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考古学

2019年10月06日
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カテゴリ:考古学


そのあと、約2時間かけて信太山駅から弥生文化博物館に行く。一年ぶり。あの時にどこかの店に置き忘れた図録を買い直すのと、新たな図録を買うのが大きな目的だ。突然の台風の雨に見舞われながら、着くと、二回廊下に萱振遺跡の最新研究成果を発表していた。


農村遺跡だけど、いろんなところの土器が集まっているらしい。これはこれで山陰土器。




吉備土器。


地元の土器。


和歌山土器。


今回の特別展「白兎のクニへ」
説明書がとてもわかりやすく展示されていた。それに沿って写真だけで構成したい。










































































図録を買った。今城塚古代歴史博物館とあわせて約1万円、約15冊、約3キロほどの重さになり、リュックがパンパンになった。けれども、図録は目についた時に買わないと、すぐに売り切れになるし、いつ買えるかもわからない。一期一会なのである。




五時まで粘って、博物館を出ると、岸和田ではなく、池上町のだんじり練習が続いていた。5人ほどの中学生が、シャンシャンピーヒャラやっていた。


岸和田だけではないんだ。この和泉地方は、岸和田の数キロ北にある。少し見てみたかった。


京都駅に到着。


古い旅館「あずま屋」。






近くのフランス料理店でコース料理。カードが使えず痛かった。
16426歩






最終更新日  2019年10月06日 18時16分07秒
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2019年10月05日
カテゴリ:考古学
9月22日(日)晴れ
9月23日に京都で1日かけて加藤周一生誕100年記念講演会がある。それにかこつけて1泊2日で旅に出た。とは言っても行くところは単純。1日目は、この10年間ずっと行きたかった今城塚古墳歴史博物館と、去年買った図録を無くした弥生文化博物館である。


鈍行で行くつもりだったが、少し寝坊したのと、もしかしてギリギリの予定なので、後悔しないように新幹線を使った。結果正解だったと思う。予定より2時間早く摂津富田についたが、今城塚古墳歴史博物館が思ったよりも充実していて、結局3時間以上も滞在したからである。信太山に行こうと思えば、着くのは3時ごろになるだろう。鈍行で行けば間に合わないところだった。摂津富田からは30分近く歩いて行くしか手段がない。延々と住宅地が続く。


途中、宮田遺跡という平安時代の農村遺跡があった。今城塚古墳や太田茶臼山古墳があるこの大槻は、古代から広い平野が広がっていたのだろうと想像がつく。




少し迷って、「日本で唯一大王墓であり、中への立ち入りが可能な」今城塚古墳についた。最近の報道では、大山古墳(仁徳天皇陵)を押さえて1番人気のある古墳に選ばれたらしい。


着くと、家族連れが多い。それもそのはず、ハニワバルコニーが整備されていて、まるで遊園地の如くハニワが並んでいるのである。




説明書は上の通り。


今城塚古代歴史館。やっと来れた。


ボランティアの人が、私1人だけど説明を買って出てくれた。お陰で、突っ込んだところを知ることができた。宮内省が継体稜と比定している太田茶臼山古墳が天皇陵ではない一番の理由は、同時期に仁徳天皇陵があるかららしい。私はそれだけ?と思ったのだが、突っ込まないことにした。時間がないのである。










安満宮山古墳は、3世紀中、卑弥呼の時代である。そこから、青龍3年の青銅鏡含めて5鏡出土している。飛び抜けいる。何故か。海人の一族であり、卑弥呼の中国行きの海先案内人を勤めたからではないか?というのがボランティアの説明だった。


4世紀末の郡家車塚古墳の副葬品は、これだけの勾玉を集めていて飛び抜けている。これも、いろいろ言ってくれたが忘れた。


普通円筒埴輪は、このように焼きムラが出る。しかし、大王墓の埴輪には出ていない。何故か。



近くの新池遺跡で登り窯跡が10基も見つかった。この全てが大王墓のための埴輪作りに使われたらしい。高温度で焼くために、焼きムラが出ない。一基5回は使って閉じたらしいので、50回は焼いただろう。館内では、窯の剥ぎ取り保存をしていた。


武人の墓(土保山古墳5C)からは、甲冑と漆塗りの弓、盾が出土した。どちらも漆で仕上げており、保存状態が良かったらしい。日本の漆は世界一だとボランティア。


革盾も漆で仕上げているので、当初は祭祀用のものかと思ったらしいが、実は漆を塗ると、剣を跳ね返すほどに強くなるらしい。実際使っていた盾だったようだ。王を守る立場の武人だったのだろうとのこと。模様は直線型。「かっこいいでしょ」とボランティアはいうが、それよりも呪術的特性が見えない、この武人の精神のあり様が興味を引いた。


今城塚古墳はどのように作ったか。山を削ったのでも、土を持ってきて盛ったのでもない。二重の濠を掘ればいい。後円部の頂上だけ土を持ってくればできるらしい。だから土を固める必要はない。あとは崩れるのを防ぐために河原石をビッシリとひく。大きめの河原石だった。河原石ならば、外から見ると光沢があり、威信効果があったらしい。




埴輪職人のエースは、自分の埴輪に二本マストの船をヘラ書きした。サインであると同時に、船はこの王国の財政の源でもあった。円筒埴輪は6000本も立てられた。








外に出て、見事に再現した埴輪群を間近に見る。祭祀は、つくり出しではなく、その北側のテラスみたいなところに、盛大な形象埴輪200体を置いた。これほどの埴輪が伏見地震(1596)のために壊れたお陰で保存された。ほぼそのまま再現できたのは、ここだけだ。












継体天皇の姿が、この出土と陵墓で浮き彫りになる。見事な古墳と歴史館であり、人気1番になるのもうなずける。


歩いて帰り、摂津富田駅前で、大坂のうどん(キツネ)を食べる。とことん普通だった。






最終更新日  2019年10月05日 10時30分34秒
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2019年07月29日
カテゴリ:考古学


久しぶりに岡山市埋蔵文化財センターに来た。大きな展示会もしていないし、報告するようなことはないと思ったら、意外とたくさんあった。建物の意匠は千足古墳石障の直弧文です。




千足古墳石障(仕切り石)の展示は、今は既に無いのですが、以前はなかった石室模型がありました。西田和浩氏の論考ペーパーがあり、天草・宇土半島との結びつきを考察していました。




収蔵展示室には、「発掘された日本列島2019」で展示されている金蔵山古墳(4C後半)の家型埴輪に漏れた埴輪群がありました。



展示室には多くは南方遺跡(弥生中期)の遺物がずらっと並んでいました。分銅型土製品に、農耕儀礼と関係する高床倉庫が描かれている?これは家族祭祀の道具だと理解していたのだが?




九州や四国、近畿から来た土器や、ジョッキ型土器などの変わりものや、南方遺跡土器群の編年などを見る。



びっくりしたのは、南方遺跡のこんな分厚い発掘報告書全3分冊が、800円700円700円で販売されていたこと。安売りセールじゃないらしい。最近の報告書はだいたいこの値段なんだと。技術の革新?つい全部買ってしまった。

南方遺跡発掘報告書より「旭川西海岸平野のほぼ中央に位置する集落遺跡。弥生時代中期を中心とするこの地域を代表する拠点集落であり、山陽東部の弥生中期の土器形式「南方式」の名祖遺跡」






最終更新日  2019年07月29日 11時49分53秒
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2019年06月05日
カテゴリ:考古学


6月4日から始まった県立博物館の「岡山の三角縁神獣鏡」展を観た。とても貧弱な陳列だった。


一階を全て使って陳列してるのかと思いきや、通常陳列。一階では、宮山遺跡の宮山型特殊器台がある。文様帯には、巴型や三角の透かし穴とS字状の渦紋をヘラ描きで飾り、その上を赤色塗料で塗っている。特殊器台終わりの時期の極めて派手な特殊器台だ。


操山辺りで出土したという袈裟襷文銅鐸も展示している。百間川遺跡という日本を代表する弥生遺跡が近くにある。


古代遺跡ではないが、正阿弥勝義(1832-1908)の凄い金工作品を展示していたので、パチリ。まるで本物のようなトンボが止まっていた。明治廃刀令で刀装具職人だった勝義が香炉や置物の金工作品に活路を見出したという。この作品ではないかもしれないが、明治37年のセントルイス万博での一等賞を獲得したらしい。
さて、目的の「特別陳列」を観る。なんと3面の三角縁神獣鏡しか展示していなかった。このためにあんな大仰な立て看を各地に立てていたのか!写真撮影不可なので、説明だけ書くと、「本館所蔵」の三角縁神獣鏡は流石に保存状態がいい。同范鏡は京都西山二号墳。
三角縁天王日月獣文帯四神獣鏡(総社市秦上沼古墳出土?古墳時代前期個人蔵)数少ない備中出土である。出土古墳の詳細は不明確。戦前出土。同じ鋳型は、京都椿井大塚山古墳から出土。
三角縁波紋帯二神四獣鏡(一宮付近出土。前期。個人蔵)江戸時代、吉備津彦神社付近の古墳から出土。中央に鋳型のキズあり。
ほかに関連遺物の展示があっただけだった。
三角縁神獣鏡は、中国地域87(県内25)も出土しているが、備前20播磨19(この数は中国地域で突出している)に対して、備中は2と楯築遺跡を擁する吉備中央にしてはあまりにも少ない。これは何を意味するのか?弥生中枢部だからこそ、後世の人間が何かの思惑で持ち出したのか?そもそも、弥生から古墳時代にかけて、三角縁神獣鏡などはあまり意味を持っていなかったのか?
何度も書いているが、岡山県立博物館の古代遺物の展示は、非常に貧弱である。私は、岡山県、つまり吉備の国は日本有数の古代大国だと思っている。本来なら専門博物館を建てるべきなのである。それが無いのは、ひとえに為政者の教養がないためだ。こんな小さなブログ、何の影響も持たないけれども、何度でもここで叫んでおきたい。
ちなみに、今回初めて「岡山県立博物館展示ガイド」を買った。全16ページの薄い400円の冊子。これで岡山県約3000年の歴史を網羅してる。これが、古代だけでなく、この博物館の水準である。情け無い。どこが教育県だ!






最終更新日  2019年06月05日 11時50分08秒
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2019年01月05日
テーマ:本日の1冊(3019)
カテゴリ:考古学


図録「岡山市立オリエント美術館」

何度か訪れているけど、私の興味関心は日本の弥生時代なので、日本でも珍しいオリエントの「考古学博物館」たる所の図録があったことに、今回初めて気がついた。改めて考えると、考古学の研究方法や、世界史的視点を持つこと、そして最近マイブームの人類史的視点を持つという意味でも、とても面白い博物館であるので、オススメです。

図録も750円でとても安価。そして充実しています。

以下、私的に参考になった所をメモする。



・当たり前だが、遺物の写真が綺麗だ。最初の図版はヤギ文の深鉢(テペ・ヒッサール出土)。紀元前3200年頃(新石器時代)。日本の縄文時代に、彩文土器は無かった気がする。鉄を含んだ土を焼いて赤くなった土を溶いて文様とした。どうやって塗ったのか?まるで筆で描いたような細かさだ。オリエントでは、文様に価値を求める。縄文時代は形に求めた。何故か?(←新たな疑問)土器は穀物の栽培の開始から少し遅れて紀元前6000年ごろから始まったらしい。オリエントでは、最初から農耕と共に牧畜も始まっている。



・この土器は、安土桃山時代の日本から出土したと言われても、信じてしまうような技術と「美しさ」だ。既に手回しのロクロを使っているし、白い土を溶かした釉薬?(化粧土)で下地をつくっている。しかも、絵柄のヤギ!尾の先が波形にのびて、水の流れに変わっている。紀元前3500年ごろ。イランのテペ・シアルク出土。日本の縄文土器は世界最古だと言われる。しかし、こういう土器を見ていると、本当だろうか?と思わざるを得ない。焼きムラが全く無いこの土器はどのように焼いたのだろうか?他の石製容器の説明によると、焼成土器の前には、木製容器や蔓を編んだカゴ、骨製容器、日干しの土器などと共に比較的柔らかい石を削ってつくった石製容器が利用されていたらしい。紀元前6000年の石製容器を見ると、4本の脚まで付いていて、現代でも使える完成度と美しさだ。疑問符がどんどん出てくる。


・BC3200メソポタミア南部のシュメール、BC3000エジプト、都市の成立。図録はその条件に大河の流域で大規模な土木工事が行われて、運河や用水路の発達、それが人口の集約を生みだしたという。一方、縄文時代も既に6000年近い歴史を重ねていたが、都市は出現しなかった。日本の平野では、都市が出現するほどの広さが無かった。それだけに尽きるのかもしれない。人の集約が神殿(宗教)や市場(市場経済)などを作り、それが文字の必要性を生みだした(紀元前3000年)のだとすれば、納得がいく。その逆はない。一定のスケールを伴わないと、文明は作られないのだ。だとすると、現代は過去からいえば、桁の違うスケールになっていると思われるが、新しい文明は出現しているのだろうか?




・中期青銅器時代(BC2-BC1.5)に至り、シリアで多く作られた土偶には「顔」がある。輪のような丸い目と、房状の髪が特徴的。神殿に奉納されたものが多いが、詳しい用途は不明。「地母神像ではないかともいわれます」とのこと。この「顔」が、縄文時代や弥生時代にはない(ものが多い)。何故か?というのが、私の疑問だったが、この頃シリアでは、既に明確な「宗教」が成立していたのかもしれない。文明の成立は、文字によって明確な「物語」を用意する。という「仮説」を立ててみたくなった。つまり、文字はそういう役割もある。のである。

まだ図録の1/4ぐらいだけど、私の興味関心はこの辺りまで。






最終更新日  2019年01月05日 18時11分16秒
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2018年10月31日
カテゴリ:考古学


「古墳出現期の筑紫・吉備・畿内」近つ飛鳥博物館編

2017年秋の特別展の図録。観てはいないが、吉備と名が付いた図録は、そもそも岡山県ではほとんど発行されていないので、興奮して買った。どれくらい興奮したかと言えば、帰って荷物をみたら、いつの間にか飛鳥博物館と弥生博物館の2カ所で一冊づつ買っていたことからも分かる。つまり2冊買ってしまったのだ(誰か余りの一冊所望者はいないかな)。

とても面白かった。岡山県在住の私は、高い発掘報告書を所有していないので、足守川下流域の津寺遺跡(中央に大型建物出土)、一軒屋や三本木遺跡(鍛治炉)、加茂A・B遺跡(鯉喰神社墳丘墓の居住地か)などの場所や特徴などは初めて知った。弥生遺跡は目印になるものがないので、カラー航空写真で場所を特定してくれたのはとても嬉しい。しかし、説明はあまりにも簡単でイマイチだった。

また、東郷遺跡や萱振遺跡や小阪合遺跡から、失礼ながらこんな小さな墳丘墓や古墳から、特殊器台が出土しているのに驚きを禁じ得なかった。しかも東郷遺跡で向木見という最初期の破片が出たのは何故か?この図録だけではわからない。

1番面白かったのは、やはり御大・白石太一郎氏の「倭王権はなぜ畿内に成立したのか」だろう。失礼ながら、根拠のあやふやな推論から面白い結論を導き出していた。

炭素年代法によって、箸墓の出現期を3世紀中葉過ぎに想定すると断定。そこから、「(今や、九州か畿内か、ではなく)列島内で最も先進的な北部九州ではなく、明らかに後進的であった畿内大和の地を中心に邪馬台国連合やそれに続く初期ヤマト政権と呼ばれる広域の政治連合か形成され」たのは何故か?と問いを立てる。此処までの論は根拠があると私は思う。

氏の大まかな推論は以下の通り。
(1)卑弥呼擁立は3世紀初頭。この時の広域連合は、東は畿内、西は北部九州まで。ただし、九州南と四国、山陰地方は除く。
(2)この時点で政治連合は、邪馬台国とは別に山陰地域連合と近江・濃尾平野から関東までの連合があったという。3世紀中葉に濃尾連合(狗奴国)と邪馬台国連合が結びつき、それがヤマト政権になった。その直後ぐらいに卑弥呼没す。箸墓の被葬者は卑弥呼以外を考えるのはきわめてむつかしい。
(3)伊都国は、一大卒を置いて、貿易の要となり続けた。邪馬台国が何故必要だったか。「鉄資源をはじめとする先進文物の入手ルートの支配・管理権を北九州と争い、卑弥呼が掌握したからだ」と説明する。

そして白石氏のここが面白い処なのだが、村上恭通氏の手痛い批判をこのようにかわす。「古墳時代に入っても鉄器の出土量は北九州が圧倒的に多いので、流通機構の掌握を邪馬台国やヤマトがしたわけではない。」という批判は「聞くべき処が多い」としながらも、白石氏は「鉄資源の入手や鉄器生産のセンターの問題ではなく、その成果品の分配権やその分配のあり方の問題」だと説明する。だから、古墳時代になると中国鏡や倭鏡の分布の中心は明らかに畿内に移り、奈良盆地東南部の初期の王墓には膨大な量の鉄製武器が副葬されるようになる。「この大きな変化が生じた理由について納得のいく説明をしていただければ、私の提起しているこの仮説などはいつ撤回しても構わない」と説明する。まるで開き直りである。

鉄資源の分配権はどういう力の背景をもって確立したのか?鉄資源はなぜすぐに「邪馬台国」に広がらなかったのか。「鉄資源その他の先進文物」の後の「先進文物」とは何か?これらの説明がないと、氏の仮説は、かなり説得力がない。しかし、魅力的であるし、素人の私としては「これでもいいんじゃないかな」とも思っている。

先進文物とは、もしかしたら文物ではなく、信仰だった、つまり当時としては初めて国の規模を迎えつつある倭国の政策イデオロギーだったのではないか?とも私は思う。その中心にいたのが、元投馬国の位置にいた吉備の国だったのではないか?

白石氏は、港市国家は長続きせず、最後に勝利を収めるのは内陸部の農業国だという世界史の教訓を引き合いに出す。全然根拠になってはいないが、また投馬国が何処とも全然書いていないが、やはり龍神信仰を確立した吉備国の役割は決定的だったと私は思うのである。






最終更新日  2018年10月31日 07時38分54秒
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2018年10月22日
カテゴリ:考古学

秋日和に恵まれた10月21日、最近散策コースが新設された秦の郷古墳群巡りを友人2人と共に歩いた。10時から始めて3時までの約2万歩。いい運動でした。

サントピア岡山総社に車を停めて、先ずは一丁ぐろ(土編に丸)古墳群を目指す。これは秦の歴史の表。これを見て目標としていた一丁ぐろよりも古い古墳・茶臼嶽古墳があるのに気が付き、急きょ、そこにも行くことにした。3世紀末なので、ほとんど弥生時代じゃないか!!



7~11号墳の存在に興奮する。このように山の稜線に沿って連続的に墳丘を築くやり方は、朝鮮半島の有名な古墳群に多い。

特にこの地域は、高梁川を見下ろす位置に築かれていて、川の運行を管理する人たちの力を背景に築かれた可能性があるだろう。

一丁ぐろ古墳群の1号墳も最近発掘されて、大きなニュースになったのだが、実はそれよりも古い古墳時代最初期の古墳が古墳群の最奥部、金刀比羅神社裏に最近発見されていた。

茶臼嶽古墳である。前方後方墳。全長約65m。一丁ぐろと並んで、県南最大級の前方後方墳であるだけでなく、古墳時代前期でいえば、前方後方墳として中四国最大級の古墳である。これは後方部から前方部を眺めた処。埴輪片は一切出土せずに、土器片から3世紀後半と比定された。つまり、築造時期は、卑弥呼死亡の頃、ということになる。古墳の規模から推測すれば、卑弥呼の館が何処にあったにせよ、秦盟主の存在は、彼女の意識に登っていた可能性が高いだろう。弥生時代最大の墳丘墓である楯築からおよそ100年後の墓である。其の間に「倭国統一」の大事業があったと私は見ている。この盟主はその一部始終を見ていた可能性が高い。

おそらく、秦王国があるとすれば、他の古墳群から隔絶して築かれたこの茶臼嶽がその最初の大王になる。そういう位置づけも、朝鮮半島の古墳群と似ている。竪穴式の石棺はどうやら盗掘されて壊されていたようだ。

ここからは高梁川がよく見える。

アケビが近くの獣(イノシシ?)によって綺麗に食されていた。

そのあと、古墳群最大の一丁ぐろ古墳1号墳にたどり着く。三つの方墳を側に従えて、茶臼嶽よりも少し大きく、全長70mを数える前方後方墳である。埴輪片から4世紀初頭と比定。

丸い川原石の葺石がまだ多く残っていた。

説明書も目新しい。

後方部から前方部を見た処。段差が激しい。初期古墳の特徴である。秦の郷案内図によると、この古墳群30数基は未盗掘である。という。ホントにそうだとしたら、4世紀吉備ひいては日本史解明のための決定打になるかもしれない。案内図は「発掘調査こそ、市政の重要課題だ」と総社市を焚きつけている。思った以上に案内図やガイドマップを大量作成している処を見ると、可能性がなきにしもあらずかな。

ここからも、高梁川と秦地区が綺麗に見える。一等地に作られている。

風水古墳。説明が一切無いので、時代も形状も不明。どうして風水なのか。

友人作成の弁当をいただく。午前中で回れると思っていた私目論見は完全に外れて、まだ半分も歩けていない。

山を下りて郷の近くの小山の上にある金子石塔塚古墳を訪ねる。

説明板。須恵器、馬具、武器、金銅製の亀甲文板片が副葬してあることから、地位の高いこの辺りの盟主の墓だろうと思われる。

6世紀後半の典型的な横穴古墳であるが、玄室と石棺の残りがとっても良い。石棺は、井原市波形で産出する貝殻石灰岩。石棺としては、こうもり塚、江崎古墳と材質が似ているらしく、同盟関係にあったのでは、とのこと。

1番びっくりしたのは、奥の一枚岩。一枚も珍しいが、ほとんど平の凄い加工技術、或いは逸品である。ここまで凄いのがあるとは思わなかった。

石棺を山の上に運ぶのはいったいどうしたのか、どのくらいの人数が要ったのか話題になった。わかるのは、井原市から船で運び、この入り江に付けただろうということだ。金子池は、人口河道らしい。秦氏の技術である。中央の山の頂に古墳がある。

秦氏の氏神社と言われる八幡神社に参る。

中四国最古の寺院跡と言われる秦原廃寺の礎石を鳥居の礎石に転用しているらしい。また、この近くにあるはずの茶臼山古墳は遂に見つけることができなかった。また、帰りの途中にある大ぐろ古墳(同じ地域時代にあって、こちらは前方後円墳)も見つけることができなかった。また、そのすぐ近くの上沼古墳からは、卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が出土しているという。この秦の郷は、この10年で発掘調査され、この数年で案内図が作られた、とっても新しい古代ロマンの地である。観光にお勧めする。






最終更新日  2018年10月22日 07時24分12秒
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2018年09月24日
カテゴリ:考古学
次は弥生文化博物館で開催された「弥生のマツリを探る」展である。以下はそのチラシだ。




展示意図説明は以下のように書いていた。
弥生時代の祭祀。これは大陸から新たに導入された信仰に縄文時代からの伝統が複雑に絡み合うとともに、列島で独自に発達をとげた部分も大きい。描かれた絵画、呪術的文様、銅鐸、銅鏡、 粘土や木で作られたさまざまな造形物など、もの言わぬ出土祭器が発する2000年前のメッセージは読み取れるのか。マツリの場、祭場の姿はどのようなものだったろうか。これまでの研究を踏まえ、弥生人の心に大胆に迫っていきたい。



チラシに1部載っているが、正面に「マツリ」を行っているのを、金関怒館長(当時)が監修しながら描いた絵をドンと置く。即ち、シャーマンが鳥の服、鳥の仮面の装いで、祈っている。銅鐸の鐘を鳴らし、鹿の生け贄を捧げ、村の至る所に鳥を模した鳥竿を立てる。住民は「歌舞音曲」を奏で歌い踊りながら参加している。この絵の根拠を以下の展示で紹介する。







シャーマンの造形はこれら、人物を描いた弥生土器を基にしている。特に、弥生中期の雁屋遺跡出土の人物の異様な装束は何なのだろう。かなり飾り立てていたのだろうか?股間の⚪︎は、男性器ではなく女性器を表していると確か図録に書いていた。私には、男性器に見えるのだけど。





仮面はあまり用意出来なかったようだ。









島根県古浦遺跡の朝鮮系土器やト骨があるのは、金関館長が発掘したものなので、借り出されたと思われる。西川津遺跡や堀部第一遺跡の土笛もその関係だろう。














鳥がなぜ神の使いとなるのか?私は「魂を運ぶ」機能だけを想像していたが、ここには「穂落神信仰」を書いている。渡り神が落とす稲穂から農耕が開始されたという信仰である。どちらにせよ、そこには豊かさだけを目にしていた弥生人の生活が見える。







鹿や魚の自然の恵みも平和な弥生社会が見える。














土偶の流行は、縄文と弥生の相剋があったと見る。賛成である。びっくりするのは、亀井遺跡の分銅型土製品。吉備のそれと、全く変わらない。吉備人が来ていたのか。









男根型の祭祀については以上の通り。























平和な弥生社会。それはやがて大災害と戦争によって、新しい神が登場することを用意して行ったのではないか?龍は水を司る。そして、個として隔絶していた。だから、暴走することもあり、その呪的パワーは普段は縛り付けて「コントロールする」必要があった。それを体現するシャーマンが現れた時、それまでのシャーマンとはまるきり違う人として現れたのではないか?今迄の祭祀は、途絶する必要があった。









それはやがて、吉備の特殊器台によって、神に憑依する大王として制度化される。此処に置いて、弥生時代は終わろうとしていた。



この「まとめ」の文章で、ひとつ瞠目したのは、弥生晩期の同盟の契機は、「経済的要因もあったかもしれないが、宗教同盟が強かったのでは」と書いている所である。そうかんがえると、確かにすっきりする。

新しい視点をもらった、いい展示だったと思う。






最終更新日  2018年09月24日 08時14分05秒
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2018年09月23日
カテゴリ:考古学
8月20日、21日に大阪に行き、​古代のふたつの企画展を観てきました​。ひとつは、近つ飛鳥博物館の「百舌鳥・古市古墳群に学ぶ 古墳と水のマツリ」展。もうひとつは、弥生文化博物館の「弥生のマツリを探る-祈りのイメージと祭場-」である。

百舌鳥は(もず)と読むらしい。(もずちょう)ではない。ところが、府内の人には当たり前の読み方かもしれないが、私のように少し考古学を齧った者でさえ、どっちだったかなと思ってしまうのに、この博物館や図録に、何処にも読み方の振り仮名がつけられてなかった。改善を求めたい。


このふたつの企画展、飛鳥博物館の方は写真NOだったので、図録を基に紹介したい。弥生文化博物館の方は、写真はOKだったし、図録も買ったのに、岡山に帰って気がついたのであるが、青春18切符をなくした居酒屋に置いて来たのか、帰りの電車に置いて来たのか、なんとなんと図録が何処にもなかった。切符と同時にこれも痛恨の失敗である。幸いにも、写真にかなり説明書も写した。それらを追記しながら、私の感想も載せたい。



「百舌鳥・古市古墳群に学ぶ 古墳と水のマツリ」
の博物館開催趣旨は以下の通り。

  世界文化遺産登録を目指す百舌鳥・古市古墳群では、これまでの発掘調査や研究により古墳時代の王権や社会の様子を考える上での 重要な情報が蓄積されています。なかでもさまざまな形象埴輪で表現された場面の中に、大王が執り行ったさまざまな儀礼が 再現されているとする研究があり、大王や首長の活動を知るうえで注目される成果といえるでしょう。
  今回の企画展では百舌鳥・古市古墳群における最新の調査、研究成果の中から、 水のマツリにかかわる資料を取り上げ、百舌鳥・古市古墳群をはじめとする王権や周辺の集落でとりおこなわれた 儀礼について考えてみたいと思います。

これではなんの説明にもなっていないが、飛鳥博物館のメイン展示は巨大な大山古墳(仁徳天皇陵古墳)のジオラマなので、とまれ世界遺産実現がこの博物館の全てのようなので仕方ないのかもしれない。

今回展示のメイン遺物は、誉田御廟山古墳の陪塚である狼塚古墳から出てきた「導水施設型埴輪」である。ポスターに復元形態が示されている。




狐塚型の不完全な形は、つい最近金蔵山古墳の作り出から出土したもので見た。囲い型埴輪は囲い込んでいなかったし、導水施設(今日よく見たら、導水施設を引き込む穴は開いていた)はなかったが、家形埴輪は出土していた。四世紀末の古墳であり、この狼塚は五世紀前葉らしいから、金蔵山はこの囲い型マツリの初期段階ということになる。


そして完成形の一つがコレということだ。出土状況はコレ。囲い型埴輪に囲まれた閉鎖的な空間の中に、玉砂利を敷き詰め、木樋形土製品を中央に置いている。


他には不完全ながら多くは囲い型埴輪と家形埴輪が出ている(野中宮山古墳、長屋1・2号墳、野中古墳‥写真)。以上が古市古墳群。

百舌鳥古墳群の御廟山古墳(五世紀前葉)からは完成形の家形埴輪を収めた囲い形埴輪が出土しているようだ。綺麗に入口がついているのが、特徴。

また、ここからは「円筒埴輪状土製品」が出土した。形状は円筒埴輪に似ているが、小型で表面がナデ調整されている。内部に礫が詰められていて、井戸枠にも見える。(私は水道の通る道のように見える)

いったいどのようなマツリだったのか。被葬者が生前、囲い型埴輪のように秘密裡に行っていた水のマツリをなんらかの形で再現するマツリだったのではないか?というのが筆者の意見のようだ。

書いていないが、木樋が使われていること、玉砂利があることなどから、「浄水」を得るための、王様だけが出来る「秘技」を使っていたのかもしれない。


水のマツリの集落遺跡においての例で纒向遺跡の導水施設が紹介されていた。四世紀前半の施設。木樋(もくひ)や集水枡(ます)が出土。同時に導水施設に先行する溝から見つかった祭祀用木製品、孤文円板等が見つかり、木樋の上に祭祀用土器、また周りからは半島系土器が見つかっている。この一帯が祭祀に関わる場所であった可能性が高い。建物との前後関係を含めて詳細は不明だが、木樋を伴う導水施設として最古段階で、初期ヤマト政権成立期において導水施設のマツリが重要視されていたことがうかがえる。


導水施設マツリ以前では、井戸のマツリが行われていたようだ。展示の土器は、大井戸の周りで見つかった銅鐸の文様に類似する流水文のスタンプを押された土器。近くの柱は紀元前52年に伐採されたことが確かめられている。亀井遺跡(弥生時代中期)の井戸を埋める時に入れられた土器からも流水文が。水が再び湧くことを願ったのでしょうか?


八尾南遺跡の井戸(弥生時代後期前半)からは、龍の線刻が施された土器が。やはり井戸廃絶時の儀礼のひとつ。水を司る龍信仰がここまで来ていた、しかも後期前半という時期が示唆的。







古墳時代以降では、讃良郡条理遺跡(大阪府寝屋川市高宮)の奈良時代中期から平安時代初期の灌漑用の井堰から見つかった、人面墨書土器というものがある。人や鬼の顔を墨書し、疫病や穢れを土器に封じ込め、水に流すことで祓う祭祀行為だと言われている。これだけは、面白かったので、写真に撮らせてもらった。人の顔でも、鬼である。悪意があると思われるのだが、なぜか憎みきれない顔なのだ。現代人の私の感覚がおかしいのだろうか?その他、ここからは底部穿孔土器、絵馬、人形、祭串が多量に出土。牛や馬の骨も出土。五世紀中頃行われたといわれている動物殉葬(犠牲)が、引き続き行われていたようだ。ここまで証拠を揃えられると、人の殉葬はなかったかもしれないが、動物殉葬は広く行われていたのかもしれない。もっとも、骨以外の土馬や絵馬が広まるのではあるが。

この図録は、かなり専門家向けに書かれていて、結果、結論が回りくどかったり、わかりにくかったり、ダメだなと思った。






最終更新日  2018年09月23日 10時47分51秒
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2018年06月10日
カテゴリ:考古学

出雲旅に出掛ける前日の5月26日、現地説明会に行きました。先ずはそれを紹介してから、出雲旅レポートをします。倉敷市船穂町柳井原にある、南山城跡(戦国時代)、南山明地古墳群(古墳時代)、南山明地遺跡(弥生時代)の現地説明会にいって来ました。私の関心は弥生時代なので、他の時代については軽く流します。


場所は山の北側に天狗山古墳、勝負砂古墳、二万大塚古墳という、五世紀の重要な古墳のある山並みの南側に位置する標高67mの低丘陵。大きな目的は山城の解明なのですが、その中で弥生時代の集落跡も見つかりました。写真は、竪穴住居跡の隣の土坑から見つかった土器。これによって、弥生中期の遺跡(南山明地遺跡)と判明しました。

住居底に穴が開いているコップ形土器も、見つかりました。つまり実用土器ではない。ということです。だとすると、この穴も普通の穴ではなくて、墓であり、ここで供献儀式が行われたと見ていいでしょう。こんな早い時代に、しかも小さな土坑墓で、のちの楯築に繋がるような儀式があったことが何よりも驚きでした。

鏃は戦争用にはあまりにも小さい。狩り用の鏃でしょう。サヌカイトもあった。讃岐との交流もしていたことの証です。

こんなのも出土していたらしい。

遺跡の上空写真。ドローンを使ったのかな。最近はこんな写真が簡単に撮れるから素晴らしい。

さて、山に上がるぞ!



これが土坑の跡。

竪穴住居跡。

弥生遺跡の北隣に古墳時代の遺構(南山明地古墳群)が残っていました。2ー4号墳を発掘しています。丘陵尾根状に並んで築かれている。直径10、9、14mの円墳です。時期は古墳時代前期後半から中期前半(4世紀末-5世紀初)。

1番大きな14号墳が詳しく調べられています。二つの埋葬施設があり、木棺の底に他から運ばれてきた礫が敷かれ、鉄製品(鉾・鍬鋤の刃先・鎌)と滑石製臼玉が副葬されていました。

これだけ尾根状に古墳が続いているのならば、山城があった1番眺めの良い場所に墳墓がないわけはない。実はそれはこれから発掘するらしい。築城で壊されているかもしれないが、期待はされる。円墳側から山城を眺める。

山城(南山城)について、少し。1582年(大正10)、備中松山城水攻めのあと、秀吉と毛利が講和を結びます。1583年(大正11)、毛利が高梁川以東の城を明け渡します。写真では、川の上側が「以東」になります。高梁川以西に、それまであったこの山城は、その直後にキチンと整備されたらしい。

住むためのお城ではなくて、あくまでも兵士が集い、拠点砦のためのお城だったようです。詳しい説明は省きます。

この丘陵は、山城に選ばれることからも伺えるように、古代の環状線だ高梁川を監視するためにも、非常に便利なところでした。

では、あの弥生遺跡は高地性集落なのか?しかし、円墳の下に集落はなかったと、ハッキリしているらしい。山城の下はまだわからない。



吉備の王国の西側集落の拠点が、おそらくこの辺りにあったことを伺わす遺跡かもしれない。






最終更新日  2018年06月10日 11時40分05秒
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