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加藤周一

2019年02月13日
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テーマ:ニュース(76927)
カテゴリ:加藤周一


アーカイブス「加藤周一が残した言葉」2009.3.NHkより

永田誠さんの奮闘によって、加藤周一映像のYouTubeが多くUPされている。ここに載せるのは、一番初めに載せるに入門編として適当だ。短くポイントを押さえているだろう。

亡くなる半年前に撮影したNHkの追悼番組を映して、それを見ながら姜サンジュなどの言葉を載せている。すでに癌は全身に転移していて、身体は衰えているが、表情は非常に鋭い。10年前の語りではあるが、まるで安倍一頭政治の今を見据えて、「現代をどのように見たらいいのか」ということを語っているかのようだ。


ここで加藤が言っているのは「教養を持て」ということだ。このあと世の中を席巻するポピュリズムをこの時点で、根本から批判している。

なかなかこういう映像までチェックできないのだが、少しずつ紹介していきたい。











最終更新日  2019年02月13日 11時40分29秒
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2018年12月27日
テーマ:本日の1冊(3011)
カテゴリ:加藤周一


加藤周一の娘ソーニャさんの寄稿文by「図書」12月号

なんとか、手に入れた!題名は「夕陽妄語(とドイツ語のその言葉)」。ソーニャ・カトー文、高次裕翻訳。

内容は、​立命館の加藤周一文庫開館記念講演の内容​を大幅に膨らませたもののように思えた。あの時、聞きそびれていたことや、曖昧だったことも随分明らかになったような気がする。新しく知ったこともあった。以下、私的に「おおっ」と思ったことをメモする。

・(私は)この家系で加藤という名を継ぐ最後の者なのだ。
←つまり、家系的には加藤家は絶えるということなのか?最初の奥さん(京都の人?)との間に子供はいたのか?矢島さんとは子供はできなかったのか?いかん、いかん!下世話な感情です。
・←ウィーンとの奥さんとの関係が、これを読む限り、何故別れたのか、一向にわからない。
・パリでの加藤周一との共通の故郷として、パンテオン広場にある、ルソー像、ゾラ像と向かい合い、ヴォルテール像のすぐ隣のホテルを挙げた(←1度行ってみたい)。
・加藤周一のお気に入りの場所(ソーニャさんの定点)。クリュニー美術館の「貴婦人と一角獣」ブランクーシーの彫刻「接吻」(←1度行ってみたい)。
・ソーニャさんは、20代にヨーロッパ情報の加藤周一への通信員だったという自覚。←それは当然あり得るだろう。我々とは違い、そういう「生の声」を発信する友人は加藤周一にたくさんいただろう。それが彼の判断を正確なものにしていただろう。
・ソーニャさんは「(加藤周一が)政治家になることが、ひとつの選択肢としてあったのか」と思っていたようだが、日本人の読者でその選択肢があり得ると思う人は先ず居ないだろう。
・どうやらソーニャさんにとっても、加藤周一のキリスト教洗礼はショックだったようだ。「父は最期の時は一人の人間だったということだ。」ということは、この行動は、娘に相談していないということなのだろう。

あゝそうだ。ごめんなさい。2018年12月は、加藤周一没後10年、命日のある月でした。もう10年。はや10年。

・「制定から72年間を経過した憲法第9条保持のために戦う者として、私の父は今日でもまだ知られているか」ことあるごとに彼女はそう学者や学生に問い、返答は曖昧で「日本の社会には、そもそも平和の象徴となる人物がいない」と聞いたそうだ。落胆しているソーニャさんに言いたい。少なくとも私は、9条の会で加藤周一の果たした役割は、誕生から立ち上がり運動まで導いた役割は、9人の中で1番重く、決定的だったと思っているし、9条改憲を2018年末のギリギリのタイミングで、またもや退けたことは、9条の会の存在なしには語れないことであり、よって、日本の平和に果たした役割は、とてつもなく、非常に大きい。と心から思っています。

2018年12月読了






最終更新日  2018年12月27日 08時29分24秒
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2018年09月18日
テーマ:本日の1冊(3011)
カテゴリ:加藤周一


「終わりと始まり」池澤夏樹 朝日新聞出版社

2008年の末に亡くなった加藤周一の「夕陽妄語」に代わり、2009年4月から池澤夏樹の連載が朝日新聞紙上で始まった。 私はその前後に20年近くとっていた新聞購読を中止したので、このエッセイを読んだ記憶がほとんどない。本格的に加藤周一連載の後継に落ち着くことも、実は幾分疑っていた(それまでは暫定的に大江健三郎の連載があった)。あれから10年近く経って、既に二巻目が出ているこの本の第一冊目をやっと読んだ。

池澤夏樹は加藤周一の後継であると思っていたわけでもなく、期待していたわけでもない。それでもやはり新聞後継連載のエッセイを読んでみるのが怖かったのだろうと推察する。

題名の意味が不明だったが、加藤は漢詩から採ったが、池澤は「さりげないものがいいと思って」外国人の詩から採ったことが、今回知れた。いい詩である。2年後に詩の内容が現実(震災)に追いついたのは、偶然である。

読んでみると、池澤夏樹は多くの点で違っていた。文学よりも、旅の話が生き生きと語られる。ともかく池澤夏樹は「行動的」である。被災地に何度も通った。加藤も震災後神戸に訪れているが、その比ではない。もちろんだから優劣をつけるわけでもない。最新のマンガや映画の内容を何度も俎上に載せる。古典を大切にしていた加藤とかなり違う。日本に帰って住んだ土地である沖縄と北海道の話題が多くを占め、「戦後日本文学の1番大事な作家」と評価する石牟礼道子氏の関係か、水俣の話題も多かった。3.11の後からは、少なくとも2年間の2/3は震災関連話題で占める。古今東西の遠くに広がらず、比較的身の回りの話題が多いというのは加藤周一のそれとは違うだろう。

しかし、教養はやはり古今東西に広がっており、社会を批判的に見る目は比較的鋭い。イサム・ノグチが好きだから、政治の話をしないわけではない。むしろ積極的にしている。これらは「夕陽妄語」の伝統に似るだろう。

加藤周一は私にとっては、仰ぎ見る大先生だった。池澤夏樹は大学で演習のお世話になっている先生のような気がする。学ぶべき所は多いが、時々は「それは違うでしょ」と言いたくなるのである。ともかく、読み継いでいきたいと思った。

2018年9月読了






最終更新日  2018年09月18日 09時10分08秒
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2018年05月08日
テーマ:本日の1冊(3011)
カテゴリ:加藤周一


「文学とは何か」加藤周一 (解説・池澤夏樹)角川ソフィア文庫

この本には「思い出」も「想い」もあるが、それを今は展開出来ない。今回は特にこの文庫本のために書き下ろされた池澤夏樹の解説について、私の感想を書きたい。

旧版「文学とは何か」は1950年に角川新書として刊行された。少し読みやすくして1971年に新版を角川選書として出している。今回はおそらく新版はそのままに解説だけを付け足してソフィア文庫の中に組み入れたようだ(2014年7月初版)。何故か加藤の著作集に入っていないこの文学入門が、安く簡単に読めるのはたいへん喜ばしいことだと思う。

さて、池澤夏樹の解説だ。何故それに注目するのか?朝日の「夕陽妄語」が、加藤周一の死を以って終わったあとに、それを引き継いだのは池澤夏樹の連載だった。池澤夏樹は加藤周一の後継者なのか?加藤周一ファンとしては半分納得し半分訝った。外国生活が長く、古今東西の教養を持ち、社会的発言もまともな彼は後継者に相応しかったかもしれない。しかし、2014年11月から始まった個人編集の日本文学全集に、友人の中村真一郎や父親の福永武彦はあるのに、この巻に相応しく、個人的にも親しいはずの加藤周一が2人の巻に入っていなかったのに、先ずは私は「おや?」と思った。もっとも、それだけならば私は「加藤は評論家だから」と思ったかもしれない。「吉田健一」に一冊を充てた時に解説を書いて、池澤夏樹は「(自分の文学観は)主に評論家の吉田健一と丸谷才一に依っている」とあった。びっくりした。何故、よりによってあの究極のノンポリの、社会意識がゼロの吉田健一が入るのか。私はこの一冊を読み通すことが出来なかったので、その内実は未だわからない。ただ、池澤夏樹はこの解説においてこう書いている。

(文学とは何か、という問に答える本として)池澤夏樹は他に3冊の本を挙げる。

石川淳が『文学大概』を書いたのは43歳。
吉田健一の『文学の楽しみ』は55歳。
丸谷才一の『文学のレッスン』は85歳の時だが、『文学とは何か』を書いた時に加藤周一は31歳だった。若い分だけ覇気があり、無謀であり、勇猛だった。(197p)

先ず最初に、先の御方よりもこの文学入門が劣るかのように書いているのである。先ず構成がよくないと手厳しい。文学とは何かを論じるに、「客観的な方法」から入っているのは、間違いだと断じる。

しかし言うまでもなく文学はまずもって主観の装置だ。それは加藤だってよく判っている。普遍的な文学の定義を求めて客観に走ったが、そこから主観の方へ少しづつ戻る形で議論は進む。(198p)

そこから、各論には感心する所があると言って、流石に「解説」なので褒めて終わるのであるが、「ホントは褒められた本じゃないんだよ」と言外に書いているようで、私はむっとしている。ちょうどこの頃は、池澤夏樹が文学全集を編んでいて、おそらく吉田健一や丸谷才一を集中して読んでいた最中だと思うので、余計このような書き方になっていたのだと思う。

もちろん、「文学は主観の装置だ」という池澤夏樹の意見に異論はない。だからと言って、論理がグルリと回っているからと言って、老獪な評論家と並べて貶めるようなこの解説はどうかと思う。ホントに池澤夏樹は加藤から影響を受けていないのか?吉田健一を規範にした池澤夏樹は、吉田健一ならば決して書かなかったような社会批評を、解説の最後に付け足している。

誠実な批評家は自国の文学に対して厳しくなる。(略)この本が刊行されたとき、日本はまだ敗戦の空気の中にあった。それを終戦と言い換えて済ませるわけにはいかないと加藤は考えた。それが「日本近代文学の不幸」という部分に表れている。そして、戦争が敗北に終わってから69年後の今、この本が書かれてから64年後の今、加藤がこの本に盛ったと同じ批判を日本の社会に向けなければならない。「孤立しないためには、個人主義が個人的にではなく、社会的に徹底させられる必要がありましょう」というのはそういう意味である。(202p)

池澤夏樹の(あえて言う)自分の父親にさえやっていない「加藤軽視」は、もしかしたら自己への「批評が厳しくなった」現れなのかもしれない。

2018年5月読了






最終更新日  2018年05月08日 11時40分10秒
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2017年09月11日
カテゴリ:加藤周一



9月9日朝、新幹線に乗った。遅い2日のみの夏休み(実質は1日半)のために京都に行く。本当は、去年正月の島根行きのリベンジを計画していたのだが、日曜日午後の野暮用を思い出したので、新幹線1時間の処に急遽変更した。目的は何か。これも約1年間の願望だった立命館大学図書館内にある「加藤周一文庫」を尋ねる、それのみである。本来ならば1日あれば済む。でも1年間行けなかった。こんな機会がないとずっと行けないままだ。




京都は思い出の地だ。38年前、私はふたつの大学を受験するために、当時同志社の学生だった、兄貴のほとんど穴倉の下宿に10日間ほど泊まっていたことがある。受験と受験の間に、私は思いつく限りの京都観光を独りで回った。もちろん寂しくはなく、とてつもなく面白かった。私の生涯で、5ー6回は「世界が広がった」経験をした時があるが、間違いなくこの時はその一つだったと思う。私はその時に日本史と日本の美術に出会った。それはそのまま、その直後に出会う加藤周一の数々の著作を理解する手がかりになっただろう。

京都駅前から立命館大学行きのバスに乗る。




二条城。




バスの車窓から見ると、戦災にあっていない京都の町並みは、しかしほとんど千年の都の面影さえ観ることができない。古いものを遺さずに無秩序に街づくりをするのは、外国人にとって理解不可能だろう。台湾と似ている。あそこはせいぜい200年ぐらいの歴史しかないが。加藤周一は、そのことに異議を唱え少し運動をしたが、焼け石に水だったようだ。




立命館大学に着いた。新館の図書館のなんと立派なことか。




受付で、所定事項を書いて(免許証などの証明書は必要)加藤周一文庫の見学の許可をとる。写真撮影は不可なので、パンフの表紙だけを載せる。

1948年ごろの日記が展示されてあった。また、加藤周一の愛用の机と、寛ぐ時の椅子などを見る。それらを新調せずにずっと使い続けていたらしい。確かに悪いものではないが、もっと機能を上げようという気持ちを持たなかったのだろうか?鷲巣氏は、そこが加藤周一たる処だと指摘する。

加藤周一文庫の二万冊の蔵書は、圧巻であり、その一部と雖もその内容は歴史の中の古典全集はもとより、かなりマイナーな岩波文庫新書を揃えている。様々な外国情報も網羅する。NHK歴史ドキュメント、周恩来語録、人民日報資料集まである。小田実・自立する市民、三池争議資料集、中国石窟のシリーズ、安部公房短編集、池澤夏樹の各本、もちろん中村真一郎の各本、80年代の雑誌文化評論、みすず、丸山真男手帖、古いユリイカ、等々等々。森羅万象の全てに興味があり、私の蔵書の10倍近くを持っていた。

ひとつ気になったのが、蔵書の一冊(と言っても確かめたのは数冊のみ)たりとも、書き込みが無いのである。新品同様の本も、ボロボロになった古い本も無いのだ。加藤周一がノート魔だったのは知っている。ノートをとりながら、本を読んでいたのは十分に考えられる。しかし、加藤周一は移動の際も必ず本を持ち歩き読んでいたと何処かに書いていたと思う。付箋紙の無かった昔から、ノートをとりようがない昔から、彼はどうやって本の内容をまとめていたのか。頭がいいのは良く知っている。しかし、せめて線を引いた方が「合理的」なのではないか?

ともかく、質はもとより、量だけでも追いつかないか?という予想は簡単に砕け散った。




予想を若干超えて、やはり加藤周一はすごかった。という感想しか出てこなかった。鷲巣氏の、ノートを分析した、加藤周一研究が早く出ることを祈る。




終わって、立命館国際平和ミュージアムに行った。これで3度目。常設展示の図録を買う積りだったが、やめた。3度目となると、瑕疵も見えてくる。




コンサートもできるような、大きい一階エントランス。火の鳥が飛んでいる。

珍しい展示では、厭戦を煽る手紙や、トントントラカリの替え歌で厭戦をうたっていた。高地らしいが、庶民のささやかな抵抗があるのを見れて嬉しかった。




B29迎撃用ロケット燃料精製装置。




本来、鉄製の精密機械である。それを陶器でも作れるという日本人の器用さ、ここに極まれり。戦争の愚かさ此処に極まれり。

全体的にはバランスよく展示している。しかし、である。現代情勢に言及しているのは、イラン戦争まで。ISはもとより、戦争法をめぐる日本の情勢に一切触れていないのは、はっきりいって片手落ちだろう。




昼食は近くの中華店で、北京定食。






最終更新日  2017年09月11日 11時42分34秒
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2017年04月07日
テーマ:本日の1冊(3011)
カテゴリ:加藤周一



「世紀末ニッポンのゆくえ」インタビュアー小尾圭之介 ミオシン出版


文教大学情報誌に連載されたインタビュー集。1997年、ちょうど20年前の本である。お目当てはもちろん巻頭の加藤周一。日本の「システム」についての、私にとっては自明の、しかし多くの読者には新鮮で鋭い指摘が続くインタビューだったろうと思う。

加藤は20世紀日本の成功の要因を支えた「工業化」を更に支えたのは、一定の条件があったからだという。それは日常生活に犠牲が少なかったこと。日常生活の様式の変化は少なかった。また、天皇制官僚国家を民主主義の犠牲の上につくることに成功した。

しかし、
「一般に、少数意見を内部に抱えている国•団体は、状況が変われば、今まで少数意見だったものが多数意見になって、別の方向に進むことが出来るのですが、日本では、少数意見を排除してしまうことで能率は高めたが、必要な方向転換もできないようになったと思います」(15p)
「明治以来の日本は集団主義で一億一心、団結して与えられた目的を達成することはできるが、方向転換能力がないために必然的に失敗します。この100年に成功も失敗もあって、戦後もその気質が続いていると思います。しかし、今、それが隠されているように見えるのは、戦後がアメリカの占領下から始まったからでしょう。現在は法的に独立し、内政面では占領は終わりました。しかし、外交政策と軍事面ではだいたいアメリカに従っていますから、アメリカの準保護国的状況、実質的には半独立国です。」(17p)

半独立が何故続いているのか。
一つは、アメリカが解放軍として、軍事型官僚国家から解放したから、歓迎した。
一つは、日本の国民性。現実を直視しない。衣食足りて心理的に政治から遠ざかる。「寄らば大樹の陰」もあった。
一つは、鎖国の影響。国際情勢を客観的に見ずに、絶えず日本との関係においてだけ見る。最近では、冷戦が終わると同時に、ドイツは基地問題に反応した。日本はしなかったし、今もしていない。(19p)

21世紀への展望を聞かれて加藤周一は「南の犠牲で繁栄する北」という構図を変えなければならない、と解く。1996年11月の段階では、これはあまりにも預言的だった。曰く。
「経済力、軍事力は北にかなわないとなると、南のアイデンティティーを守るためにできることはテロリズムだけです。これは絶望的な暴力です。希望を与えることがテロへの唯一の対策です。そういうことに日本がいくらかでも貢献することが望ましいと思います」(28p)しかし現実はそうではなく、アメリカの腰ぎんちゃくに成り下がっているのはご承知の通り。国家間の同盟の問題や、科学技術問題特に原子力発電などのエネルギー問題でも文化的アイデンティティーでも預言的発言をしているのだが、割愛する。

改めて、加藤周一の視線の届く距離は長いと思った。

2017年3月31日読了







最終更新日  2017年04月07日 15時23分34秒
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2016年08月19日
カテゴリ:加藤周一


(知人のメーリングリストから拝借。赤旗の記事らしい)

録画していたETV特集の「加藤周一 その青春と戦争」をやっと観た。素晴らしかった。幾つかの小さな発見と、何よりも加藤の瑞々しい文章と、それを読む学生の瑞々しい感性に触れて愉しかった。

死後数年経ってお菓子の缶に保存されていた1937年(17歳)から1942年(22歳)までの、評論や日記、詩などを書いたノートが見つかり、それを学生やいろんな人が読みながら、紹介してゆくというものでした。

全体的な感想を云えば、池澤夏樹が言うように、
「加藤周一は最初から加藤周一だった。観察者であり、分析者だった。論理的に生きて行こうという"決意"がある」ということになる。しかし、学徒出陣の一年前にノート執筆を已めた加藤の中に、理不尽な死を前に何とかして世界を理解しようとする心が、揺れながら書かなくてはならないという気持ちも併せて観て取れる。論語を模した自叙伝や、後の三題噺を彷彿させるような「東京」という短文、等々。ここにはホントにその後の加藤周一を予見させる文章に満ちている。驚くのは、何処を切っても加藤周一なのに、文章そのものをこの後の分筆活動で「切り貼り」することは一度も無かった、ということ。

加藤周一はフランス文学「チボー家の人々」を自ら一部翻訳する。そこには、ヨーロッパの街の中、第一次世界大戦の直前にもかかわらず、人々が平和に無邪気に生きている様子が描かれるだろう。加藤周一は書く。
「歴史は繰り返す。1940年はいかに1914年に似ていることか。現代は何度絶望したら許されるのか。」加藤がそう書いたその一年後に太平洋戦争が始まった。
歴史は繰り返す。2016年はいかに1940年に似ていることか。現代は何度絶望したら許されるのか。

現在95歳の加藤周一の妹の久子さんを、初めて見た。久子さんは、当時叔父の軍人岩村清一(ロンドン軍縮会議にも出席)の影響が強かっただろうという。叔父も戦争には負けると思っていて、戦争には反対だったらしい。


加藤周一の同級生の貴重な"生き残り"山崎剛太郎氏も登場。それと同時に、加藤周一がよく言及していた中西哲吉氏の写真も出てきた。今回、加藤が亡くなる直前のメモも紹介される。
加藤周一はその親友のことをだいたいこんな風に書いていた。
「私は戦争で2人の親友を失った。もし彼らが生きていたならば、日本もが再び戦争の道へといくことを許しはしない。私は親友を裏切りたくない。憲法9条には親友の願いが込められている」中西は池澤夏樹によれば、加藤周一よりも優秀だったかもしれない、という人だった。

立命館の学生が加藤周一の青春ノートを真剣に読み込んでいて、嬉しかった。加藤周一を「古代に"逃避"している」とか「傍観者」とか、学生特有の性急な言葉を使いながら、基本的に加藤周一を理解していたように思う。最後のまとめ部分で、加藤周一から学んだ感想を述べて一人の学生の言葉が印象的だった。
「歴史は繰り返すのは、"人の弱さ"かもしれないけど、それを乗り越えることがあるとすれば"人の力"かもしれないと思う。そのように生きる力は、"人をつなぐ"ことだと思う」

がんばれ。がんばろう。

ちょっと急がせますが、再放送のお知らせです。
ETV特集「加藤周一 その青春と戦争」
8月20日(土)午前0時〜1時(金曜日の深夜)
http://www4.nhk.or.jp/etv21c/2/

また、ツイッターの「加藤周一文庫」からの情報です。
本日のETV特集「加藤周一 その青春と戦争」で扱われる加藤の「ノート」は、インターネット上で全文を公開しています。番組を見て関心を持たれた方は、ぜひこちらもご覧ください。trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U…
15:41 - 2016年8月13日







最終更新日  2016年08月19日 11時37分20秒
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2016年05月08日
カテゴリ:加藤周一
加藤周一文庫開設記念講演会が昨日立命大であった。

以下はホームページでのお知らせのコピー

2016年4月、立命館大学は衣笠キャンパスに新たに平井嘉一郎記念図書館を開館し、
その中に「加藤周一文庫」を開設しました。
本文庫の意義を広くご理解いただくため、「加藤周一文庫開設記念講演会」を開催します。

◆加藤周一文庫

◆加藤周一現代思想研究センター

2016年5月7日(土)13:45〜17:10
講演1:「加藤周一 −世界を見つめた旅人」講師:ソーニャ・カトー
講演2:「加藤周一さんを再読する」講師:大江健三郎氏
表彰式:ソーニャ&シュウイチ・カトー スカラシップ表彰式

会場:立命館大学衣笠キャンパス

行きたかったが、仕事があって京都行きは早々に諦めていた。そしたら、Ustreamでライブ中継してくれることになった。大江健三郎さんの講演は途中で席を立たざるを得なかったが、貴重な話を聞くことが出来た。

先ずは立命大吉田学長は「我々はいま時代の岐路に立っている。だからこそ、加藤周一を再読する意味がある。」と挨拶。

加藤周一自選集その他を編集した鷲巣力氏(研究センター所長でもある)が司会を勤めた。鷲巣氏は、5年間加藤周一文庫開設のために準備してきたらしい。

ソーニャ・カトーさんの話は、私なりにまとめると以下の通り(聞いたのをメモしているだけなので、話の全てでもないし、正確かどうかわかりません。よろしくお願いします)。
201605080739_2109_iphone.jpg
私の父の眼差しについて話したい。私の父は、二つの世界の旅人でした。

私は生後間もなく加藤周一とヒルダ夫婦との養子になりました。

父は日本人でいっとき一緒に暮らしていましたが、その後はウィーンの私と母とは、別々に暮らしていた。父は時々ウィーンに来た。

父が日本からプレゼント持ってくるのが楽しみだった。特におせんべい。私はその缶に宝物を入れ、それもまた宝物にしました。

母は私が11歳の時になくなりました。その時ほど悲しそうな父を見たことはなかった。救えなかったことを悲しんでいた。

年に一度お互い訪問するのが常になった。初めて日本に行ったのは17歳。80年代終わりの頃、三週間の日本滞在は蒸し暑さにびっくりした。父の習慣を見、テニスをする父の姿を追いかける、それだけで幸せだった。

続く何年か間に絆が強くなった。政治的、芸術的なやり取りをした。

2人のお気に入りの街はパリでした。

私にヨーロッパを教えてくれたのは父なのです。ヨーロッパの歴史について開眼させてくれたのも父でした。何処へ行ってもヨーロッパの考察を巡る旅になりました。私の思い出の中の父はいつもヨーロッパ人。でも、父がどれほど日本人であったか、年をとってわかった。亡くなって父が二つの世界を行き来する旅人だとわかった。

人間に対するアプローチも深く見聞きする前に調べてました。

17歳の時成田で別れをいう時、抱擁した。その後はそれが習慣になった。公の場でも変わらない愛情表現が、周囲を戸惑わせた。残念なことに私は一度も日本語を習わなかった。ドイツ語が二人の秘密の言葉になりました。

父のヨーロッパが私のヨーロッパになったように、父のドイツ語が私のドイツ語になりました。

我々2人の人生に政治が重要な役割を果たした。私の人生に政治が重要なものになっていた。

加藤の名前を一生たずえるのは、重要なことです。

父の病気が重くなり、日本の家に行った。人生で最もつらい、最も大切な旅になりました。その時から、日本との結びつきが強くなりました。

長男のマチアス14歳には、シュウイチというセカンドネームがついている。




鷲巣
「サプライズです。もう一人のソーニャを紹介したいと思います。カナダ・バンクーバーの大学で教えていた時の学生、ソーニャ、アンゼンさんです」
201605080739_7453_iphone.jpg

ご紹介に預かりましたアンゼンです。1960年代のカナダの学生です。初めて加藤周一に会った時にヒルダさんと親しい人になった。養子を迎える時に名前がソーニャと聞いた。2002年ごろ、加藤周一が東京でソーニャさんの写真を持ってきて、「貴方が名付けだよ」と言われた。貴方のように、といわれた。今ごろ⁉ 無責任だ、と思った。その後、彼女と文通した。会った途端に一生の付き合いと思った。必ず日本で会おうといった。今回それが実現してとても嬉しい。

加藤周一先生との関係。私は四年生のフランス文学の学生だった。文学のコースの先生は、加藤周一先生。その時の感激はまだ覚えている。それで日本文学者になった。いつまでも恩師です。教えからインスピレーションを受けたのは私だけではない。世界中数千人いることでしょう。
短い詩を読みたい。
(原文は英語、うまいことメモできなかった)

ふいに思い出す
先生の棺に収められたのは
論語、聖書、カント
そして、永遠に読み続けたいという願望

ありがとうございました。


私にとってはずっと謎だったことがひとつ明らかになった。加藤周一とヒルダさんは離婚したのだと思っていた。別居はしたが、少なくとも憎しみあって別れたのではなさそうだ。死別したのだ。まるで森鴎外の舞姫だ。よくわからないこともまだ多い。質疑応答でいくらか出たのだろうか。

201605080739_8091_iphone.jpg
大江健三郎は体調がすぐれない中で講演してくれたようだ。

全部聞けなかったので、ちくま文庫「言葉と戦車を見すえて」を高く買っていて「戦後の名著、世界的な名著といっていい」とまで言ったことをメモしておく。







最終更新日  2016年05月08日 07時51分45秒
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2016年04月26日
テーマ:本日の1冊(3011)
カテゴリ:加藤周一
加藤周一自選集5.jpg
兵庫県立美術館の鉄斎展を観に行く下準備として、とりあえず「加藤周一自選集5」(岩波書店)の「鉄斎覚書」という小文を繙く。加藤周一は鉄斎を「19世紀末から20世紀初めにかけて、日本の絵画は、ただ1人の鉄斎によって、記憶されることになるだろう。」(112p)と最大級の賛辞を寄せている。そのことを確かめに行くのが、今回の鑑賞の最大の目的である。

たった3頁の文ではあるが、何時もの如く緊密に書かれている。ホントは全文を写しとった方が、私の学習にも良いのではあるが、ブログの性格上それはできない。よって、この一文を私なりにまとめてみるという少し無茶をやって私の覚書としたい。

(略)しかし鉄斎の画業は、また大いに「文人画」の伝統的な枠を超えていた。時に緑、褐色などの淡彩を用いたが、またしばしば眼にも鮮やかな濃彩の画面をつくった(たとえば青緑、朱、青など)。前者の例には清荒神清澄寺蔵『古仏○図』、後者の例には『寿老分昇図』をあげることができる。(略)
筆法は書にならって「気韻生動」の強い線を引くことがある。しかしまた墨をぼかしてその明暗により色彩的効果(「ヴァルール」)を生ぜしめる妙味もある。そこまでのところは大雅にもあり、木米にもあった。一転してその色彩効果が抽象的表現主義の見事な画面に及ぶのは、鉄斎において独特である。たとえば清澄寺蔵『水墨清趣図』の画面中央、家屋と人物の上および右の部分。
風景を半鳥瞰的視点から描くのは伝統的である。『聖者舟遊図』(清澄寺蔵)の鳥瞰的視点は異例に属し、前述の『古仏○図』で下から見上げているのはさらに独特の構図であろう。(略)
鉄斎はありとあらゆる様式で、ありとあらゆる対象を描いた(日本の伝統的な材料・題材・様式の範囲内で)。(略)多くの様式を併用したのは、先に鉄斎、のちにピカソ、けだし、天性の画家の途方もない表現欲があり、一個の様式に盛り込めないほどの多面的な世界があった稀有の例に違いない。
鉄斎のもう一つの特徴は、ゴッホやルオーのように(またその他多くの画家のように)、その絵が成熟し、晩年にいたっていよいよ輝きを増したということである。(略)(110-112p)
追記
(略)鉄斎の芸術の歴史的な意味は、一時代の社会的変化が急激で、広汎であればあるほど、高度の芸術的達成は伝統的な芸術の枠組みの中でのみ達成される、ということに要約されるかもしれない。伝統的な芸術は、鉄斎にとっては、文人画とその材料・技術・題材であった。彼は決して油絵具を用いず、印象派の技術は採らず、裸婦を題材にしなかった。それにも拘らずーではなく、おそらくそれ故に、その伝統的な枠組みの中で、彼自身の、微妙に新しい様式を創り出すことができたのである。(略)(113p)
○は合という字の下に龍。

つまり、注目すべきは以下の部分である。
色彩。抽象表現。構図。題材。晩年においての成熟度。

これ等は確かに2ー3の絵を観てもわかるはずもないことだ。今回の大展覧会がまたともない機会である所以だろう。

加藤周一は自分で実物を観ないでは、決して批評文を書かない人だった。ところが、その美術批評は文字通り古今東西に及ぶ。だからこそ、鉄斎とピカソとの類似性を指摘することができる。

おそらく、明後日鑑賞して来ます。






最終更新日  2016年04月26日 14時45分37秒
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2016年04月21日
カテゴリ:加藤周一
加藤周一.jpg
加藤周一の単行本未収録の「夕陽妄語」である。 いわく「災害の責任 2008/6/21(土) 朝日新聞朝刊」。胃がんで休載する最後から二番目のエッセイである。すでに病状は大きく進行していて、その一か月後に遺言ともいえるテレビ収録をすることから、医師である加藤にも死の覚悟ができつつある、あるいはできていたころだと思う。

その時になぜこれを書いたのか(かなり大きく写真を載せたので見にくければ拡大して全文を読んでほしい)。

直接のきっかけは、この記事が掲載される一週間前に非常に大きな地震がおきた。

平成20年(2008年) 6月14日 マグネチュード7.2 「岩手・宮城内陸地震」 死者 17人 不明 6人負傷者 426人 住家全壊30棟 住家半壊146棟など 震度6強

実は恥ずかしながら、今回調べて初めてこの年にM7.2という今回と同等、阪神大震災クラスの地震が起きた事に気が付いた。完全に忘れていた。この三年後に東日本大震災が起きるなどとは、その当時岡山に居る私などは想像できていなかった。

加藤周一はこの大地震をうけて、「天災」のあれこれについて考えたわけではなかった。明確にその後近いうちに(それは3年後かもしれないし、数十年後かもしれない)起きるであろう「大震災」の「責任」について考え、さらには天災のようにやってくる「戦争」に対する「責任」について述べたのである。その慧眼恐るべし。本当に恐ろしい。

話の展開は、病気のせいかいつもの切れ味はなかったかもしれないが、その内容については、古今東西のあらゆる人間の現象に詳しく、物事を千年単位で見ることのできる稀代の人物の面目躍如たる文章であった。

今記事をアップしようとして、この「災害の責任」と同じように、すこし記事の意図するところをあまりにも省略しているのに気が付いた。私の言いたいのは、当然今回の熊本地震のことではない。これからありうるであろう、南海トラフ地震のことであり、これからありうるであろう天災のようにやってくる「戦争」あるいは「戦争準備」について、我々ができることだ。具体的には、戦争準備のために年間5兆円を使うよりは地震準備あるいは今回の地震被害復興のために数兆円を使う方がいいだろう、ということである。さらに言えば、原発は速やかに停止、一刻も早く廃炉に向けて舵をきるべきだう、ということである。






最終更新日  2016年04月21日 07時37分05秒
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