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再出発日記

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考古学

2020年03月25日
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カテゴリ:考古学

そこからしばらく歩く。獣道みたいであるが、30年前までは畑を作っていた生活道路だったようだ。しかも、「こんなところに!」と専門家も驚く五輪塔を彫った石碑が辻堂隣にある。平安時代に遡るようだ。重要な道だった可能性がある。

確かに張田は、近世山陽道の要の場所だった。番所もあったらしい。その上が何故重要な道になるのか。どうやら昔、銅が採れていたらしい。それが何時からなのか?もし弥生時代からだとすると、此処に、王墓が集中するのも宜なるかなとも思う。


【大東第二号古墳】にたどり着く。ホントについ最近、2017年に地権者から「そんなモンならこっちにもあるよ」ということで、測量をすると、円墳らしきものが出現。それを更に伐採整備した。すると、前方後円墳らしき形が!全長約34m。形は1、4号古墳と酷似している。


最も大きな大東大仙山古墳と小さな谷を挟んで東隣に存在。非常に興味深いのは、大東1、2、4号古墳共に、同じ向きに向いている。初期古墳は、後円部が県境方面に向いている。それは何故か?その方向には狭まった古代道しかないのではないか?


もう一つ謎がある。後円部南に大きな平坦なテラスがあるのだ。これが、もし「造り出し」の初期形態だとしたら、とてつもなく大きな発見だ。どちらにせよ、発掘しないとハッキリしたことはわからない。前方部とテラスでは、葺石らしきものはほとんど当たらず、後円部だけはぎっしりとあったらしい。昭和時代には、この地で畑や家はなかったらしい。


移動途中、猪の罠があった。一人で来るときには気をつけよう。


大東大仙山古墳の前にある墓地も、実は古墳だった(【大東第三号古墳】)。造成時に石棺が出ている。


それをまとめて、墓地の入り口に祀っていた。


さて、【大東大仙山古墳】である。これだけは、教育委員会が立て看板を作成している。ロマンを蘇らせる会が発見したとハッキリ書いている。【訂正】立派な説明板なので、てっきり教育委員会設置かと思いきや、ロマンの会お手製の説明板でした!すみません。節約のために、設置は自力だったようです。1-4号古墳はだから何もしていない。確かに発掘しないと、確かなことがわからないのは理解できるが、大きさや形など今わかっていることだけでも書いていたら、ここまで来てみる人の参考になると思うのだけどなあ。


元は藪だった。
「最初専門家の方は、前方後円墳とは絶対違うよと言っていたんです」
そのあと、伐採整備してもう一度見せたらしい。
「そしたら、一目見て、間違いないよ!と。頭が柔らかいというか、なんというか。でもハッキリ認めてくれたお陰で、前方後円墳と確定しました」
笑うしかない。

全長47メートル。形で言えば、前方部はバチ型。前期(3c後半ー4世紀)に当たり、備後の前方後円墳としては最古になる。築造時点では、備後で最大の可能性がある。現状では、葺石、埴輪は確認されていない。となっていたが、



なんと参加者の小学生たちが、神社の下を探すと、土器片が見つかった。しかも、なんと弥生土器くさい。!!!


説明者の佐藤さんは興奮を隠せない。
れならば、弥生時代の築造の可能性がある。
ないとは言い切れない。何故ならば、讃岐で、弥生時代の前方後円墳が発見されているからである。それはどういう意味か。
一般的に、前方後円墳は、大和政権が地方豪族を従えるための位置づけの意味があった。大和政権が前方後円墳を指導したのである。しかし、その最初期に置いて、実は備後から「前方後円墳の形が発生した」ということになる。様々な前方後円墳形があって、まだ固まっていないこの古墳群がそれを裏付けることになる、のではないか?
と、とうとうと述べたものである。まるで、弥生の王墓を発見したかのような説明だった。

とっても新鮮だった。
今まで参加してきた、古墳巡りは全部教育委員会の説明者であり、基本こんな「ロマン」は人前では語らない。
もちろん、ちょっと「危うい言葉」はいくつも出てきたが、素人の私たちは「とっても楽しい」!


後円部前のこの盛り上がりも墳丘墓の可能性があると言っていた。


御領遺跡は、古墳時代の重要遺跡ではない、ことが少なくともハッキリした。弥生時代でも、非常に興味深い遺跡だった。弥生関係だけでも、まだまだ行けていないところがある。帰って、「御領古墳群こふん弁当」を食べさせてもらった。ものすごい手の凝った企画なのに、みんな買わずに帰っていった。スタッフが残りを食べていた。なんでだろ。


私の興味関心は、楯築の王との関係だ。特殊器台は、少し出ているらしい。それを求めて、神辺歴史民俗資料館に出向く。かなり南側の神辺城の隣にひっそりと立っている。城の荒布櫓跡から、神辺の街並みを見る。


神辺歴史民俗資料館。



そこから、御領遺跡を眺める。


日曜日なのに、誰も観覧していない。「40年間展示資料は変わっていないのではないか」とロマンの会の方は言っていた。しかし、さすがに公立の資料館である。重要な遺物があった。


西中条の愛宕山墳丘墓から、特殊壺片が出ていたのである。少なくとも、少しは吉備影響があることがハッキリした。


また、典型的な分銅型土製品も出土していた。


また、御領遺跡から出土した、船絵画土器のレプリカが展示されていた。山道を車でえっさら登ってきた甲斐があった。


御領遺跡の範囲は、こんなに大きい。これからも期待して良さそうだ。






最終更新日  2020年03月26日 12時48分47秒
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2020年03月24日
カテゴリ:考古学

3月22日(日)に、御領の古代ロマンを蘇らせる会主催の「第四次古代探検隊-弥生の王墓を探せ-」に参加した。ちょっと興奮している。早く御領遺跡全体を全面的に発掘するべきだ。

私の興味関心から少し外れる「古墳探検隊」とあるので、実は参加を躊躇していた。でも行って良かった。正に私の興味関心のど真ん中、弥生終末期(かもしれない)の遺跡群であり、もしかしたら、幾つかの大発見を含んでいるかもしれないのである。


【張田遺跡】井原市高屋との境にある金光教芸備教会で集合して二班に分かれて裏山に上る。丑寅神社の上方にある窪地(猪の堀跡・沼田場)から朱塗りの壺(弥生後期後半)が発見された。埋納されていた祭祀土器の可能性が高い。土器棺かもしれない。非常に興味深いし、この上に重要な古墳がたくさんあることを考えると、更に興味深い。


これは見つかった壺。


【大東第一号古墳】急な斜面を登って行くこと、標高130メートル。前から古墳と目されていた遺跡が、この度、前方後円墳型の古墳と判明した。会が古墳周辺を広く伐採整備したことで判明した。後円部は径約18m・高さ約2.5m、前方部は長さ約12m・幅約1.0m・高さ約1-1.5mといった規模が予測。弥生後期前葉の土器が見つかっている。弥生墳丘墓を改変して古墳を作った可能性もあるが、もともと前方後円墳発生期の古墳の可能性も捨てきれない。


此処から、眺望は非常に良い。


更に上がる【大東第四号古墳】がある。明治期の天神社を後円部とし、全長約35m,1号墳と同じ向きと形である。


神社建立の際に、石棺部は消失しているように思える。ただし、神社の両脇の積み石は、主体部の石槨の転用かもしれないし、石碑の土台も石棺の転用かもしれない。


そのうちの一つは、叩くと高い音がするカンカン石(安山岩)である。石棺の蓋によく使われる。二上山からも産出するが、讃岐からも産出する。つまり、讃岐と此処で繋がる。


弥生後期の特殊土器が見つかっている。10センチの小片ではあるが、復元径を推計すると、40センチらしい。大型器台の可能性がある。表面採取なので、なんとも言えないが、弥生首長墓の可能性も捨てきれない。






最終更新日  2020年03月24日 09時51分01秒
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2020年03月23日
カテゴリ:考古学



さて、次に行ったのは、塩津山公園である。ずっと気になっていた、山陰道を通る時トンネル手前から上を見ると見える古墳復元(実際はその下に実物があるらしい)。これは古墳時代前期の塩津1号墳。この地に最初に作られた古墳で方墳だが、四隅突出墓の特徴を残している。



1番期待したのは、ここには6・10号墳と、弥生後期の島根県内最大級(つまり大谷古墳群と同等の40m)の四隅突出墓があるはずなのだ。説明書には、存在は示しているのだが、行ってみても案内板は全然わからない。場所がわからない。古墳と比べてこの扱いはなんなのだ。もちろん藪の中をかき分けしばらく探しましたよ。でも全然かけらさえも見つからない。後でガイドマップをじっくり見ると、場所が微かに確認できた。リベンジ候補。それに隣接する柳・竹ヶ崎遺跡も山陰道でかなり削られたようだが、確認していない。今回下山墳墓群や安養寺墳墓群復元模型も確認できていないので、リベンジするべきだと思う。


車を途中に留めて、中仙寺墳墓群に向かう。駐車場がないというので、かなり遠くから田んぼをテクテク行ったのだが、結局楯築遺跡のように住宅街の丘陵にあり、近くに工夫しながら駐車は出来たと思う。




中規模(含突出27m)の四隅突出墓である。19あったが、二つしかのこっていない。写真は八雲立つ風土記の丘から採っているので、遺物はそこにあるんだっけ。あそこに資料とか揃っているのかなぁ。


そこからテクテク宮山公園へ。4号墳。中規模(含突出30m)の四隅突出墓。


後期の発達したそれで、突出部はシャモジみたいな形をしている。


ここには隣に形のいい前方後方墳があり、


実はその背後の安来第三中学校のところに、出雲で2番目に大きい前方後方墳があった。


また、ここから中仙寺墳墓群も見え、


塩津山墳墓群も見える。この三角形地帯に王陵が固まり、同じ王陵に後代、方墳や前方後方墳を作り、長きにわたって安来王国をつくってきていることがわかる。

この地域は、川と海といくつかの平野に、神奈備山にできるような丘が立ち並び、いかにも弥生王国が出来そうな地域だ。しかも、出雲中心部と肩を並べる四隅突出型墳墳墓群をたくさん作りながら、大谷王国が滅びた後も、滅びた形跡がない。もしかしたら、大和政権の出雲支配の道標役を買って出たのではないか?という憶測も無碍には出来ない感じだ。

ただし、大和政権とは一線を画している。3C後半から4Cにかけて、全国最大級の方墳が相次いで作られている。四隅突出墓の伝統も積極的に引き継ごうという面も見られる。ホントに安来王国は大谷王国を裏切ったのだろうか?

また、古墳時代中期から後期にかけて、全国的には激減する前方後方墳が、安来では広がりを見せる。安来王国の位置づけはどうだったのか。


この後、塩津神社古墳を見た。石室だけがのこってある。説明書にもあるように古墳時代後期から終末期に現れた非常に変わった石室だ。


石棺式石室という。土に覆われるべき天井が家形というのが大きな特徴である。かなり複雑な形。この地域の豪族は、土に埋まる前に石室内で儀式をしたのか?ともかく、この地域は、長きにわたって、大和政権の言う通りにはならないぞ、という意識が見え隠れする。

昼になった。米子道は、まだ全面チェーン規制がかかっている。山陰道を帰って、淀江で降りて、久しぶりに妻木晩田のガイドセンターで、新たな図録を買うことにした。






改めてこのジオラマはよく出来ている。


木製品の作り方も、改めてよくわかる。


こじんまりとしているけれども、良いガイドセンターだ。青谷上寺地遺跡のように、大きな展示会を是非して欲しい。図録は、簡便な総合図録しか売っていなかった。とっても残念。1時半、外に出ると雪が降り始めた。鳥取から津山に帰る大回りの道を選ぶ。


大山・道の駅で、蒜山豚で作った生姜焼き定食を食す。あとは、延々鳥取から北へ高速を走り智頭で高速を降りて奈義町へ向かった。峠あたりで、景色が雪景色に一変してヒヤヒヤしたが、道は凍ることなく、なんとか無事に戻れた。判断が良かったと思う。今回は、思わぬ雪で、急ぎ足になったが、温泉はゆったり使えたし、発見もいろいろあって楽しい旅だった。






最終更新日  2020年03月23日 07時23分03秒
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2020年03月22日
カテゴリ:考古学
2020年3月16日 島根の旅


昨晩降り出した雪の影響は、皆生温泉の周りはとりあえずなかった。しかし、米子道が全面チェーン規制だ。困ったことになった。今日中に帰らなくてはならないのだが。朝食は、ホテルらしい格式。ちょうどいい量だった(常備薬を置き忘れた。しょっちゅうである)。


9時出発。前回出雲の旅の時にとりこぼした「安来」(島根県)に行くことにした。あまり時間がない。昼過ぎには帰る体制を取らないといけない。でも、安来の唯一の歴史博物館らしき「安来市立歴史資料館」に赴く。来てみて、わかった。戦国時代の月山富田城跡の真下(白い建物)が資料館なのだ。


この模型を見ると、思った以上にに広大な堂々としたお城だった。戦国時代のお城としては、ピカイチと思う。中世では尼子氏代々の居城として栄え(1467-1566)、尼子氏滅亡以降は毛利氏の山陰地方支配の拠点となる。江戸時代は、堀尾氏が松江城を建てるまで、此処に居たらしい。


帰り、山中鹿介の尼子氏再興を大河ドラマにせよ、と町が全面に力を入れていた。最近の「麒麟が来る」を見ると、可能な気もしてくる。


予想通り、弥生時代展示は両手を伸ばすぐらいしかなかった。吉備器台が出ているのが、特に目を引く。果たして、王墓の祭に吉備特殊器台を使ったのか?だとしたら、出雲大谷墳墓群と同じ扱いということになる。もし、違っていたらそれはそれで考えないといけない。特殊器台がもし「龍信仰」というベースがあるのだとしたら、緩やかな同盟関係にあったとしてみても良いということになる。この資料館に、もし遺物が無くても古代のガイドパンフがあるのを期待していたのだが、それさえも無かった。もちろん図録など一切ない。3人も職員が居るのに、ちょっと情熱が足りないなぁと思う。今回回った博物館で、ここだけコロナのために名前と住所を書かされた。


そのあと、足立美術館の外側だけを見た。あの庭をこの白い箱の中に閉じ込めているのか。太陽光はどうしているんだろう。


荒島駅の近くに、古代出雲王陵の丘というものがあるようだ。そこを目指して行く。資料館で資料が一切手に入らなかったので、そこに行くしかなかった。行くと、ここは目当ての弥生時代ではなく、造山古墳群、つまり古墳時代のものでした。幸いにも、この最初の王陵にガイドマップが置いていた。他の王陵に残っていたのは塩津だけだったので、貴重。このガイドがあるかないかでは、全然違う。どうして安来市立歴史資料館には置いていないのか?


前方後円墳(2号墳、古墳時代後期、50メートル)があるのはわかったが、目当ての前期で1番大きな方墳である1号墳の位置がわからなかった。前方後円墳から出雲地域を眺める。


辛夷の咲く丘陵から宍道湖の中海と、遠く国引き神話の全体像を眺める。

ここで一旦切ります。






最終更新日  2020年03月22日 15時44分09秒
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2020年03月18日
カテゴリ:考古学
2020年3月15日鳥取の旅(2)


9号線通って青谷へ。ここにしかないと思われる図録を買うためだが、きてよかった。先ずは、食事。展示館横の物産館の人に教えてもらって古代米カレーを食べた。コーヒー&カレー五島(青谷4928-1)920円。物産館で貰ったチケットで、食後コーヒーが無料。






青谷上寺地展示館の展示は流石に出払っていて、しょぼいものだったが、それでも面白いものがいくつかあった。


特に、この(実物は鳥取にあった)の籠の複製品は改めて凄いと思う。


実際の遺跡に久しぶりに行く。遠景。




近景。



ホントはアプリで、発掘途中の写真共に見せれるはずだった。ところが上手く作動しない。直ぐに固まる。(後で岡山県に帰って作動させると、なんとか動いたので、アプリもまだまだだけど、青谷の通信環境も良くなかったのかもしれない)説明版と一緒に見せる。

バイパスで米子へ。


米子山陰歴史館は、元米子市庁のようだ。


いわゆる、洋風建築。


妻木晩田の展示があることで行ったのだが、パネル展示だけだった。ガッカリ。


青谷の古代道の発掘様子が載っていた。



ホテル松月に着いた。皆生温泉である。わりといいホテルだが、一泊朝食付きを6600円という安さはコロナの影響ではない。曜日と部屋の位置のためだという。ホテルから伯耆大山を眺める。この時はまだ天気が良かった。


夕食は、高い和食屋はとても手が出せないのだ、安いと思われる居酒屋に入った。
「景気はどうですか」
「全然ダメですわ」
ビールと、おまけのような蟹味噌と、焼き鳥だけで2100円も取られた。親父の生活費だと思って喜んで払う。帰りに、コンビニでビールと美味しいつまみ三点700円を買って帰宅に着く。



6600円だけど、家族風呂サービスがつく。必要ないけど、後学(?)のために入ることにした。勉強になった。

風呂から出ると、ボタン雪が降り出した。皆生温泉周りでさえ積もりそうな勢い。明日、私は大山のそばを通って帰れるのだろうか。







最終更新日  2020年03月18日 10時43分29秒
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2020年03月17日
カテゴリ:考古学
鳥取の旅 2020年3月15日(日)曇りのち雨

8時に家を出て、3時間半車を飛ばして鳥取日市に着いた。智頭から高速自動車道が通っていてびっくりした。


鳥取博物館はちゃんと予定通り「青谷上寺地遺跡の世界」を開催した。






どうやら重要文化財指定遺物記念展らしく、指定された重要文化財がわんさか展示されている。





無料のミニパンフはあったが、1/3ぐらいしか解説されていない。やはり、図録か欲しかった。













それでも、パネル展示の「説明」は、この間の研究成果が非常にわかりやすく書かれていて、とってもおすすめです。私は既に何度も見てきた遺物が多いので、これを見るだけでも意味があったと思う。




その他の気になる展示は例えばこんなもの。まぁ面白かった。脳がまるまる保存されていた骸骨と、青谷にもあった分銅型土製品。



鳥取博物館には、ダイオウイカと70年近く生きた大山椒魚の剥製が展示されている。


博物館の外に出ると、ここは鳥取城跡に建てられていて、仁風荘?という明治建築風の建物が風情を出していた。






最終更新日  2020年03月17日 10時43分39秒
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2020年02月29日
カテゴリ:考古学
かなり迷った。大きな道から中に入ってゆく時の案内板が無いので在る。これは、絶対改善して欲しい。




猫塚。もっと双方中円墳の形が推測出来るかと思っていたら、まるきり崩れていた。古墳時代では、此処にしか無い形。弥生時代最大墳墓の楯築遺跡と同じ形である。


微かに前方部が推測できた。


わずかに、山の下の住居が見えるが、そんなに見晴らしがいいところではない。ここが最初の王墓だとしたら、最初は祭祀の方に重きを置いた可能性がある。


楯築遺跡が工事で壊されなければ比較的綺麗に残っていたのと対照的。これは積石塚の特徴なのではないか?何故積石塚を採用したのか?2つの説があるらしい。一つは、弥生以来の集積墓に起源を持つ。一つは、高句麗や百済の積石塚に起源を持つというもの。私は後者だと思う。しかし、猿真似だった。よって、数世紀ですぐに崩れるものしか作れなかったのだ。猫塚、鏡塚などは前期前半4世紀のものらしい。よって、間に200年もの歳月があって、楯築遺跡との関連はないだろうというのが定説である。つまり、祭祀の関連はないのである。来てみて、私はその思いを非常に強くした。


行けなかったが、鶴尾神社4号墳出土と言われる方格規距四神鏡もこの時期の鏡。鏡の世界は良く知らないのだけど、神獣鏡のようなゴチャゴチャしたものより格が上らしい。


猫塚からしばらく行くと、展望スポットがあって、カップルの車が長いこと停まっていた。


そのあと、完全に崩れている猫塚古墳(前方後円墳らしい)。


小塚古墳等々の積石塚系の古墳を通る。



前期後半の石船塚古墳。前方後円墳で形が残っている。



だけでなく、石棺が綺麗に残っている。頭を置く部分を綺麗に加工していた。この時期には、既に双方中円墳は築かれない。前方後円墳も、かなり前方部が長い、特徴ある古墳だ。石清尾古墳群衰退期らしい。




これが鏡塚古墳。ここから、屋島が綺麗に見える。ということは、海からもこの古墳が綺麗に見えたということだ。




更に10分ほど山道を行くと、北大塚東古墳、北大塚古墳、北大塚西古墳にたどり着く。暫く瓦礫の山があるようにしか見えない。


わずかに前方部がわかる。


ここからの景色の方が、屋島は良く見えた。鏡塚はどうしてこっちを先に頂かなかったのか。余計なお世話だけど。

そこからかなり急なそして石ころだらけの斜面を降りてゆく苦行を経て、おそらく道を間違って大回りして帰途についた。

途中で峰山養蜂場作りの蜂蜜を買う。何か記念が欲しかった。

長いこと歩く。電車で帰りたかったが、それ以上にうどんを食べたかった。県庁前のさか枝に行くと、やはりもう閉まっていた。その他、いくつかのうどん屋は閉まっていた。高松の有名うどん屋は、祝日やらないとか、やっていても2時で閉めるとかだったのを忘れていた。結局駅まで歩くことになる。兵庫商店街に着く。


うどん市場というところが開いていた。


天ぷらをその場で揚げてくれる。シソと玉ねぎのかき揚げ、ゴボウのかき揚げ、そしてかけうどん少で、410円。安いけど、美味しい。天ぷらが美味しい。いりこ出汁が美味しい。

店を出るともうすっかり暮れていた。
この日は約3万3千歩歩いた。







最終更新日  2020年02月29日 10時43分57秒
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2020年02月28日
カテゴリ:考古学
高松駅に着くまでは、「静かなる炎天」の書評に詳しく書きます。


高松駅についた。ホントは7時に家を出るつもりだったので、9時に家を出て11時20分過ぎについたのは僥倖の部類に入る。バスの運転手に感謝。


その足で、県立ミュージアムに足を運ぶ。10分少々で着いて、40分ほどで見て周り、15分で戻る。今日は2つの博物館を回って、山登りさえする。急ぎすぎて困ることは無い。





県立ではあるが、やはり古代は全体の数%しか展示スペースがない。それでも紫雲出山遺跡の弥生時代に戦争が始まったことを証明する石鏃の展示や、石清尾山(いわせおやま)古墳群の猫塚古墳の遺物の展示が目立っていた。








今日は、図録を買う気まんまんでリュックを担いでやってきたのにお店には本図録もなければ、古代歴史関係の図録は一切なかった。「ないんですか?」「本図録は売り切れているんです。」とのこと。この博物館に、古代遺跡を期待するのは、一切やめよう。



昭和町までの切符を買った後に、電車は50分後にしか来ないことが判明。50分の待ち。お昼を食べにうどんやに入る。なるほど、うどんそのものはコシもないし、キレもない。何故それが、本場高松でこんな人がいるのか、不思議だったが、天ぷらが美味しいのである。出汁も良い。香川でうどん屋を流行らせるためには、うどんだけではダメなのである。


ここまで来たら歩いて行った方が早いと判断する。途中で高松市のマンホールを写す。屋島の戦いでの「那須与一扇の的を射る」の図です。高松市立歴史資料館は、昭和町にある。約15分間で着いた。





ここの展示も、古代に関しては県立とそう変わらない。





図録も本図録こそはあったが、古代歴史ものはほとんどなかった。あと確かめていないのは、埋蔵文化財センターだけか。


同じ建物に菊池寛記念館が併設されていたので、この前書評を書いたこおもあり、覗いてみる。歴代芥川賞・直木賞受賞者をずらっと並べているのが印象的。流石に、戦時協力の展示はザット見ただけだが一切なかった。


歴史資料館の受付の方に、石清尾山古墳群の行き方を詳しく聞いて歩いてゆく。石清尾八幡宮神社には、馬の大きな像があった。何故か?ちょっと興味あったが、確かめる時間はない。

資料館受付だけではなく、車を洗車していたおじさんや、タクシー会社に居た運転手など、途中で声をかけながら迷うことなく山登りを敢行する。こういうのが、日本の遺跡巡りでは便利なところだ。韓国のように決して一緒に歩いてくれる人はいないが、要所要所で的確なアドバイスをもらえる。異様に車の行き交いが多い。普通の古墳群の山にはあり得ない多さ。道理でみんな場所を知っているわけだ。時は天皇誕生日。頂上の峰山公園に向けて、4つある駐車場は全部満杯で、子供がうじゃうじゃと遊んでいた。かなり急なハイキング道をあがって行ったおかげで、八幡宮からは30分ほどで公園に着いた。大汗。良い運動。




横穴式石室が見事に残っている石清尾山2号墳。六世紀末の築造。公園から5分という立地とメジャーな姿で国指定になったけど、特異性はない。





そこから猫塚古墳を目指す。これが今日の目玉である。何故か。2世紀の楯築遺跡以来、日本に再登場した双方中円墳という形を見たかったというのが一つ。ここから出土したという副葬品が多様で、紛うことなきこの地域の王墓であったということが一つ。県立ミュージアムでも、歴史資料館でも、出土品のレプリカが展示されていた。銅剣17本、銅鏃8本、筒形銅器3本、内向花文鏡など様々な鏡。ホントに全部猫塚から出たのか?という多さだ。




ところが、迷って、地域の人にも聞いたが「あっちの方ですよ。えっ、案内板ありますよ」という返事。でも、案内板はない。細道を入ったところの古墳の目の前に案内板はある。知らない人は、どうやって此処に来るんだ?と私は言いたい。以下次号。






最終更新日  2020年02月28日 18時09分37秒
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2019年12月25日
カテゴリ:考古学

松木武彦教授の古墳めぐりの3回目は、長野県伊那谷の飯田古墳群を取り上げています。古い古墳や大きな古墳だけが、見るべき古墳ではないことを、松木さんは雄弁に語ります。

古墳時代前期の3-5世紀前半まで、伊那谷には古墳はあまり築造されていません。歴史の表舞台に出てきたのは、雄略天皇(倭王・武)の時代です。長さ76mの塚原二子塚古墳(前方後円墳)が出てきます。それ以降20基の前方後円墳が1世紀の間に築かれるのです。

何故か。副葬品は、かぶと、矢尻、刀などが多い。伊那谷の平地や気候が、馬の成育に向いていて、一大馬の産地になったからだろうというのが、松木さんの意見です。大陸仕込の馬の飼育と訓練が展開されたようです。それに付随して、内陸交通の要所となります。

基礎的な農業生産力が低かったことで、6-7世紀に国府・国分寺に拠点は移り!再び長閑な山間地域に戻ったのだろう、という松木さんでした。

雄略天皇の軍事侵攻政策の一端を垣間見る、古墳の見方で、文字にない歴史が見える。






最終更新日  2019年12月25日 22時44分27秒
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2019年12月14日
カテゴリ:考古学


松木武彦教授の「全国おすすめ古墳めぐり」(「新聞赤旗」金曜日連載)の2回目は、鳥取県淀江の向山古墳群が選ばれました。6世紀の群集墳です。私自身は、直ぐそばに弥生時代の妻木晩田遺跡があるので、3回は来たことがありますが、そんな魅力あるものとは思っていませんでした。松木さんは、「大和政権ができてなりを潜めていた勢力が、それまでの大王とのつながりが薄い継体になって台頭してきたのだ」と言います。同じ丘陵の石馬谷古墳から出土した石馬は、九州の磐井の残党が継いだ可能性があります。そう考えると、四隅突出墓勢力が突然勢力を無くし、300年経ってまた力を蓄えたのだという「物語」も見えてきます。遺跡めぐりは、これだからロマンがある。






最終更新日  2019年12月14日 10時37分59秒
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