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ベトナム見聞録

ベトナム見聞録

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2005年05月09日
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カテゴリ:ベトナム文学
「侵略軍のバイオリンの音」 連載第2回
                  バオ・ニン著
                   岩井 訳

 「当時の数年間、ハノイは安心して住めるような場所ではなく、食べることも眠ることもできないほど、延々と動乱に奔走させられる有り様でした。しかしフランス人街だけは、依然として泰平の世のような雰囲気でした。部分的には平時より泰平であったかもしれません。それは媚びへつらいの泰平でした。フランス本国が大敗したのちも、ハノイのフランス人は変わらず平穏に暮らしていましたが、すでに権勢は失われ、年々凋落の一途をたどっていました。縮こまって震えていたわけです。彼らの邸宅も、肩と首をすぼめていました。通りは萎靡たる佇まいでした。どの通りもさびれて人っ子ひとり見当たらない有り様で……しかしですね、まさにそのような厭世的な情景が当時の私の心情にはぴったりだったんです。ザンソレ通りの紫の花を咲かせたバンランの並木道を一人で散策していたとき、すすり泣くようなバイオリンの音が聞こえてきて、私は自分がヴェルレーヌの詩に出てくる秋風に舞う枯葉であるような錯覚にとらわれました。当時のソレ通りはですね、それはひっそりとしておりました。私の茫漠たる記憶によると、現在のトニュオム通りよりも狭く、そして長かったような気がします。通りの終極が見えないほど長く、寂寥たる通りでありました。その頃、毎朝毎夕、私が家を出る時分や帰宅する時分になると、決まっていつも門前の路地で私を待ちかまえていたかのように、バイオリンの音が流れてきました。私は、そのバイオリンは終日息をひそめて待ち受けていて、私の足音を聞いてはじめて音を奏でているのではないか、と想像いたしました。まさに絶妙の旋律でありましたが、なぜこれほどまでに痛ましく悲しく、明日への予感と過ぎし日々への愛惜を喚起させるのでしょう。フランス人少女の心への無限の同情で私の心は締めつけられ、そしてですね、悲しいかな、私にはまったく関係がないというのに、私はわけもなくフランスに同情を覚えてしまいました」
元法律学校生の老人は、言葉を詰まらせた。私は話を打ち切って立ちあがる決心もつかず、自己満足的で愚にもつかぬ、完全に消去されたあらゆる種の過去の記憶がぼそぼそと語られるのを座って聞き、時間を浪費する以外になかった。

 「そのバイオリンを弾いていたのは、私の家の近所に住むペギー家の娘、ソフィーでした。ペギー家は裕福ではなく、古ぼけた二階建てが彼らの住居でした。家の壁はもう何年も塗り替えられておらず、漆喰が陽に灼けていました。ペギー氏は一風変わったフランス人でした。ひっそりと暮らし、温和でもの静かな方でした。ベトナム人はおろかフランス人とさえも、ペギー氏はつきあいを避けている様子でした。通りに面し庭へと続く鉄の門は、一年中開かれることがないかのようでありました。しかし、私にはペギー家と知り合うための窓口がありました。もちろんペギー氏とではなく、彼の子供たちとです。ペギー氏は妻に先立たれていましたが、再婚せず二人の子供を育てていました。男の子と女の子です。男の子はフィリップといい、私と同年でした。ソフィーは三つ下でした。ソフィーは生まれてすぐ母親を亡くしていました。そしてもっとも気の毒なのは、ソフィーは目が見えなかったということです。小さな頃から盲目でした。外見は普通の目とまったく変わりがありませんでしたが、何も見ることができなかったのです」

 老人は話を中断し、上衣のポケットを探り、ハンカチを引っぱり出して汗を拭った。私は何も言わず、黙って見ていた。

 「私とフィリップは、私たち一家が引っ越してきたばかりの日に、すぐ友達になりました。私たちが十二か十三のころで、ベトナム人とフランス人を分け隔てる壁は、私たちが成長したときに直面したときほどはまだ高くなかったのです。さらに私の家とペギー家の敷地の境は、煉瓦の壁ではなくただ鉄格子で遮られているだけでした。鉄格子越しに私とフィリップは声を掛け知り合いました。フィリップは遊びに来るよう私を誘いました。彼は妹の面倒を見なければならなかったので、私の方に来ることはできなかったからです。『ぼくの妹、目見えない、かわいそう』、彼はそう言いました」

 「フランスの子供にはめずらしく、ペギー家の兄妹はとても人が善く、とくにソフィーはそうでした。ベトナムで生まれたせいか、痩せて発育の悪い体格、黒髪、神秘的な瞳、うっとりするような声、そして優しく穏やかな人柄でありました。私は彼女を非常に愛しく思いました。フィリップが不在のときも、私はよく遊びにいきました。私たちは庭を一緒に散歩したり、庭の端の見張り台で寄り添い座って涼をとりました。二人とも無口なたちで、話すこともあまりなく、私がソフィーに物語を読んで聞かせることが多かったです。詩を読むこともあり、彼女がバイオリンを聴かせてくれるときもありました。私は彼女がバイオリンを練習するのを何時間でも黙って座り、聴くことができました。私がそばにいるとき、彼女はとてもうれしそうでした。声をあげて笑うときもありました。私のおかげで、彼女は少しずつ片言のベトナム語を話すことができるようにもなったのです」

 老人は大きく息を吐き、沈んだ声色で続けた。

 「しかしなんといっても私とペギー家兄妹の関係は、世間から見れば非常識な友情であり、日に日に体裁悪く白い目で見られるようになりました。私たちの固い絆を守りとおすのは不可能でした。歳を取り思慮深くなるにつれ純真さを失い、次第に偏見に侵されていき、心は行き違い、友情は薄れていきます。まずは私とフィリップでした。絶交したわけではありませんが、次第にお互い距離をおくようになりました。兄と疎遠になれば、当然妹との友情も難しいものとなります。私は次第に足が遠のき、そして彼らの家に行くことも完全になくなりました。さらに時勢も変化しました。一九四〇年から、情勢は日増しに深刻になっていきました。フィリップは大学には入りませんでした。ある日、私は彼が軍装で帰郷してきたところを目にしたのです」

 老人は煙草の箱を引っぱり出し、口に咥え火を点けた。彼は一息吸って咳込み、続けて口いっぱいけむりを吸いこんではまた咳込んだ。彼は煙草を揉み消した。

 「一九四五年のテト正月のあと、日本がクーデターを起こしフランス人を蹴散らしました。たった一夜で、日本の皇軍がハノイを奪い取ったのです。フランス人は捕らえられ、トラックに載せられ連行されました。ひっそりとしたソレ通りが、急に兵士の足音や銃剣のガチャガチャ鳴る音で騒々しくなりました。しかしですね、それほど物々しい状況にありながら、私の家族は大胆にもあるフランス人一家をかくまったのです。そう、それがペギー一家でした。私の父とペギー氏は顔見知りではありましたが、決して親密な間柄ではありませんでした。予期せぬ事変により、一番近くに住んでいる上流階級のベトナム人一家に過ぎなかった私たちが、突如彼らにとって唯一の頼みの綱となったのです。その夜、銃声がこだまし、街の異変の報せを受けたペギー氏は、着の身着のまま大慌てで、ソフィーの手を引き裏庭へ飛び出し、鉄格子の隙間に体を押し込んで私の家に逃れてきました。恐ろしくて恐ろしくてなりませんでしたが、私の父はペギー氏とソフィーをかくまうことを引き受けました」

 「当然ながら、この命をかけた義挙は私たち一家を不安に陥れました。しかし、私は秘かに血が騒ぐのも感じていました。どんなに危険な状態であるにせよ、それは平穏で退屈な日常や、私たち一家や私自身のぬくぬくとした生活を揺るがす、思いがけない刺激でありました。その非日常性に私は興奮しました。私は自分が勇敢で、義侠心に満ちていることを誇りに思いました。そして父が応接間で日本軍の指令官をもてなしているとき、私は地下の酒蔵でペギー親子のそばにいて、ともに恐怖を分かちあっていたのです。私とソフィーは手を握りあいました。激情が込み上げてきて、私はソフィーが逃避行を強いられている天女のように感じられました。こんなことを言うとあなたはお笑いになるでしょうね。しかしこのような状況で、腹の内にヒロイックな気分が湧いてこない者などいるでしょうか」

 私は緩慢な動作で手を上げ、口を蓋ってあくびをした。トランクの底から掻き出された、陰鬱な恋愛話を聞かされるのだろうと私は覚悟した。

 「私たち家族の冒険は長くは続きませんでした。ペギー父子が私たちの家に隠れていたのはたったの二日だけだったのです。三日目の朝、憲兵が家になだれ込んできました。まるで事前に密告があったかのように、家宅捜索やあれこれ尋問することもなく、日本軍司令官は流暢なフランス語で、私の父にかくまっているフランス人を即座に引き渡すよう要求しました。私の父は罪に問われることはなく、私たち一家、誰一人として拘引されるようなことはありませんでしたが、私はソフィーが不憫でならず、とめどなく涙が溢れてきました」 つづく





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最終更新日  2005年06月11日 19時01分52秒
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