトップ当選したのに、大同団結運動に失敗すると、すぐに議員を放り出す。
その後右翼団体にも顔を出したりする。
一方で、弟子に社会主義者の幸徳秋水を持つ。
喉頭がんで余命一年半といわれたときには、最期の輝きを示して、見事な生き方をする。

憲法問題が活発になる再来年、
ぜひとも大河ドラマ「篤介」を企画してもらいたい。






最終更新日  2008年06月20日 22時42分11秒
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2008年06月19日
カテゴリ:中江兆民
1873年の秋、青年中江篤介はフランスのモンマルトルの丘に登っていた。篤介はこの丘が好きだった。狭い階段を登りきってうしろを振り向けば、突然ヨーロッパ文明が現れる。計画的に作られた道路、ほとんど二階三階建ての煉瓦造りの家々、ところどころに天に聳える教会が頭を出している。

見えるのはそれだけではない。中心通りにある一画の建物が崩れているのは、2年前の民衆の反乱事件―のちにパリ・コミューンと呼ばれる―の名残だ。篤介は一年前にフランスに来たので、その事件は見てはいない。だから当初は江戸末期の「ええじゃないか」と同じように民衆の不満が爆発した「狼藉」だと思っていた。けれどもこの一年間、酒場でいろんな人物と飲み歩いていると、単なる暴動ではないと思えるようになって来た。篤介は留学前は江戸でフランス語の通訳をしていた。日常会話程度なら会話に困ることはなかったのである。

昨日も酒場で面白い人物にあった。 
その人物は職業は絵描きだという。けれどもこのモンマルトルの丘で画家の卵がよくしているような風景画家ではないと言う。
「即興画家といえばいいのかな。ポンチを描いているんだ。その絵を俺は新聞社に売るのさ。印刷にかけるから、複雑な線は描けない。単純な一本の線で本質を描く。例えば、二年前の共和政府弾圧の顛末とかさ。」
「あれは暴動ではなかったのか」
「まさか。あれは我々労働者が主人になった国家だったのさ。たった72日間だけだったけどさ。俺たちはちゃんと政府も作った。女たちも初めてそれに参加した。子供たちも、教育を受けるのは無料にした。」
「そんな無茶なことを。自由にやりたいほうだいじゃないか。」
「やりたいほうだいじゃあ、ない。君は自由の概念がわかっていない。」

篤介はうっと詰まった。実は自由と言う言葉は深い意味があるということを、フランスに来る前アメリカでも感じていたのである。ここでは便宜的に英語を使って篤介の疑問を解説したい。日本では古くから自由という言葉はあった。「日萄辞書」(1603)においても「liberty」が「自由」と訳されている。しかし、その後の日本の町人文学の中での使われ方は「自由気ままに」という使われ方であった。篤介はしかし、それは町人たちの限られた範囲の中での「自由気まま」であることは知っていたし、町人は侍に逆らうことは許されず、自由とはわがままと同じような意味にも捉えられていたのではある。しかし、アメリカではlibertyとはrightとして扱われていたのである。のちに福沢諭吉が「西洋事情」の中で、「人生の自由はその通義なりとは、人は生まれながら独立不羈にして、束縛をこうむるのゆえんなく、自由自在べきはずの道理を持つということなり」と喝破したように自由と独立はセットであり、権利として捉えられていたのである。

どこからそのような考え方になるか。
篤介自身は知らなかったが、アメリカの独立宣言は、「全ての人間は平等に造られている」と唱い、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げていた。そしてこの宣言の基礎となったのが、1789年のフランス革命で謳われた人権宣言のなかの「自由・平等・友愛」の精神なのである。

「"人間は自由なものとして生まれた。しかも至る所で鎖につながれている。"」とポンチ画家は突然暗誦するように語った。「"人民自ら承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。"」彼は紅潮して言う。「だから大多数を占める我々が話し合って法律を作ったのだ。どこがやりたいほうだい、なんだ?」
「悪かった。」篤介は素直に謝った。
「君の意見は私の人生を変えるかもしれない。もっと教えてくれ。」
「いや‥‥‥」と青年は急に頭をかき、「これは実は俺の兄貴の受け売りなんだ。なんでもルソーと言うえらい学者の書いた「社会契約論」にあるそうだ。」
「ルソー‥‥‥」
篤介はやっと自分の進むべき道を見つけたような気がした。
先ずはルソーを読もう。
それだけじゃなく、フランスやヨーロッパの歴史を学ぼう。自由とは考え方ではない。長い歴史の中で血と汗で勝ち取ってきたものなのだ。俺は福沢諭吉みたいな学者然とした啓蒙活動かにはならんぞ。理論を学べば、あとは実践していく。それなしに、自由の獲得はありえない。
篤介のちの東洋のルソーといわれた中江兆民の出発点がこのフランスの居酒屋だった。

篤介は遠くまで煙るように続く巴里の都を見据えながら一人呟く。「それにしても、あの青年は面白かった。確かジョルジュ・ビゴー といったけ。日本に行きたいといってたな。来たら歓迎しなくちゃ」のちにビゴーは本当に日本にやってきて、ちゃっかり中江兆民の仏学塾の教授に納まりながら、漫画雑誌を創刊したりするのであるが、兆民が日本に帰り、自由民権運動の中心になっていくさまはまたの機会に書きたい。

abi.abiさんからの「40万アクセス記念リクエスト」遅くなってすみません。調べておこうと思った本がどこかにいっていたもので‥‥‥。
彼女からの三題話「アメリカ、フランス、自由」はこんな感じでいかがでしょうか。
travel_03_002.jpg
モンマルトルの丘から眺めた雪景色の巴里






最終更新日  2008年06月19日 23時57分58秒
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2006年06月10日
カテゴリ:中江兆民
癌で闘病中の辺見庸氏の講演会が6月24日に大阪中央公会堂である。誰か行く事があったなら、ぜひとも、話の内容はともかく、『どんな風に話をしたのか』教えて欲しい。

10日付朝日新聞に『「無知の無恥」怒りの奔流』という記事が載った。『体調をおして、遠出を決めた思いを聞きたいと取材をお願いした』らしい。『長時間の面談は遠慮するつもりだった。が、結果は4時間も痛罵させ続けてしまった。札びらで顔をはたくような「資本の論理」が席巻する風潮など抵抗したい対象はあまりに多い。その中でなぜまず憲法なのかと、つい私が口にしたのがきっかけだった。「生き死にをかけた他者のテーマに対する畏れを知れ」と、軽蔑と怒りの奔流が襲ってきた。したり顔でひとごとのように語るその態度こそ冷笑主義だ、生身の実感で問題を扱わず、結局は矛盾に加担すると「無知の無恥」をなじられた。』

『あとどれだけの言葉をつむぎ出せるのか、真剣にならざるをえない。行動や方針を提起する気はない。感応した言葉を一人ひとりが持ち帰ってくれればいい。』とも言ったらしい。

私は辺見庸氏の著作は読んだことはない。けれどもこのような生き様を私は知っている。中江兆民は医者に食道がんであると告げられ、後どのくらい生きられるのか聞いて『一年半、善く養生すれば二年を保すべし』と聞く。兆民、一年半とは思ったより長かった、寿命の豊年なりと、『一年有半』を記すのである。『一年半、諸君は短促なりといはん、余は極めて悠久なりといふ』こうなると話す言葉は大事ではない。生き様が大事なのだ。ぜひ誰か聞きに言って、どんなんだったのか教えてほしい。

講演会は24日午後6時半開演。参加費は当日1200円。前売り(1000円)は、16日までに郵便口座(00970・4・243904、辺見庸講演会実行委員会)に振り込み、振込金受領証を当日持参。問い合わせは同委員会(075-561-8792)へ。






最終更新日  2006年06月11日 02時39分55秒
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