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再出発日記

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加藤周一

2021年08月15日
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テーマ:本日の1冊(3552)
カテゴリ:加藤周一


「都鄙問答」石田梅岩 加藤周一訳・解説 中公文庫 
この春、突然「日本の名著」シリーズに入っていた加藤周一訳・解説の「富永仲基・石田梅岩」(1984)の半分が文庫本になった。何故今なのか?何故本来加藤が好きだった富永仲基ではなく、こちらの方を復刊したのか。

帯を読めば、編集者は本気で現代に石田梅岩を再評価させたいと思っているようだ。もしかしたら、渋沢栄一ブームを見越してのことかもしれない。
曰く
「ウェーバー、ドラッカーよりも200年早い経営哲学」
「起業家必読」
「生産と流通の社会的役割を評価、利益追求の正当性を説いた商人道の名著」
とのことである。

石田梅岩1744年没。中百姓次男として生まれる。11歳で丁稚奉公、商家としては成功しなかったが、「心学」を唱え(1738「都鄙問答」)、死んでその教えは隆盛し、商家のみならず大名家老が修行するに至り、19世紀から幕末にかけてあらゆる階層に浸透した。

確かに、「心学」の全面的な現代語訳は他にないだろうし、親切丁寧な加藤周一の解説も現代に貴重だろう。確かに、私も加藤周一の隠れていた名論考がリーズナブルにポケットに入るようになったのは貴重だと思う。しかし、編集者は気がついていただろうか?本書は、かなり厳しい「石田梅岩批判」なのである。心学の特徴を全面的に紹介することは、同時に心学の持つ理論的な矛盾を突くことになるのだ。

加藤周一の論理展開は、少し専門的でかなり緻密なので出来うるならば手に取って読んで欲しい。申し訳ないけど、私は関心部分のみ感想を述べたい。因みに、加藤解説→翻訳本文の順番に読むことをお薦めする。
⚫︎梅岩は儒教の古典の章句を引いて、商家の日常の具体的な例に即して語った。それが今までの儒家とは違った。
⚫︎梅岩は問答を行った。本書で学者が(私流の解釈です→)「真理は不可知なのだから、孟子が性善説を言うのは、善でもあり悪でもあるということと同じことじゃないですか?つまり孟子のいう天(真理)は何とでも解釈できるのではないか」と質問すると、梅岩は「キチンと古典を読め」「天はある。それは修業しなくては得られない」と答えて一蹴している(106p)。なかなか突っ込んだ質問が多くて面白い。←もっとも、加藤は「だから大事な部分は全て悟りに集約されて、論理の飛躍、矛盾は無視されている」と根本的な批判をしている。つまりトンデモ宗教(学問)なのだが、問題はこれが幕末の保守層に多大な影響を与えていることだろう。
⚫︎「神儒仏トモニ、悟ル心ハ一ナリ」は、梅岩においては三教一致の主張ではなく、「悟ル心」から見れば、神・儒・仏の一致、不一致などは、二次的な問題に過ぎないという意味の感慨ではなかったか。この典型的な日本人は、天地自然と自己との一致という経験を支えとしながら、現世において、与えられた集団の中で、いかに生くべきかという問題に専念したのであり、その経験から出発して概念的な建築をつくり、そうすることで現世を、または自己の所属する集団を、超越しようとはしなかった。
⚫︎現実の中で義理と人情が対立するときは、義理の方が優先させれることが多かった。(略)日本人が自己の内部と外部の世界との緊張関係に究極的な解決を望むときには、梅岩流の解決に近づくことが多いようである。(←義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい渡世の掟)
←それでも解決しない時には、加藤周一はマルクス主義の教条主義、あるいは本居宣長の「神ながらの道」を選択するだろうという。どちらも、結局大きな失敗をした。とくに、超国家主義は本居宣長流を継承したが、説明つかなくて破綻した。現代、「日本会議」や靖国派などの超国家主義がこれと同じ概念構造を持っているように思えるのは、私の穿ちすぎだろうか?政府閣僚の圧倒的多数が「日本会議」の信者になっているのは偶然だろうか?






最終更新日  2021年08月15日 17時23分07秒
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2020年12月01日
テーマ:本日の1冊(3552)
カテゴリ:加藤周一

「夕陽妄語 1」加藤周一 ちくま文庫

加藤周一は、昭和・平成をまたがり「日本を代表する知性」と呼ばれていた。その加藤が、50年代から数えると約50年以上「時評」を描き続け、08年に自らの死亡によって終わるまで延々と書いていたのだから、時評に並々ならぬ情熱を持っていたのは間違い無いだろう。自らを「非専門の専門家」といい、文学評論家の枠に収まらない批評活動をしていた全体像が、このまとまった「夕陽妄語」全3巻(84年ー08年)の中にあるだろう。これはそのうちの一巻目。

話題は文学はもちろんのこと、文明遺跡、演劇、音楽、映画、国内と国際政治、歴史一般に及ぶ。古今東西の総てのイシューを関連つけて、一つの説得力ある言葉を提示する。実は、私に最も影響を与えている思想家である。それに、加藤周一論をまとめることは私のライフワークなのだ(別の言葉で言えば、約35年間まとめ切れていない)。

当然「夕陽妄語」は、単行本時点で一度読んでいて、所蔵している。というか、月一度の朝日新聞掲載時点で一読している。今回取り寄せたのは、一覧の便利さということもある(この文庫本 1は朝日新聞社版3冊を合本している)。それ以上に現代に、もう一度読んでおきたかったからである。

加藤周一不在の、12年間。いったい何度「彼ならば、この混迷の日本と世界に、どうコメントしただろうか」と思ったことか。安倍政権の暴走、トランプの登場、パンデミック、等々。

加藤周一の文は、元医者らしく、病状を細かにつぶさに観察した後に、文学者らしく物事の本質を表現する言葉を見つけ出す。現代に「夕陽妄語」を読むことは、十分に意味のあることだった。「どうコメントしたか」その回答は、此処にあったからである。

以下その視点で、マイメモとして感銘受けた部分を載せる。そういう位置付けなので、興味ある部分だけお読みください。

・敦煌を見学すると、時間・空間の解放性が特徴である(釈迦涅槃像の過去仏と未来仏、そして国際性)。一方、日本の法隆寺の時空は「今・此処」に向かって収斂する。(84年9月)
←加藤の日本文化論の中心をなす「いま・ここ」論の、最も早い時期のまとまった考え。

・45年の夏は軍国日本の終わりだった。85年の夏は軍国日本の復活の年として記憶されるかもしれない(GNP1%枠外し、公式参拝、機密保護法案)。(85年9月)
←中曽根時代の話だが、思えば新軍国日本の中興の祖として安倍時代は記憶されるのかもしれない(非核三原則外し、第一次内閣時代の教育基本法改悪、共謀罪・安保法制)。加藤のいうように、何れも共通の特徴がある。(1)提案者が政府・与党(2)説明がよく見ても不分明、わるくみればすり代えであること(3)違憲の疑いが強いか、少なくとも憲法の背景にある価値観と矛盾する行動・政策・法案であること。‥‥政府の行動規範は30年経とうとまるきり変わっていない。加藤周一は戦後40年の85年の夏に明確に危機感を覚えていた。その時から、国民が国会を10万人以上で包囲する(15年安保法制)まで30年を経なければならなかったのである。

・いかん、ちょっと詳しく解説しないと意を尽くせない。上記の解説も説明不足だろうと思う。書き出せばキリがない。以下は項目だけ載せる。

・日本ナショナリズムの可能性(86.3)

・いじめの分析(86.5)

・南京大虐殺に関して「歴史の見方」(86.8)

・白馬は馬にあらず。(87.1)
←そう、白馬は馬ではないんですよ。えっ?わからない。でも政治家は、このように誤魔化すんです!

・野上弥生子日記の1937年盧溝橋事件について書いたことは、「50年前の世界での常識、日本国内での極めて少数意見であった」(87.5)

・日本における「反ユダヤ主義」の生まれる5点の背景(87.6)
←これは、そのまま日本の中国・韓国・北朝鮮観と一致する。

・「化けて出てくれ」(87.8)
←加藤の幽霊論の嚆矢

・井の中の蛙論である。歌麿の春画、元号論、貿易摩擦、対中、対ソ政策に関連して述べる。(87.11)
←特に、江戸時代の規範は、閨房の中にまで及ばない。という指摘に「おゝ今もだ!」と思った。

・宣長について。宣長が晩年写経を繰り返し、墓も神道墓の他に仏式墓を作ったのは何故か?(88.3)
←加藤周一の晩年の入信問題とリンクするのではないか?
←加藤周一は「歴史の複雑な二面性を問題にする条件」とは「勇気ある理性」と答えている。蓋し至言なり。

・「黒い穴」(88.10)
←アメリカからの帰国途中の思考。西洋思考と日本思考との比較。悲しいほどに何も変わっていない。

・1988年の思い出に加藤は高畑勲「火垂るの墓」を選んだ。(88.12)

・天皇の死去を「崩御」とはもちろん書かなかったが、「逝去」とは書いた。ほとんどはタイについて書いて、最後の行でそのことに触れた。(89.1)

・激動の89年の終わりに、加藤周一は政権交代を望んでいる。その可能性があったからだろう。それは、90年代型の政権交代ではなく09年型の政権交代ではあったのだが。(89.12)

・90年初めの総選挙では、自民党が多数を取った。そのことへの違和感を加藤周一は、3点に分けて解説する。思うに、現在でも充分通じる分析。(90.4)

・此処での加藤の「外交の季節」を読めば、この30年間北東アジアでの平和外交(ソ連・中国・朝鮮半島・日本・米国を含む集団的安全保障機関が機能し、地域の非核戦力化と経済的な協力関係が発展すること)が進まなかったのは、日本の責任が非常に大きいとわかる。(90.6)
←「ソ連の脅威」がなくなれば「日本の軍備拡大」の理由がなくなる。←しかし、「北朝鮮の脅威」を唱えて無くならなかった。
←朝鮮半島に何もできない理由を2つあげている(1)国交を持っていない(2)過去の植民地政策について、韓国側から要求されての「謝罪」ではなく、自発的に、南北朝鮮の人民の大多数が納得しうるような責任の取り方をしていない。
←加藤はこれからは「外交の季節」がやってくる。そのための障害の大部分は国際情勢ではなくて、日本側の習性や惰性であり、それを変えることは困難だろう。と喝破する。
←ホントその通りになった。「しかしその困難は、決意さえすれば乗り超えられるはずのものだから、あまり悲観的でもない」←加藤さん、30年間決意できていないんですよ。

・野間宏追悼文、情と理に溢れて名文。(91.1)

・「湾岸戦争」総括。米国の一国超大国化。後半、その下での日本の対米追随について2点の欠点を書く。
(1)「米国追随」を「国際協力」と呼ぶのは、私にはシニカルな冗談のようにしか聞こえない。「国際的孤立」、特にアジアから、を招くだろう。
←加藤周一さん、30年間その言い替えは日本では、通用しているんですよ。悲しいことに。思ったほどには西欧からの国際的孤立は招かなかったけど、アジアへは自ら進んで孤立していきました。
(2)「反動として反米感情のたかまる可能性」
←加藤周一さん、日本人は結局そんなに賢くありませんでした。韓国では2000年代に反米感情が大きく高まったのと対照的です。(91.3)

・「湾岸戦争」を「史記」的に表現。知的に咲(わら)うなり。(91.8)

・木下順二「巨匠」評。(91.9)

・ソ連解体について(91.12)






最終更新日  2020年12月01日 07時50分25秒
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2020年01月07日
テーマ:本日の1冊(3552)
カテゴリ:加藤周一

『称えることば 悼むことば』加藤周一 鷲巣力編 西田書店

他をして自らを語らしむ。加藤周一の書物への推薦文も、友人の弔文も、結果的には自画像になっていたと私は思う。2008年12月5日、日本の知性は、そのひと頭分低くなった。10年を過ぎて、少しその幻影を追ってみた。


自己の感受性に忠実に生きるということ。夢想家だけが、帝国主義戦争の本質を見破れるだろう。(『片山敏彦著作集』1971)

その仕事は、近代日本の散文の基礎を築くことであり、全く独創的な一つの文学形式を生みだすことであった(いわゆる史伝)。しかも科学者としては、衛生学の技術を輸入し、実験科学の精神を説き、思索家としては、儒家の伝統に従って、超自然的な絶対者をではなく天下国家の現在と将来を考え、儒家とは異なり、単に政策ではなく社会構造そのものに思いを致した。仕事は多方面に渡り、業績は、何れをとっても、群を抜く。(『鴎外全集』1971)

いま日本の思想家を、その独創性、対象の包括性、論理の整合性、影響の拡がりによって測り、五指を屈するとすれば、たとえば仏家に空海・道元、儒家に徂徠・白石、国学に宣長をみるだろう。(『荻生徂徠全集』1972)

中村真一郎に三善あり。第一は、天下の政事に係らぬことである。故に安んじて風雅の道に遊ぶことができる。第二は、書を読んで古今東西の文芸に渉ることである。したがって文壇一時の流行を文芸の大道と心得ることがない。第三は、その文章が明快で、おどろくべし、読めばその意味がはっきりとわかることである。思わせぶりの美辞麗句の落ちついて考えれば何のことかよくわからぬ深刻さがないのは、けだし当代文苑の奇観というべきだろう。(中村真一郎『この百年の小説』1974)

この人々は、単に気分に従って生きたのではなく、考えて自己の生涯を択び、常に大勢に順応したのではなく、しばしば少数意見に徹底し、近代日本の発展を、単純な成功物語ではなく、激しい批判の対象としても捉えていた。(『日本人の自伝』1980)

大江健三郎は何故抗議をするのか。(略)それはおそらく平和であり、樹木であり、生命の優しさでもあるだろう。たしかにそれこそは、もし文学者が語らなければ、誰も語らないだろう壊れ易いものである。(『大江健三郎同時代論集』1980)

二葉亭四迷は、いやだから首相の宴会には行かない、といった人である。「このいやといふ声は小生の存在を打てば響く声也」。そのことと、彼がロシア文学の中で、ツルゲーネフばかりでなく、ガルシンやゴーリキを訳したこと、また小説を書いて同時代の日本の一市民の日常生活を、その条件を超えようとする願望との関連において描いたこと、さらに日本語の散文を日常的な話し言葉に近づけた(一致させたのではない)こととは、密接に係っていたにちがいない。(『二葉亭四迷全集』1981)

日蝕がいつ起こるかは正確に知ることができるが、革命がいつ起こるかはわからない。しかし日蝕よりも革命の方が、われわれの生活に大きな影響を与える。自然科学と社会科学とでは、予見可能性と共に扱う対象の性質が違う。その方法はどう違うか。社会科学的の広大な領域を見渡して、およその見当をつけるためにこの講座は役立つだろう。(『岩波講座 社会科学の方法』1992)

ーーーーここに至るまで、未だ全体の1/4ほどからしか抜書きしていない。何処を抜書きしても、恐ろしいほどにその著者の本質を突き、怖いくらいに加藤周一自身を語っているようにしか思えない。たった200-800字ほどの文の中に、加藤周一ほどに10数巻に渡る全集の本質を閉じ込める力量を持つ評論家を、現代日本において私は知らない(誰かいたなら教えて欲しい。しっかり読んで批評させて頂きます)。

「悼む」文章は「称える」よりも比較的長いが、長くても10ページほどに過ぎない。その中に人物を簡潔に的確に纏めて余す所がない。いや、ほとんどはもっと短く纏める。私は40年前に朝日新聞で「福永武彦の死」を読んだ(1979.8.15)。1800字程の文章の中に、未だ読んだことのなかった福永武彦の全てと、限りない友情が詰まっていた。加藤の尊敬するサルトルの弔文、青年時代の師匠林達夫への弔文・弔辞、その他さまざまな友人たちへ捧げる文章。加藤周一ほどに友情を大切にする文学者を私は知らない。

いかん。だんだん、だらだらした文章になってきた。切ります。(文字総数1801)







最終更新日  2020年01月07日 08時02分14秒
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2019年10月07日
テーマ:京都。(5700)
カテゴリ:加藤周一
9月23日(月)


2日目。朝の散歩兼朝食のため6時半に出る。宿は西本願寺の真ん前だ。







台風の影響は、幸いにもほとんどない。京都らしい建物も物色する。


西本願寺前の消防団は、以前も写真に撮ったかもしれない。


結局、モーニングをやっている喫茶店は、片鱗さえもなかった。京都は、パンが名物のはずなのに、モーニング文化がない。ファミリーマートの店内で食べる。カードが使えるのが嬉しい。


8時半出発、205番バスで衣笠校前で降りて10分ほど歩く。講堂に着いたら、9時半から18時半まである、加藤周一生誕100年記念国際シンポジウムの連続講演は既に始まっていた(会場内写真不可なので、載せられません)。
一番手は奈良勝司氏「近代日本の体外観と西洋理解」。頭が悪いので、難しい。加藤周一論ではなくて、江戸時代から明治維新にかけての国民意識の型を述べた。おらが村の中の1番意識(武威)と帰属集団の中で我をはらずに勤勉に努める(通俗道徳)が、現代まで残っている。知識人は個として孤立する(加藤周一)。というような意味だったかどうか自信がない。
2番手は中国人の孫歌氏「対談における加藤周一」。1番むつかしかった。竹内好や丸山真男との対談記録を駆使して、なんかいろいろ言っていた。


昼休み中に、加藤周一文庫に行こうとしたら休みだった。それはないでしょ!これを楽しみにしていたのに!講堂地下で、丸山真男文庫共同の「<おしゃべり>から始まる民主主義」という展示をしていた。確かに2人は対談の名手ではあったが、あまり大きな感慨はなかった。青春ノートの資料集、高かったし、カードは使えなかったが、約800円近く値引きしていたのもあり、遂に買ってしまった。この旅で本代は13200円にも及ぶ。嗚呼!
午後一番手は、池澤夏樹氏「『日本文学史序説』を読む」。喋り慣れていることもあって、1番理解出来た。幾つか重要なことを言っていた。私なりにまとめてみる。
加藤周一と初めて会ったのは、父親(福永武彦)の葬儀の時だった。次が1969.8.7の反核シンポジウム、次の対談をした時(2003)に、「あの人のことがわかるようになった」。←これは想定外の遅さだった。理系出身、外国生活が長い、リベラルと加藤周一と生き方が似ているので、もっと前から影響を受けているのかと思っていた(だって加藤周一の親友、福永の息子なんですよ!)。ずっと、あのノンポリの吉田健一から影響を受けていると告白していたのを不思議に思っていたが、少し納得した。
池澤夏樹は、日本文学全集を編む時に、加藤の日本文学史序説の「はじめに」部分から、教わった。他にも丸谷才一、吉田健一、中村真一郎の批評家を準拠した。加藤周一は、文学史を書く時に外国文学と比較し相対化する。それは一休宗純を述べる時にイギリスのジョン・ダンを引き合いに出すかの如くであり、狭い比較ではない。そして、客観性を担保する。
加藤周一のいう日本文学の特徴は以下の通り。
・文学が哲学をも代行する(一休宗純)。
・「具体的、非体系的、感情的」で抽象性を欠く(ソクラテス・プラトンは出てこない)。
・時代を超えて統一性が著しい。
・新しいものの追加とゆるやかな変化、建て増しを繰り返す(長歌→和歌→連歌→俳諧→短歌)。
・最初から叙情詩(古事記)叙事詩(万葉集)劇(猿楽)物語、随筆、評論、エセー全て揃っていた。日本語で書かれた文学史として、こんなに長く続いているのは、中国を除いて無いのではないか。
・細部に意を注ぎ、全体を見ない。
・求心的傾向。京都、江戸、東京。
・文学者とその帰属集団との密接な関係(文壇とか)
池澤夏樹は、これに加えて、近代以前は
・恋愛・性愛の重視(武勲の話はほとんどない、セックスか権力争い)
・自然への視線(成る・生るVSつくる)
・弱者への共感(勝ち負けの話になると、負けた方に心を寄せた)
・平安期までは女性の活躍(応仁から樋口一葉まで)現代は文学が1番ジェンダーが進んでいる。
序説への批判
・序説は人文地理的考察から始めてもよかったのではないか?
何故「建て増しの繰り返し」で済んできたからと言えば、同じ民族で済んで来たから
日本の特性としては、
島国であること、大陸との距離があること、異民族から独立を保てた「自然災害さえ我慢すれば侵略はなかった」、中緯度のモンスーン気候、キリスト教世界観とは違う「成る・生る」という動詞が基本の世界観
質疑応答より
・池澤夏樹のいう文学特徴の中で、異民族からの独立は1945年から保てなくなったと思うが、文学の特徴も変わったのではないか?
「変わったと思う、弱者への心の寄せ方も変わったと思う」池澤氏は、明治時代に変わったという認識だった。←これはとても重要な指摘である。私は、弥生時代の倭国統一も、維新の戦争を経ない統一も、弱者への視線を重視する日本人の特性が影響している、という仮説を立ているが、日本人がアジア侵略に向かったのは、その特性が崩れたから、という言い方が出来るかもしれない。現代の韓国報道も、近代以前ならば決して起きないことだったのかもしれない。自明のことではあるが、文学史とは、即ち思想史なのである。​
次は李成市氏「韓国から見た「雑種文化論」」である。韓国にも雑種文化的特性はある、というおおまかに言ってそんな話だったと思う。面白くなかった。
娘のソーニャ・カトー氏が短い挨拶をした。これが良かった。(あくまでも私的まとめです)
ヨーロッパ連合に対して英国離脱等内から壊されようとしている。日本も韓国に対する植民地的な考えが起きている。父はなんと言うか?どんな答えをするか?どんな質問をするか?と考えてしまう。理想と理性の精神が失われようとしている。
次の加藤周一が現れるのを見逃さない様に目を開こう。
次の加藤周一が必ず現れると確信しています。
この前の李成市氏の講演への質疑応答で、あいも変わらず、韓国を植民地化したことの真偽や、併合中で良いこともしたと言う事を、臆面もなく質問した人がいたので、余計によかった。
この後のシンポジウムは欠席した。それに参加していたら、今日中に帰れなかったかもしれない。また、あくまでもアジアの中の雑種文化論を語る大きなテーマは、私的には合わなかった。アジアの中でどのように平和に生きていけるのか、それを探る講演にしてもらわないと、私には合わない。これのために京都に来て1日潰したのだが、うーむ、イマイチだったと言うべきか。
鈍行で倉敷に帰る。家に着くと、11時近くになっていた。
10123歩






最終更新日  2019年10月07日 14時42分43秒
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2019年02月13日
テーマ:ニュース(95347)
カテゴリ:加藤周一


アーカイブス「加藤周一が残した言葉」2009.3.NHkより

永田誠さんの奮闘によって、加藤周一映像のYouTubeが多くUPされている。ここに載せるのは、一番初めに載せるに入門編として適当だ。短くポイントを押さえているだろう。

亡くなる半年前に撮影したNHkの追悼番組を映して、それを見ながら姜サンジュなどの言葉を載せている。すでに癌は全身に転移していて、身体は衰えているが、表情は非常に鋭い。10年前の語りではあるが、まるで安倍一頭政治の今を見据えて、「現代をどのように見たらいいのか」ということを語っているかのようだ。


ここで加藤が言っているのは「教養を持て」ということだ。このあと世の中を席巻するポピュリズムをこの時点で、根本から批判している。

なかなかこういう映像までチェックできないのだが、少しずつ紹介していきたい。











最終更新日  2019年02月13日 11時40分29秒
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2018年12月27日
テーマ:本日の1冊(3552)
カテゴリ:加藤周一


加藤周一の娘ソーニャさんの寄稿文by「図書」12月号

なんとか、手に入れた!題名は「夕陽妄語(とドイツ語のその言葉)」。ソーニャ・カトー文、高次裕翻訳。

内容は、​立命館の加藤周一文庫開館記念講演の内容​を大幅に膨らませたもののように思えた。あの時、聞きそびれていたことや、曖昧だったことも随分明らかになったような気がする。新しく知ったこともあった。以下、私的に「おおっ」と思ったことをメモする。

・(私は)この家系で加藤という名を継ぐ最後の者なのだ。
←つまり、家系的には加藤家は絶えるということなのか?最初の奥さん(京都の人?)との間に子供はいたのか?矢島さんとは子供はできなかったのか?いかん、いかん!下世話な感情です。
・←ウィーンとの奥さんとの関係が、これを読む限り、何故別れたのか、一向にわからない。
・パリでの加藤周一との共通の故郷として、パンテオン広場にある、ルソー像、ゾラ像と向かい合い、ヴォルテール像のすぐ隣のホテルを挙げた(←1度行ってみたい)。
・加藤周一のお気に入りの場所(ソーニャさんの定点)。クリュニー美術館の「貴婦人と一角獣」ブランクーシーの彫刻「接吻」(←1度行ってみたい)。
・ソーニャさんは、20代にヨーロッパ情報の加藤周一への通信員だったという自覚。←それは当然あり得るだろう。我々とは違い、そういう「生の声」を発信する友人は加藤周一にたくさんいただろう。それが彼の判断を正確なものにしていただろう。
・ソーニャさんは「(加藤周一が)政治家になることが、ひとつの選択肢としてあったのか」と思っていたようだが、日本人の読者でその選択肢があり得ると思う人は先ず居ないだろう。
・どうやらソーニャさんにとっても、加藤周一のキリスト教洗礼はショックだったようだ。「父は最期の時は一人の人間だったということだ。」ということは、この行動は、娘に相談していないということなのだろう。

あゝそうだ。ごめんなさい。2018年12月は、加藤周一没後10年、命日のある月でした。もう10年。はや10年。

・「制定から72年間を経過した憲法第9条保持のために戦う者として、私の父は今日でもまだ知られているか」ことあるごとに彼女はそう学者や学生に問い、返答は曖昧で「日本の社会には、そもそも平和の象徴となる人物がいない」と聞いたそうだ。落胆しているソーニャさんに言いたい。少なくとも私は、9条の会で加藤周一の果たした役割は、誕生から立ち上がり運動まで導いた役割は、9人の中で1番重く、決定的だったと思っているし、9条改憲を2018年末のギリギリのタイミングで、またもや退けたことは、9条の会の存在なしには語れないことであり、よって、日本の平和に果たした役割は、とてつもなく、非常に大きい。と心から思っています。

2018年12月読了






最終更新日  2018年12月27日 08時29分24秒
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2018年09月18日
テーマ:本日の1冊(3552)
カテゴリ:加藤周一


「終わりと始まり」池澤夏樹 朝日新聞出版社

2008年の末に亡くなった加藤周一の「夕陽妄語」に代わり、2009年4月から池澤夏樹の連載が朝日新聞紙上で始まった。 私はその前後に20年近くとっていた新聞購読を中止したので、このエッセイを読んだ記憶がほとんどない。本格的に加藤周一連載の後継に落ち着くことも、実は幾分疑っていた(それまでは暫定的に大江健三郎の連載があった)。あれから10年近く経って、既に二巻目が出ているこの本の第一冊目をやっと読んだ。

池澤夏樹は加藤周一の後継であると思っていたわけでもなく、期待していたわけでもない。それでもやはり新聞後継連載のエッセイを読んでみるのが怖かったのだろうと推察する。

題名の意味が不明だったが、加藤は漢詩から採ったが、池澤は「さりげないものがいいと思って」外国人の詩から採ったことが、今回知れた。いい詩である。2年後に詩の内容が現実(震災)に追いついたのは、偶然である。

読んでみると、池澤夏樹は多くの点で違っていた。文学よりも、旅の話が生き生きと語られる。ともかく池澤夏樹は「行動的」である。被災地に何度も通った。加藤も震災後神戸に訪れているが、その比ではない。もちろんだから優劣をつけるわけでもない。最新のマンガや映画の内容を何度も俎上に載せる。古典を大切にしていた加藤とかなり違う。日本に帰って住んだ土地である沖縄と北海道の話題が多くを占め、「戦後日本文学の1番大事な作家」と評価する石牟礼道子氏の関係か、水俣の話題も多かった。3.11の後からは、少なくとも2年間の2/3は震災関連話題で占める。古今東西の遠くに広がらず、比較的身の回りの話題が多いというのは加藤周一のそれとは違うだろう。

しかし、教養はやはり古今東西に広がっており、社会を批判的に見る目は比較的鋭い。イサム・ノグチが好きだから、政治の話をしないわけではない。むしろ積極的にしている。これらは「夕陽妄語」の伝統に似るだろう。

加藤周一は私にとっては、仰ぎ見る大先生だった。池澤夏樹は大学で演習のお世話になっている先生のような気がする。学ぶべき所は多いが、時々は「それは違うでしょ」と言いたくなるのである。ともかく、読み継いでいきたいと思った。

2018年9月読了






最終更新日  2018年09月18日 09時10分08秒
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2018年05月08日
テーマ:本日の1冊(3552)
カテゴリ:加藤周一


「文学とは何か」加藤周一 (解説・池澤夏樹)角川ソフィア文庫

この本には「思い出」も「想い」もあるが、それを今は展開出来ない。今回は特にこの文庫本のために書き下ろされた池澤夏樹の解説について、私の感想を書きたい。

旧版「文学とは何か」は1950年に角川新書として刊行された。少し読みやすくして1971年に新版を角川選書として出している。今回はおそらく新版はそのままに解説だけを付け足してソフィア文庫の中に組み入れたようだ(2014年7月初版)。何故か加藤の著作集に入っていないこの文学入門が、安く簡単に読めるのはたいへん喜ばしいことだと思う。

さて、池澤夏樹の解説だ。何故それに注目するのか?朝日の「夕陽妄語」が、加藤周一の死を以って終わったあとに、それを引き継いだのは池澤夏樹の連載だった。池澤夏樹は加藤周一の後継者なのか?加藤周一ファンとしては半分納得し半分訝った。外国生活が長く、古今東西の教養を持ち、社会的発言もまともな彼は後継者に相応しかったかもしれない。しかし、2014年11月から始まった個人編集の日本文学全集に、友人の中村真一郎や父親の福永武彦はあるのに、この巻に相応しく、個人的にも親しいはずの加藤周一が2人の巻に入っていなかったのに、先ずは私は「おや?」と思った。もっとも、それだけならば私は「加藤は評論家だから」と思ったかもしれない。「吉田健一」に一冊を充てた時に解説を書いて、池澤夏樹は「(自分の文学観は)主に評論家の吉田健一と丸谷才一に依っている」とあった。びっくりした。何故、よりによってあの究極のノンポリの、社会意識がゼロの吉田健一が入るのか。私はこの一冊を読み通すことが出来なかったので、その内実は未だわからない。ただ、池澤夏樹はこの解説においてこう書いている。

(文学とは何か、という問に答える本として)池澤夏樹は他に3冊の本を挙げる。

石川淳が『文学大概』を書いたのは43歳。
吉田健一の『文学の楽しみ』は55歳。
丸谷才一の『文学のレッスン』は85歳の時だが、『文学とは何か』を書いた時に加藤周一は31歳だった。若い分だけ覇気があり、無謀であり、勇猛だった。(197p)

先ず最初に、先の御方よりもこの文学入門が劣るかのように書いているのである。先ず構成がよくないと手厳しい。文学とは何かを論じるに、「客観的な方法」から入っているのは、間違いだと断じる。

しかし言うまでもなく文学はまずもって主観の装置だ。それは加藤だってよく判っている。普遍的な文学の定義を求めて客観に走ったが、そこから主観の方へ少しづつ戻る形で議論は進む。(198p)

そこから、各論には感心する所があると言って、流石に「解説」なので褒めて終わるのであるが、「ホントは褒められた本じゃないんだよ」と言外に書いているようで、私はむっとしている。ちょうどこの頃は、池澤夏樹が文学全集を編んでいて、おそらく吉田健一や丸谷才一を集中して読んでいた最中だと思うので、余計このような書き方になっていたのだと思う。

もちろん、「文学は主観の装置だ」という池澤夏樹の意見に異論はない。だからと言って、論理がグルリと回っているからと言って、老獪な評論家と並べて貶めるようなこの解説はどうかと思う。ホントに池澤夏樹は加藤から影響を受けていないのか?吉田健一を規範にした池澤夏樹は、吉田健一ならば決して書かなかったような社会批評を、解説の最後に付け足している。

誠実な批評家は自国の文学に対して厳しくなる。(略)この本が刊行されたとき、日本はまだ敗戦の空気の中にあった。それを終戦と言い換えて済ませるわけにはいかないと加藤は考えた。それが「日本近代文学の不幸」という部分に表れている。そして、戦争が敗北に終わってから69年後の今、この本が書かれてから64年後の今、加藤がこの本に盛ったと同じ批判を日本の社会に向けなければならない。「孤立しないためには、個人主義が個人的にではなく、社会的に徹底させられる必要がありましょう」というのはそういう意味である。(202p)

池澤夏樹の(あえて言う)自分の父親にさえやっていない「加藤軽視」は、もしかしたら自己への「批評が厳しくなった」現れなのかもしれない。

2018年5月読了






最終更新日  2018年05月08日 11時40分10秒
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2017年09月11日
カテゴリ:加藤周一



9月9日朝、新幹線に乗った。遅い2日のみの夏休み(実質は1日半)のために京都に行く。本当は、去年正月の島根行きのリベンジを計画していたのだが、日曜日午後の野暮用を思い出したので、新幹線1時間の処に急遽変更した。目的は何か。これも約1年間の願望だった立命館大学図書館内にある「加藤周一文庫」を尋ねる、それのみである。本来ならば1日あれば済む。でも1年間行けなかった。こんな機会がないとずっと行けないままだ。




京都は思い出の地だ。38年前、私はふたつの大学を受験するために、当時同志社の学生だった、兄貴のほとんど穴倉の下宿に10日間ほど泊まっていたことがある。受験と受験の間に、私は思いつく限りの京都観光を独りで回った。もちろん寂しくはなく、とてつもなく面白かった。私の生涯で、5ー6回は「世界が広がった」経験をした時があるが、間違いなくこの時はその一つだったと思う。私はその時に日本史と日本の美術に出会った。それはそのまま、その直後に出会う加藤周一の数々の著作を理解する手がかりになっただろう。

京都駅前から立命館大学行きのバスに乗る。




二条城。




バスの車窓から見ると、戦災にあっていない京都の町並みは、しかしほとんど千年の都の面影さえ観ることができない。古いものを遺さずに無秩序に街づくりをするのは、外国人にとって理解不可能だろう。台湾と似ている。あそこはせいぜい200年ぐらいの歴史しかないが。加藤周一は、そのことに異議を唱え少し運動をしたが、焼け石に水だったようだ。




立命館大学に着いた。新館の図書館のなんと立派なことか。




受付で、所定事項を書いて(免許証などの証明書は必要)加藤周一文庫の見学の許可をとる。写真撮影は不可なので、パンフの表紙だけを載せる。

1948年ごろの日記が展示されてあった。また、加藤周一の愛用の机と、寛ぐ時の椅子などを見る。それらを新調せずにずっと使い続けていたらしい。確かに悪いものではないが、もっと機能を上げようという気持ちを持たなかったのだろうか?鷲巣氏は、そこが加藤周一たる処だと指摘する。

加藤周一文庫の二万冊の蔵書は、圧巻であり、その一部と雖もその内容は歴史の中の古典全集はもとより、かなりマイナーな岩波文庫新書を揃えている。様々な外国情報も網羅する。NHK歴史ドキュメント、周恩来語録、人民日報資料集まである。小田実・自立する市民、三池争議資料集、中国石窟のシリーズ、安部公房短編集、池澤夏樹の各本、もちろん中村真一郎の各本、80年代の雑誌文化評論、みすず、丸山真男手帖、古いユリイカ、等々等々。森羅万象の全てに興味があり、私の蔵書の10倍近くを持っていた。

ひとつ気になったのが、蔵書の一冊(と言っても確かめたのは数冊のみ)たりとも、書き込みが無いのである。新品同様の本も、ボロボロになった古い本も無いのだ。加藤周一がノート魔だったのは知っている。ノートをとりながら、本を読んでいたのは十分に考えられる。しかし、加藤周一は移動の際も必ず本を持ち歩き読んでいたと何処かに書いていたと思う。付箋紙の無かった昔から、ノートをとりようがない昔から、彼はどうやって本の内容をまとめていたのか。頭がいいのは良く知っている。しかし、せめて線を引いた方が「合理的」なのではないか?

ともかく、質はもとより、量だけでも追いつかないか?という予想は簡単に砕け散った。




予想を若干超えて、やはり加藤周一はすごかった。という感想しか出てこなかった。鷲巣氏の、ノートを分析した、加藤周一研究が早く出ることを祈る。




終わって、立命館国際平和ミュージアムに行った。これで3度目。常設展示の図録を買う積りだったが、やめた。3度目となると、瑕疵も見えてくる。




コンサートもできるような、大きい一階エントランス。火の鳥が飛んでいる。

珍しい展示では、厭戦を煽る手紙や、トントントラカリの替え歌で厭戦をうたっていた。高地らしいが、庶民のささやかな抵抗があるのを見れて嬉しかった。




B29迎撃用ロケット燃料精製装置。




本来、鉄製の精密機械である。それを陶器でも作れるという日本人の器用さ、ここに極まれり。戦争の愚かさ此処に極まれり。

全体的にはバランスよく展示している。しかし、である。現代情勢に言及しているのは、イラン戦争まで。ISはもとより、戦争法をめぐる日本の情勢に一切触れていないのは、はっきりいって片手落ちだろう。




昼食は近くの中華店で、北京定食。






最終更新日  2017年09月11日 11時42分34秒
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2017年04月07日
テーマ:本日の1冊(3552)
カテゴリ:加藤周一



「世紀末ニッポンのゆくえ」インタビュアー小尾圭之介 ミオシン出版


文教大学情報誌に連載されたインタビュー集。1997年、ちょうど20年前の本である。お目当てはもちろん巻頭の加藤周一。日本の「システム」についての、私にとっては自明の、しかし多くの読者には新鮮で鋭い指摘が続くインタビューだったろうと思う。

加藤は20世紀日本の成功の要因を支えた「工業化」を更に支えたのは、一定の条件があったからだという。それは日常生活に犠牲が少なかったこと。日常生活の様式の変化は少なかった。また、天皇制官僚国家を民主主義の犠牲の上につくることに成功した。

しかし、
「一般に、少数意見を内部に抱えている国•団体は、状況が変われば、今まで少数意見だったものが多数意見になって、別の方向に進むことが出来るのですが、日本では、少数意見を排除してしまうことで能率は高めたが、必要な方向転換もできないようになったと思います」(15p)
「明治以来の日本は集団主義で一億一心、団結して与えられた目的を達成することはできるが、方向転換能力がないために必然的に失敗します。この100年に成功も失敗もあって、戦後もその気質が続いていると思います。しかし、今、それが隠されているように見えるのは、戦後がアメリカの占領下から始まったからでしょう。現在は法的に独立し、内政面では占領は終わりました。しかし、外交政策と軍事面ではだいたいアメリカに従っていますから、アメリカの準保護国的状況、実質的には半独立国です。」(17p)

半独立が何故続いているのか。
一つは、アメリカが解放軍として、軍事型官僚国家から解放したから、歓迎した。
一つは、日本の国民性。現実を直視しない。衣食足りて心理的に政治から遠ざかる。「寄らば大樹の陰」もあった。
一つは、鎖国の影響。国際情勢を客観的に見ずに、絶えず日本との関係においてだけ見る。最近では、冷戦が終わると同時に、ドイツは基地問題に反応した。日本はしなかったし、今もしていない。(19p)

21世紀への展望を聞かれて加藤周一は「南の犠牲で繁栄する北」という構図を変えなければならない、と解く。1996年11月の段階では、これはあまりにも預言的だった。曰く。
「経済力、軍事力は北にかなわないとなると、南のアイデンティティーを守るためにできることはテロリズムだけです。これは絶望的な暴力です。希望を与えることがテロへの唯一の対策です。そういうことに日本がいくらかでも貢献することが望ましいと思います」(28p)しかし現実はそうではなく、アメリカの腰ぎんちゃくに成り下がっているのはご承知の通り。国家間の同盟の問題や、科学技術問題特に原子力発電などのエネルギー問題でも文化的アイデンティティーでも預言的発言をしているのだが、割愛する。

改めて、加藤周一の視線の届く距離は長いと思った。

2017年3月31日読了







最終更新日  2017年04月07日 15時23分34秒
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