5071291 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

再出発日記

PR

全59件 (59件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 >

加藤周一

2020年01月07日
XML
テーマ:本日の1冊(3219)
カテゴリ:加藤周一

『称えることば 悼むことば』加藤周一 鷲巣力編 西田書店

他をして自らを語らしむ。加藤周一の書物への推薦文も、友人の弔文も、結果的には自画像になっていたと私は思う。2008年12月5日、日本の知性は、そのひと頭分低くなった。10年を過ぎて、少しその幻影を追ってみた。


自己の感受性に忠実に生きるということ。夢想家だけが、帝国主義戦争の本質を見破れるだろう。(『片山敏彦著作集』1971)

その仕事は、近代日本の散文の基礎を築くことであり、全く独創的な一つの文学形式を生みだすことであった(いわゆる史伝)。しかも科学者としては、衛生学の技術を輸入し、実験科学の精神を説き、思索家としては、儒家の伝統に従って、超自然的な絶対者をではなく天下国家の現在と将来を考え、儒家とは異なり、単に政策ではなく社会構造そのものに思いを致した。仕事は多方面に渡り、業績は、何れをとっても、群を抜く。(『鴎外全集』1971)

いま日本の思想家を、その独創性、対象の包括性、論理の整合性、影響の拡がりによって測り、五指を屈するとすれば、たとえば仏家に空海・道元、儒家に徂徠・白石、国学に宣長をみるだろう。(『荻生徂徠全集』1972)

中村真一郎に三善あり。第一は、天下の政事に係らぬことである。故に安んじて風雅の道に遊ぶことができる。第二は、書を読んで古今東西の文芸に渉ることである。したがって文壇一時の流行を文芸の大道と心得ることがない。第三は、その文章が明快で、おどろくべし、読めばその意味がはっきりとわかることである。思わせぶりの美辞麗句の落ちついて考えれば何のことかよくわからぬ深刻さがないのは、けだし当代文苑の奇観というべきだろう。(中村真一郎『この百年の小説』1974)

この人々は、単に気分に従って生きたのではなく、考えて自己の生涯を択び、常に大勢に順応したのではなく、しばしば少数意見に徹底し、近代日本の発展を、単純な成功物語ではなく、激しい批判の対象としても捉えていた。(『日本人の自伝』1980)

大江健三郎は何故抗議をするのか。(略)それはおそらく平和であり、樹木であり、生命の優しさでもあるだろう。たしかにそれこそは、もし文学者が語らなければ、誰も語らないだろう壊れ易いものである。(『大江健三郎同時代論集』1980)

二葉亭四迷は、いやだから首相の宴会には行かない、といった人である。「このいやといふ声は小生の存在を打てば響く声也」。そのことと、彼がロシア文学の中で、ツルゲーネフばかりでなく、ガルシンやゴーリキを訳したこと、また小説を書いて同時代の日本の一市民の日常生活を、その条件を超えようとする願望との関連において描いたこと、さらに日本語の散文を日常的な話し言葉に近づけた(一致させたのではない)こととは、密接に係っていたにちがいない。(『二葉亭四迷全集』1981)

日蝕がいつ起こるかは正確に知ることができるが、革命がいつ起こるかはわからない。しかし日蝕よりも革命の方が、われわれの生活に大きな影響を与える。自然科学と社会科学とでは、予見可能性と共に扱う対象の性質が違う。その方法はどう違うか。社会科学的の広大な領域を見渡して、およその見当をつけるためにこの講座は役立つだろう。(『岩波講座 社会科学の方法』1992)

ーーーーここに至るまで、未だ全体の1/4ほどからしか抜書きしていない。何処を抜書きしても、恐ろしいほどにその著者の本質を突き、怖いくらいに加藤周一自身を語っているようにしか思えない。たった200-800字ほどの文の中に、加藤周一ほどに10数巻に渡る全集の本質を閉じ込める力量を持つ評論家を、現代日本において私は知らない(誰かいたなら教えて欲しい。しっかり読んで批評させて頂きます)。

「悼む」文章は「称える」よりも比較的長いが、長くても10ページほどに過ぎない。その中に人物を簡潔に的確に纏めて余す所がない。いや、ほとんどはもっと短く纏める。私は40年前に朝日新聞で「福永武彦の死」を読んだ(1979.8.15)。1800字程の文章の中に、未だ読んだことのなかった福永武彦の全てと、限りない友情が詰まっていた。加藤の尊敬するサルトルの弔文、青年時代の師匠林達夫への弔文・弔辞、その他さまざまな友人たちへ捧げる文章。加藤周一ほどに友情を大切にする文学者を私は知らない。

いかん。だんだん、だらだらした文章になってきた。切ります。(文字総数1801)







最終更新日  2020年01月07日 08時02分14秒
コメント(0) | コメントを書く


2019年10月07日
テーマ:京都。(5300)
カテゴリ:加藤周一
9月23日(月)


2日目。朝の散歩兼朝食のため6時半に出る。宿は西本願寺の真ん前だ。







台風の影響は、幸いにもほとんどない。京都らしい建物も物色する。


西本願寺前の消防団は、以前も写真に撮ったかもしれない。


結局、モーニングをやっている喫茶店は、片鱗さえもなかった。京都は、パンが名物のはずなのに、モーニング文化がない。ファミリーマートの店内で食べる。カードが使えるのが嬉しい。


8時半出発、205番バスで衣笠校前で降りて10分ほど歩く。講堂に着いたら、9時半から18時半まである、加藤周一生誕100年記念国際シンポジウムの連続講演は既に始まっていた(会場内写真不可なので、載せられません)。
一番手は奈良勝司氏「近代日本の体外観と西洋理解」。頭が悪いので、難しい。加藤周一論ではなくて、江戸時代から明治維新にかけての国民意識の型を述べた。おらが村の中の1番意識(武威)と帰属集団の中で我をはらずに勤勉に努める(通俗道徳)が、現代まで残っている。知識人は個として孤立する(加藤周一)。というような意味だったかどうか自信がない。
2番手は中国人の孫歌氏「対談における加藤周一」。1番むつかしかった。竹内好や丸山真男との対談記録を駆使して、なんかいろいろ言っていた。


昼休み中に、加藤周一文庫に行こうとしたら休みだった。それはないでしょ!これを楽しみにしていたのに!講堂地下で、丸山真男文庫共同の「<おしゃべり>から始まる民主主義」という展示をしていた。確かに2人は対談の名手ではあったが、あまり大きな感慨はなかった。青春ノートの資料集、高かったし、カードは使えなかったが、約800円近く値引きしていたのもあり、遂に買ってしまった。この旅で本代は13200円にも及ぶ。嗚呼!
午後一番手は、池澤夏樹氏「『日本文学史序説』を読む」。喋り慣れていることもあって、1番理解出来た。幾つか重要なことを言っていた。私なりにまとめてみる。
加藤周一と初めて会ったのは、父親(福永武彦)の葬儀の時だった。次が1969.8.7の反核シンポジウム、次の対談をした時(2003)に、「あの人のことがわかるようになった」。←これは想定外の遅さだった。理系出身、外国生活が長い、リベラルと加藤周一と生き方が似ているので、もっと前から影響を受けているのかと思っていた(だって加藤周一の親友、福永の息子なんですよ!)。ずっと、あのノンポリの吉田健一から影響を受けていると告白していたのを不思議に思っていたが、少し納得した。
池澤夏樹は、日本文学全集を編む時に、加藤の日本文学史序説の「はじめに」部分から、教わった。他にも丸谷才一、吉田健一、中村真一郎の批評家を準拠した。加藤周一は、文学史を書く時に外国文学と比較し相対化する。それは一休宗純を述べる時にイギリスのジョン・ダンを引き合いに出すかの如くであり、狭い比較ではない。そして、客観性を担保する。
加藤周一のいう日本文学の特徴は以下の通り。
・文学が哲学をも代行する(一休宗純)。
・「具体的、非体系的、感情的」で抽象性を欠く(ソクラテス・プラトンは出てこない)。
・時代を超えて統一性が著しい。
・新しいものの追加とゆるやかな変化、建て増しを繰り返す(長歌→和歌→連歌→俳諧→短歌)。
・最初から叙情詩(古事記)叙事詩(万葉集)劇(猿楽)物語、随筆、評論、エセー全て揃っていた。日本語で書かれた文学史として、こんなに長く続いているのは、中国を除いて無いのではないか。
・細部に意を注ぎ、全体を見ない。
・求心的傾向。京都、江戸、東京。
・文学者とその帰属集団との密接な関係(文壇とか)
池澤夏樹は、これに加えて、近代以前は
・恋愛・性愛の重視(武勲の話はほとんどない、セックスか権力争い)
・自然への視線(成る・生るVSつくる)
・弱者への共感(勝ち負けの話になると、負けた方に心を寄せた)
・平安期までは女性の活躍(応仁から樋口一葉まで)現代は文学が1番ジェンダーが進んでいる。
序説への批判
・序説は人文地理的考察から始めてもよかったのではないか?
何故「建て増しの繰り返し」で済んできたからと言えば、同じ民族で済んで来たから
日本の特性としては、
島国であること、大陸との距離があること、異民族から独立を保てた「自然災害さえ我慢すれば侵略はなかった」、中緯度のモンスーン気候、キリスト教世界観とは違う「成る・生る」という動詞が基本の世界観
質疑応答より
・池澤夏樹のいう文学特徴の中で、異民族からの独立は1945年から保てなくなったと思うが、文学の特徴も変わったのではないか?
「変わったと思う、弱者への心の寄せ方も変わったと思う」池澤氏は、明治時代に変わったという認識だった。←これはとても重要な指摘である。私は、弥生時代の倭国統一も、維新の戦争を経ない統一も、弱者への視線を重視する日本人の特性が影響している、という仮説を立ているが、日本人がアジア侵略に向かったのは、その特性が崩れたから、という言い方が出来るかもしれない。現代の韓国報道も、近代以前ならば決して起きないことだったのかもしれない。自明のことではあるが、文学史とは、即ち思想史なのである。​
次は李成市氏「韓国から見た「雑種文化論」」である。韓国にも雑種文化的特性はある、というおおまかに言ってそんな話だったと思う。面白くなかった。
娘のソーニャ・カトー氏が短い挨拶をした。これが良かった。(あくまでも私的まとめです)
ヨーロッパ連合に対して英国離脱等内から壊されようとしている。日本も韓国に対する植民地的な考えが起きている。父はなんと言うか?どんな答えをするか?どんな質問をするか?と考えてしまう。理想と理性の精神が失われようとしている。
次の加藤周一が現れるのを見逃さない様に目を開こう。
次の加藤周一が必ず現れると確信しています。
この前の李成市氏の講演への質疑応答で、あいも変わらず、韓国を植民地化したことの真偽や、併合中で良いこともしたと言う事を、臆面もなく質問した人がいたので、余計によかった。
この後のシンポジウムは欠席した。それに参加していたら、今日中に帰れなかったかもしれない。また、あくまでもアジアの中の雑種文化論を語る大きなテーマは、私的には合わなかった。アジアの中でどのように平和に生きていけるのか、それを探る講演にしてもらわないと、私には合わない。これのために京都に来て1日潰したのだが、うーむ、イマイチだったと言うべきか。
鈍行で倉敷に帰る。家に着くと、11時近くになっていた。
10123歩






最終更新日  2019年10月07日 14時42分43秒
コメント(0) | コメントを書く
2019年02月13日
テーマ:ニュース(87374)
カテゴリ:加藤周一


アーカイブス「加藤周一が残した言葉」2009.3.NHkより

永田誠さんの奮闘によって、加藤周一映像のYouTubeが多くUPされている。ここに載せるのは、一番初めに載せるに入門編として適当だ。短くポイントを押さえているだろう。

亡くなる半年前に撮影したNHkの追悼番組を映して、それを見ながら姜サンジュなどの言葉を載せている。すでに癌は全身に転移していて、身体は衰えているが、表情は非常に鋭い。10年前の語りではあるが、まるで安倍一頭政治の今を見据えて、「現代をどのように見たらいいのか」ということを語っているかのようだ。


ここで加藤が言っているのは「教養を持て」ということだ。このあと世の中を席巻するポピュリズムをこの時点で、根本から批判している。

なかなかこういう映像までチェックできないのだが、少しずつ紹介していきたい。











最終更新日  2019年02月13日 11時40分29秒
コメント(0) | コメントを書く
2018年12月27日
テーマ:本日の1冊(3219)
カテゴリ:加藤周一


加藤周一の娘ソーニャさんの寄稿文by「図書」12月号

なんとか、手に入れた!題名は「夕陽妄語(とドイツ語のその言葉)」。ソーニャ・カトー文、高次裕翻訳。

内容は、​立命館の加藤周一文庫開館記念講演の内容​を大幅に膨らませたもののように思えた。あの時、聞きそびれていたことや、曖昧だったことも随分明らかになったような気がする。新しく知ったこともあった。以下、私的に「おおっ」と思ったことをメモする。

・(私は)この家系で加藤という名を継ぐ最後の者なのだ。
←つまり、家系的には加藤家は絶えるということなのか?最初の奥さん(京都の人?)との間に子供はいたのか?矢島さんとは子供はできなかったのか?いかん、いかん!下世話な感情です。
・←ウィーンとの奥さんとの関係が、これを読む限り、何故別れたのか、一向にわからない。
・パリでの加藤周一との共通の故郷として、パンテオン広場にある、ルソー像、ゾラ像と向かい合い、ヴォルテール像のすぐ隣のホテルを挙げた(←1度行ってみたい)。
・加藤周一のお気に入りの場所(ソーニャさんの定点)。クリュニー美術館の「貴婦人と一角獣」ブランクーシーの彫刻「接吻」(←1度行ってみたい)。
・ソーニャさんは、20代にヨーロッパ情報の加藤周一への通信員だったという自覚。←それは当然あり得るだろう。我々とは違い、そういう「生の声」を発信する友人は加藤周一にたくさんいただろう。それが彼の判断を正確なものにしていただろう。
・ソーニャさんは「(加藤周一が)政治家になることが、ひとつの選択肢としてあったのか」と思っていたようだが、日本人の読者でその選択肢があり得ると思う人は先ず居ないだろう。
・どうやらソーニャさんにとっても、加藤周一のキリスト教洗礼はショックだったようだ。「父は最期の時は一人の人間だったということだ。」ということは、この行動は、娘に相談していないということなのだろう。

あゝそうだ。ごめんなさい。2018年12月は、加藤周一没後10年、命日のある月でした。もう10年。はや10年。

・「制定から72年間を経過した憲法第9条保持のために戦う者として、私の父は今日でもまだ知られているか」ことあるごとに彼女はそう学者や学生に問い、返答は曖昧で「日本の社会には、そもそも平和の象徴となる人物がいない」と聞いたそうだ。落胆しているソーニャさんに言いたい。少なくとも私は、9条の会で加藤周一の果たした役割は、誕生から立ち上がり運動まで導いた役割は、9人の中で1番重く、決定的だったと思っているし、9条改憲を2018年末のギリギリのタイミングで、またもや退けたことは、9条の会の存在なしには語れないことであり、よって、日本の平和に果たした役割は、とてつもなく、非常に大きい。と心から思っています。

2018年12月読了






最終更新日  2018年12月27日 08時29分24秒
コメント(0) | コメントを書く
2018年09月18日
テーマ:本日の1冊(3219)
カテゴリ:加藤周一


「終わりと始まり」池澤夏樹 朝日新聞出版社

2008年の末に亡くなった加藤周一の「夕陽妄語」に代わり、2009年4月から池澤夏樹の連載が朝日新聞紙上で始まった。 私はその前後に20年近くとっていた新聞購読を中止したので、このエッセイを読んだ記憶がほとんどない。本格的に加藤周一連載の後継に落ち着くことも、実は幾分疑っていた(それまでは暫定的に大江健三郎の連載があった)。あれから10年近く経って、既に二巻目が出ているこの本の第一冊目をやっと読んだ。

池澤夏樹は加藤周一の後継であると思っていたわけでもなく、期待していたわけでもない。それでもやはり新聞後継連載のエッセイを読んでみるのが怖かったのだろうと推察する。

題名の意味が不明だったが、加藤は漢詩から採ったが、池澤は「さりげないものがいいと思って」外国人の詩から採ったことが、今回知れた。いい詩である。2年後に詩の内容が現実(震災)に追いついたのは、偶然である。

読んでみると、池澤夏樹は多くの点で違っていた。文学よりも、旅の話が生き生きと語られる。ともかく池澤夏樹は「行動的」である。被災地に何度も通った。加藤も震災後神戸に訪れているが、その比ではない。もちろんだから優劣をつけるわけでもない。最新のマンガや映画の内容を何度も俎上に載せる。古典を大切にしていた加藤とかなり違う。日本に帰って住んだ土地である沖縄と北海道の話題が多くを占め、「戦後日本文学の1番大事な作家」と評価する石牟礼道子氏の関係か、水俣の話題も多かった。3.11の後からは、少なくとも2年間の2/3は震災関連話題で占める。古今東西の遠くに広がらず、比較的身の回りの話題が多いというのは加藤周一のそれとは違うだろう。

しかし、教養はやはり古今東西に広がっており、社会を批判的に見る目は比較的鋭い。イサム・ノグチが好きだから、政治の話をしないわけではない。むしろ積極的にしている。これらは「夕陽妄語」の伝統に似るだろう。

加藤周一は私にとっては、仰ぎ見る大先生だった。池澤夏樹は大学で演習のお世話になっている先生のような気がする。学ぶべき所は多いが、時々は「それは違うでしょ」と言いたくなるのである。ともかく、読み継いでいきたいと思った。

2018年9月読了






最終更新日  2018年09月18日 09時10分08秒
コメント(0) | コメントを書く
2018年05月08日
テーマ:本日の1冊(3219)
カテゴリ:加藤周一


「文学とは何か」加藤周一 (解説・池澤夏樹)角川ソフィア文庫

この本には「思い出」も「想い」もあるが、それを今は展開出来ない。今回は特にこの文庫本のために書き下ろされた池澤夏樹の解説について、私の感想を書きたい。

旧版「文学とは何か」は1950年に角川新書として刊行された。少し読みやすくして1971年に新版を角川選書として出している。今回はおそらく新版はそのままに解説だけを付け足してソフィア文庫の中に組み入れたようだ(2014年7月初版)。何故か加藤の著作集に入っていないこの文学入門が、安く簡単に読めるのはたいへん喜ばしいことだと思う。

さて、池澤夏樹の解説だ。何故それに注目するのか?朝日の「夕陽妄語」が、加藤周一の死を以って終わったあとに、それを引き継いだのは池澤夏樹の連載だった。池澤夏樹は加藤周一の後継者なのか?加藤周一ファンとしては半分納得し半分訝った。外国生活が長く、古今東西の教養を持ち、社会的発言もまともな彼は後継者に相応しかったかもしれない。しかし、2014年11月から始まった個人編集の日本文学全集に、友人の中村真一郎や父親の福永武彦はあるのに、この巻に相応しく、個人的にも親しいはずの加藤周一が2人の巻に入っていなかったのに、先ずは私は「おや?」と思った。もっとも、それだけならば私は「加藤は評論家だから」と思ったかもしれない。「吉田健一」に一冊を充てた時に解説を書いて、池澤夏樹は「(自分の文学観は)主に評論家の吉田健一と丸谷才一に依っている」とあった。びっくりした。何故、よりによってあの究極のノンポリの、社会意識がゼロの吉田健一が入るのか。私はこの一冊を読み通すことが出来なかったので、その内実は未だわからない。ただ、池澤夏樹はこの解説においてこう書いている。

(文学とは何か、という問に答える本として)池澤夏樹は他に3冊の本を挙げる。

石川淳が『文学大概』を書いたのは43歳。
吉田健一の『文学の楽しみ』は55歳。
丸谷才一の『文学のレッスン』は85歳の時だが、『文学とは何か』を書いた時に加藤周一は31歳だった。若い分だけ覇気があり、無謀であり、勇猛だった。(197p)

先ず最初に、先の御方よりもこの文学入門が劣るかのように書いているのである。先ず構成がよくないと手厳しい。文学とは何かを論じるに、「客観的な方法」から入っているのは、間違いだと断じる。

しかし言うまでもなく文学はまずもって主観の装置だ。それは加藤だってよく判っている。普遍的な文学の定義を求めて客観に走ったが、そこから主観の方へ少しづつ戻る形で議論は進む。(198p)

そこから、各論には感心する所があると言って、流石に「解説」なので褒めて終わるのであるが、「ホントは褒められた本じゃないんだよ」と言外に書いているようで、私はむっとしている。ちょうどこの頃は、池澤夏樹が文学全集を編んでいて、おそらく吉田健一や丸谷才一を集中して読んでいた最中だと思うので、余計このような書き方になっていたのだと思う。

もちろん、「文学は主観の装置だ」という池澤夏樹の意見に異論はない。だからと言って、論理がグルリと回っているからと言って、老獪な評論家と並べて貶めるようなこの解説はどうかと思う。ホントに池澤夏樹は加藤から影響を受けていないのか?吉田健一を規範にした池澤夏樹は、吉田健一ならば決して書かなかったような社会批評を、解説の最後に付け足している。

誠実な批評家は自国の文学に対して厳しくなる。(略)この本が刊行されたとき、日本はまだ敗戦の空気の中にあった。それを終戦と言い換えて済ませるわけにはいかないと加藤は考えた。それが「日本近代文学の不幸」という部分に表れている。そして、戦争が敗北に終わってから69年後の今、この本が書かれてから64年後の今、加藤がこの本に盛ったと同じ批判を日本の社会に向けなければならない。「孤立しないためには、個人主義が個人的にではなく、社会的に徹底させられる必要がありましょう」というのはそういう意味である。(202p)

池澤夏樹の(あえて言う)自分の父親にさえやっていない「加藤軽視」は、もしかしたら自己への「批評が厳しくなった」現れなのかもしれない。

2018年5月読了






最終更新日  2018年05月08日 11時40分10秒
コメント(0) | コメントを書く
2017年09月11日
カテゴリ:加藤周一



9月9日朝、新幹線に乗った。遅い2日のみの夏休み(実質は1日半)のために京都に行く。本当は、去年正月の島根行きのリベンジを計画していたのだが、日曜日午後の野暮用を思い出したので、新幹線1時間の処に急遽変更した。目的は何か。これも約1年間の願望だった立命館大学図書館内にある「加藤周一文庫」を尋ねる、それのみである。本来ならば1日あれば済む。でも1年間行けなかった。こんな機会がないとずっと行けないままだ。




京都は思い出の地だ。38年前、私はふたつの大学を受験するために、当時同志社の学生だった、兄貴のほとんど穴倉の下宿に10日間ほど泊まっていたことがある。受験と受験の間に、私は思いつく限りの京都観光を独りで回った。もちろん寂しくはなく、とてつもなく面白かった。私の生涯で、5ー6回は「世界が広がった」経験をした時があるが、間違いなくこの時はその一つだったと思う。私はその時に日本史と日本の美術に出会った。それはそのまま、その直後に出会う加藤周一の数々の著作を理解する手がかりになっただろう。

京都駅前から立命館大学行きのバスに乗る。




二条城。




バスの車窓から見ると、戦災にあっていない京都の町並みは、しかしほとんど千年の都の面影さえ観ることができない。古いものを遺さずに無秩序に街づくりをするのは、外国人にとって理解不可能だろう。台湾と似ている。あそこはせいぜい200年ぐらいの歴史しかないが。加藤周一は、そのことに異議を唱え少し運動をしたが、焼け石に水だったようだ。




立命館大学に着いた。新館の図書館のなんと立派なことか。




受付で、所定事項を書いて(免許証などの証明書は必要)加藤周一文庫の見学の許可をとる。写真撮影は不可なので、パンフの表紙だけを載せる。

1948年ごろの日記が展示されてあった。また、加藤周一の愛用の机と、寛ぐ時の椅子などを見る。それらを新調せずにずっと使い続けていたらしい。確かに悪いものではないが、もっと機能を上げようという気持ちを持たなかったのだろうか?鷲巣氏は、そこが加藤周一たる処だと指摘する。

加藤周一文庫の二万冊の蔵書は、圧巻であり、その一部と雖もその内容は歴史の中の古典全集はもとより、かなりマイナーな岩波文庫新書を揃えている。様々な外国情報も網羅する。NHK歴史ドキュメント、周恩来語録、人民日報資料集まである。小田実・自立する市民、三池争議資料集、中国石窟のシリーズ、安部公房短編集、池澤夏樹の各本、もちろん中村真一郎の各本、80年代の雑誌文化評論、みすず、丸山真男手帖、古いユリイカ、等々等々。森羅万象の全てに興味があり、私の蔵書の10倍近くを持っていた。

ひとつ気になったのが、蔵書の一冊(と言っても確かめたのは数冊のみ)たりとも、書き込みが無いのである。新品同様の本も、ボロボロになった古い本も無いのだ。加藤周一がノート魔だったのは知っている。ノートをとりながら、本を読んでいたのは十分に考えられる。しかし、加藤周一は移動の際も必ず本を持ち歩き読んでいたと何処かに書いていたと思う。付箋紙の無かった昔から、ノートをとりようがない昔から、彼はどうやって本の内容をまとめていたのか。頭がいいのは良く知っている。しかし、せめて線を引いた方が「合理的」なのではないか?

ともかく、質はもとより、量だけでも追いつかないか?という予想は簡単に砕け散った。




予想を若干超えて、やはり加藤周一はすごかった。という感想しか出てこなかった。鷲巣氏の、ノートを分析した、加藤周一研究が早く出ることを祈る。




終わって、立命館国際平和ミュージアムに行った。これで3度目。常設展示の図録を買う積りだったが、やめた。3度目となると、瑕疵も見えてくる。




コンサートもできるような、大きい一階エントランス。火の鳥が飛んでいる。

珍しい展示では、厭戦を煽る手紙や、トントントラカリの替え歌で厭戦をうたっていた。高地らしいが、庶民のささやかな抵抗があるのを見れて嬉しかった。




B29迎撃用ロケット燃料精製装置。




本来、鉄製の精密機械である。それを陶器でも作れるという日本人の器用さ、ここに極まれり。戦争の愚かさ此処に極まれり。

全体的にはバランスよく展示している。しかし、である。現代情勢に言及しているのは、イラン戦争まで。ISはもとより、戦争法をめぐる日本の情勢に一切触れていないのは、はっきりいって片手落ちだろう。




昼食は近くの中華店で、北京定食。






最終更新日  2017年09月11日 11時42分34秒
コメント(0) | コメントを書く
2017年04月07日
テーマ:本日の1冊(3219)
カテゴリ:加藤周一



「世紀末ニッポンのゆくえ」インタビュアー小尾圭之介 ミオシン出版


文教大学情報誌に連載されたインタビュー集。1997年、ちょうど20年前の本である。お目当てはもちろん巻頭の加藤周一。日本の「システム」についての、私にとっては自明の、しかし多くの読者には新鮮で鋭い指摘が続くインタビューだったろうと思う。

加藤は20世紀日本の成功の要因を支えた「工業化」を更に支えたのは、一定の条件があったからだという。それは日常生活に犠牲が少なかったこと。日常生活の様式の変化は少なかった。また、天皇制官僚国家を民主主義の犠牲の上につくることに成功した。

しかし、
「一般に、少数意見を内部に抱えている国•団体は、状況が変われば、今まで少数意見だったものが多数意見になって、別の方向に進むことが出来るのですが、日本では、少数意見を排除してしまうことで能率は高めたが、必要な方向転換もできないようになったと思います」(15p)
「明治以来の日本は集団主義で一億一心、団結して与えられた目的を達成することはできるが、方向転換能力がないために必然的に失敗します。この100年に成功も失敗もあって、戦後もその気質が続いていると思います。しかし、今、それが隠されているように見えるのは、戦後がアメリカの占領下から始まったからでしょう。現在は法的に独立し、内政面では占領は終わりました。しかし、外交政策と軍事面ではだいたいアメリカに従っていますから、アメリカの準保護国的状況、実質的には半独立国です。」(17p)

半独立が何故続いているのか。
一つは、アメリカが解放軍として、軍事型官僚国家から解放したから、歓迎した。
一つは、日本の国民性。現実を直視しない。衣食足りて心理的に政治から遠ざかる。「寄らば大樹の陰」もあった。
一つは、鎖国の影響。国際情勢を客観的に見ずに、絶えず日本との関係においてだけ見る。最近では、冷戦が終わると同時に、ドイツは基地問題に反応した。日本はしなかったし、今もしていない。(19p)

21世紀への展望を聞かれて加藤周一は「南の犠牲で繁栄する北」という構図を変えなければならない、と解く。1996年11月の段階では、これはあまりにも預言的だった。曰く。
「経済力、軍事力は北にかなわないとなると、南のアイデンティティーを守るためにできることはテロリズムだけです。これは絶望的な暴力です。希望を与えることがテロへの唯一の対策です。そういうことに日本がいくらかでも貢献することが望ましいと思います」(28p)しかし現実はそうではなく、アメリカの腰ぎんちゃくに成り下がっているのはご承知の通り。国家間の同盟の問題や、科学技術問題特に原子力発電などのエネルギー問題でも文化的アイデンティティーでも預言的発言をしているのだが、割愛する。

改めて、加藤周一の視線の届く距離は長いと思った。

2017年3月31日読了







最終更新日  2017年04月07日 15時23分34秒
コメント(0) | コメントを書く
2016年08月19日
カテゴリ:加藤周一


(知人のメーリングリストから拝借。赤旗の記事らしい)

録画していたETV特集の「加藤周一 その青春と戦争」をやっと観た。素晴らしかった。幾つかの小さな発見と、何よりも加藤の瑞々しい文章と、それを読む学生の瑞々しい感性に触れて愉しかった。

死後数年経ってお菓子の缶に保存されていた1937年(17歳)から1942年(22歳)までの、評論や日記、詩などを書いたノートが見つかり、それを学生やいろんな人が読みながら、紹介してゆくというものでした。

全体的な感想を云えば、池澤夏樹が言うように、
「加藤周一は最初から加藤周一だった。観察者であり、分析者だった。論理的に生きて行こうという"決意"がある」ということになる。しかし、学徒出陣の一年前にノート執筆を已めた加藤の中に、理不尽な死を前に何とかして世界を理解しようとする心が、揺れながら書かなくてはならないという気持ちも併せて観て取れる。論語を模した自叙伝や、後の三題噺を彷彿させるような「東京」という短文、等々。ここにはホントにその後の加藤周一を予見させる文章に満ちている。驚くのは、何処を切っても加藤周一なのに、文章そのものをこの後の分筆活動で「切り貼り」することは一度も無かった、ということ。

加藤周一はフランス文学「チボー家の人々」を自ら一部翻訳する。そこには、ヨーロッパの街の中、第一次世界大戦の直前にもかかわらず、人々が平和に無邪気に生きている様子が描かれるだろう。加藤周一は書く。
「歴史は繰り返す。1940年はいかに1914年に似ていることか。現代は何度絶望したら許されるのか。」加藤がそう書いたその一年後に太平洋戦争が始まった。
歴史は繰り返す。2016年はいかに1940年に似ていることか。現代は何度絶望したら許されるのか。

現在95歳の加藤周一の妹の久子さんを、初めて見た。久子さんは、当時叔父の軍人岩村清一(ロンドン軍縮会議にも出席)の影響が強かっただろうという。叔父も戦争には負けると思っていて、戦争には反対だったらしい。


加藤周一の同級生の貴重な"生き残り"山崎剛太郎氏も登場。それと同時に、加藤周一がよく言及していた中西哲吉氏の写真も出てきた。今回、加藤が亡くなる直前のメモも紹介される。
加藤周一はその親友のことをだいたいこんな風に書いていた。
「私は戦争で2人の親友を失った。もし彼らが生きていたならば、日本もが再び戦争の道へといくことを許しはしない。私は親友を裏切りたくない。憲法9条には親友の願いが込められている」中西は池澤夏樹によれば、加藤周一よりも優秀だったかもしれない、という人だった。

立命館の学生が加藤周一の青春ノートを真剣に読み込んでいて、嬉しかった。加藤周一を「古代に"逃避"している」とか「傍観者」とか、学生特有の性急な言葉を使いながら、基本的に加藤周一を理解していたように思う。最後のまとめ部分で、加藤周一から学んだ感想を述べて一人の学生の言葉が印象的だった。
「歴史は繰り返すのは、"人の弱さ"かもしれないけど、それを乗り越えることがあるとすれば"人の力"かもしれないと思う。そのように生きる力は、"人をつなぐ"ことだと思う」

がんばれ。がんばろう。

ちょっと急がせますが、再放送のお知らせです。
ETV特集「加藤周一 その青春と戦争」
8月20日(土)午前0時〜1時(金曜日の深夜)
http://www4.nhk.or.jp/etv21c/2/

また、ツイッターの「加藤周一文庫」からの情報です。
本日のETV特集「加藤周一 その青春と戦争」で扱われる加藤の「ノート」は、インターネット上で全文を公開しています。番組を見て関心を持たれた方は、ぜひこちらもご覧ください。trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U…
15:41 - 2016年8月13日







最終更新日  2016年08月19日 11時37分20秒
コメント(2) | コメントを書く
2016年05月08日
カテゴリ:加藤周一
加藤周一文庫開設記念講演会が昨日立命大であった。

以下はホームページでのお知らせのコピー

2016年4月、立命館大学は衣笠キャンパスに新たに平井嘉一郎記念図書館を開館し、
その中に「加藤周一文庫」を開設しました。
本文庫の意義を広くご理解いただくため、「加藤周一文庫開設記念講演会」を開催します。

◆加藤周一文庫

◆加藤周一現代思想研究センター

2016年5月7日(土)13:45〜17:10
講演1:「加藤周一 −世界を見つめた旅人」講師:ソーニャ・カトー
講演2:「加藤周一さんを再読する」講師:大江健三郎氏
表彰式:ソーニャ&シュウイチ・カトー スカラシップ表彰式

会場:立命館大学衣笠キャンパス

行きたかったが、仕事があって京都行きは早々に諦めていた。そしたら、Ustreamでライブ中継してくれることになった。大江健三郎さんの講演は途中で席を立たざるを得なかったが、貴重な話を聞くことが出来た。

先ずは立命大吉田学長は「我々はいま時代の岐路に立っている。だからこそ、加藤周一を再読する意味がある。」と挨拶。

加藤周一自選集その他を編集した鷲巣力氏(研究センター所長でもある)が司会を勤めた。鷲巣氏は、5年間加藤周一文庫開設のために準備してきたらしい。

ソーニャ・カトーさんの話は、私なりにまとめると以下の通り(聞いたのをメモしているだけなので、話の全てでもないし、正確かどうかわかりません。よろしくお願いします)。
201605080739_2109_iphone.jpg
私の父の眼差しについて話したい。私の父は、二つの世界の旅人でした。

私は生後間もなく加藤周一とヒルダ夫婦との養子になりました。

父は日本人でいっとき一緒に暮らしていましたが、その後はウィーンの私と母とは、別々に暮らしていた。父は時々ウィーンに来た。

父が日本からプレゼント持ってくるのが楽しみだった。特におせんべい。私はその缶に宝物を入れ、それもまた宝物にしました。

母は私が11歳の時になくなりました。その時ほど悲しそうな父を見たことはなかった。救えなかったことを悲しんでいた。

年に一度お互い訪問するのが常になった。初めて日本に行ったのは17歳。80年代終わりの頃、三週間の日本滞在は蒸し暑さにびっくりした。父の習慣を見、テニスをする父の姿を追いかける、それだけで幸せだった。

続く何年か間に絆が強くなった。政治的、芸術的なやり取りをした。

2人のお気に入りの街はパリでした。

私にヨーロッパを教えてくれたのは父なのです。ヨーロッパの歴史について開眼させてくれたのも父でした。何処へ行ってもヨーロッパの考察を巡る旅になりました。私の思い出の中の父はいつもヨーロッパ人。でも、父がどれほど日本人であったか、年をとってわかった。亡くなって父が二つの世界を行き来する旅人だとわかった。

人間に対するアプローチも深く見聞きする前に調べてました。

17歳の時成田で別れをいう時、抱擁した。その後はそれが習慣になった。公の場でも変わらない愛情表現が、周囲を戸惑わせた。残念なことに私は一度も日本語を習わなかった。ドイツ語が二人の秘密の言葉になりました。

父のヨーロッパが私のヨーロッパになったように、父のドイツ語が私のドイツ語になりました。

我々2人の人生に政治が重要な役割を果たした。私の人生に政治が重要なものになっていた。

加藤の名前を一生たずえるのは、重要なことです。

父の病気が重くなり、日本の家に行った。人生で最もつらい、最も大切な旅になりました。その時から、日本との結びつきが強くなりました。

長男のマチアス14歳には、シュウイチというセカンドネームがついている。




鷲巣
「サプライズです。もう一人のソーニャを紹介したいと思います。カナダ・バンクーバーの大学で教えていた時の学生、ソーニャ、アンゼンさんです」
201605080739_7453_iphone.jpg

ご紹介に預かりましたアンゼンです。1960年代のカナダの学生です。初めて加藤周一に会った時にヒルダさんと親しい人になった。養子を迎える時に名前がソーニャと聞いた。2002年ごろ、加藤周一が東京でソーニャさんの写真を持ってきて、「貴方が名付けだよ」と言われた。貴方のように、といわれた。今ごろ⁉ 無責任だ、と思った。その後、彼女と文通した。会った途端に一生の付き合いと思った。必ず日本で会おうといった。今回それが実現してとても嬉しい。

加藤周一先生との関係。私は四年生のフランス文学の学生だった。文学のコースの先生は、加藤周一先生。その時の感激はまだ覚えている。それで日本文学者になった。いつまでも恩師です。教えからインスピレーションを受けたのは私だけではない。世界中数千人いることでしょう。
短い詩を読みたい。
(原文は英語、うまいことメモできなかった)

ふいに思い出す
先生の棺に収められたのは
論語、聖書、カント
そして、永遠に読み続けたいという願望

ありがとうございました。


私にとってはずっと謎だったことがひとつ明らかになった。加藤周一とヒルダさんは離婚したのだと思っていた。別居はしたが、少なくとも憎しみあって別れたのではなさそうだ。死別したのだ。まるで森鴎外の舞姫だ。よくわからないこともまだ多い。質疑応答でいくらか出たのだろうか。

201605080739_8091_iphone.jpg
大江健三郎は体調がすぐれない中で講演してくれたようだ。

全部聞けなかったので、ちくま文庫「言葉と戦車を見すえて」を高く買っていて「戦後の名著、世界的な名著といっていい」とまで言ったことをメモしておく。







最終更新日  2016年05月08日 07時51分45秒
コメント(0) | コメントを書く

全59件 (59件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 >


Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.