ベトナム見聞録

ベトナム見聞録

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ベトナム文学

2005年06月25日
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カテゴリ:ベトナム文学
「子供の結婚」 タック・ラム著 岩井訳

初夜

きょうは一日本当に疲れた。花嫁側の人たちは夜になってようやく帰り、ぼくの家では芸者を呼んで、ドンチャン騒ぎが夜中まで続いた。エビのような口元をした数人の芸者が、ぼくの頭を撫でてはくすくす仲間内で笑い合うのだ。本当に腹が立つ。

こんな夜更かしは今までしたことなかったので、眠たくて眠たくて今にも目蓋がくっつきそうだ。ふとお金のことを思い出し、財布と紙の包みを開けてみると、3ドンと300スーが入っていた。やった! どこに隠そうかと算段していると、母がどこからか駆けつけてきて、電光石火でお金をひったくって行ってしまった。残念でならなかったけど、あえて苦情は言わなかった。

ベッドに入ってうつらうつらしはじめたとき、母が来てぼくを引っ張り起こして言った。

「嫁がいるのになんで独りで寝てるんだい!」

そして母はちょっとしたアドバイスを耳打ちしてくれたので、ぼくはすこし意を強くすることができた。ぼくは大胆にも寝間着のまま、手探りで妻の待つ寝室へと向った。

寝室のドアの前まで来たが、ぼくは全身が震えて胸がドクンドクンと高鳴り、逡巡するばかりでそこから一歩も踏み出せない。根性を見せるときじゃないか!
膝はまだ震えていたけど、意を決してドアを押すと、ベッドの端に腰掛けていた妻にばったり遭遇した。くわばらくわばら。 ぼくはとても直視することができず、そんなものは存在しないかのようなふりをした。ぼくの目は鶏を探していた。母は、部屋に入ったらまず頭を折った鶏を探し、それをすぐに食べれば妻はもうぼくに危害を加えることはない、と教えてくれたのだ。

それなのに当惑の末やっと鶏おこわが置いてある場所にたどり着いたと思ったら、なんてこったい、鶏の頭はどこかに消えちゃって、ひょろひょろの首だけが寂しく残されているじゃないか。

ヤバ過ぎる! この女、鶏の頭を食べちゃったのか? だとしたら、ぼくをいじめ殺しかねないぞ。椅子に腰掛け考えてみるが、熟考すればするほど不安が抑えられなくなって、どうすればいいのか分からなくなる。

ぼくはずっと待っているというのに、どうして彼女は眠ってくれないんだろう。目は二つとも閉じられているが眠ってはおらず、頬杖をついて鶏をじっと凝視し振り向こうともしない。

ベッドの竹が軋む音がしたと思うと、しばらくして豚のような鼾が聞こえてきた。やっとほっとして、ぼくはベッドに近寄った。目を大きく見開いて妻がぼくの何倍大きいか見当してみると、優に四倍は超える。なんたるデブ!

勇気を出してそっと妻の傍らに身を横たえ、死力を尽くしてやっと掛け布団をすこし引っ張ることができた。どうやらさっき、彼女は酔いで眠りに落ちたらしい、ごそごそ動いて咳払いをしていたかと思うと、突然腕をぼくの首の上にドスンと落とした。ぼくは息ができなくなって、必至に押しのけて、なんとか九死に一生を得る。

急いでベッドの隅に退避し、身体を丸めて咳をするのもためらいながら息を殺す。ぼんやりと、妻がぼくの髪を鷲づかみにして、薪をかち割るみたいにぼくをぶん殴るシーンを想像した。まるでテオの母親のドゥンおばさんが、旦那を叩きのめしているときのように。

そして、ぼくは眠りの淵へと引きずり込まれていった。

おわり

(風化紙、27号、1932年12月)






最終更新日  2005年06月25日 07時02分54秒
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2005年06月24日
カテゴリ:ベトナム文学
「子供の結婚」 タック・ラム著 岩井訳

家に帰る

昼時に花嫁宅を辞した。巡察の若い男が数人面倒を起こしてきた。すでに4ハオも渡したというのに、彼らは満足しないのだ。父は怒って紐を引き千切り、花瓶ごと机をひっくり返した。

連中は罵り喚きながら走り去って行った。

家に着いたけど、あっちの儀式が終わればこっちで儀式が待ち受けている。もう疲れて膝に力が入らないけど、まだまだ終わらない。これから行われる婚姻の儀がもっともヤバイのだ。

ぼくは既に恥ずかしさの絶頂だというのに、紳士淑女の皆様方は、「夫は小さいのに妻はでかい」とか、「夫はネズミ、妻は巨象」とか、「夫があんな子供では何も分かっちゃいないのよ」など、好き勝手に品定めしてくださる。

本当に恥ずかしい。さらに儒者がすべて漢読みで朗唱したとき、ぼくが木偶の坊のように呆然と立ちすくんでいたら、人々の間からクスクス笑い声がもれた。チラッと柱の陰に隠れているスー嬢を見てみると、彼女は口をもぐもぐ動かしながら熱心に拝んでいたが、何を祈願しているのかぼくには知る由もなかった。

つづく






最終更新日  2005年06月24日 20時56分29秒
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2005年06月22日
カテゴリ:ベトナム文学
「子供の結婚」 タック・ラム著 岩井訳

花嫁を迎えに

母屋に戻ると、親戚たちが既にたくさん集まっていた。誰もが真新しい服に身を包み、すごく嬉しそうに見える。友達同士でワイワイやるんだったらかまわないけど、きょうはみんな花婿を見物に来てるわけで、ぼくはもう恥ずかしくてこっそり逃げ出したい気分だ。だけど逃げ出すわけにもいかない。

いまや爆竹に火が点けられ、青い煙がモクモク立ち込めていいにおいがする。不発の爆竹で遊ぼうと何個か拾おうとしたら、父がぼくを睨み付けたのであきらめた。

表の路地に出てみると、人々が取り澄まして悠然と二列に並んでいる。なんでこんなにたくさんの人が見に来てるんだろう。しかも大部分がぼくと同じぐらいの年端もいかぬ子供だ。そいつらはぼくを指さしては、ひそひそと何かを言い合っていた。ぼくは恥ずかしくて母の背に隠れたが、なんの解決にもならない。するとまたもやティーの奴が大きな声で叫んだ。

「おまえ嫁もらいに行くんか、おうおう、またきれいな服着て」

幸いなことに、花嫁の家はそれほど遠くはなく、ほんのすこし歩けば着いた。

なんだ、バーさんちじゃないか。それなのにぼくの母はずっと隠していた! けど、誰と結婚するのかぼくが今の今まで訊かなかったというのも可笑しな話だ。バーさんちの娘といえばあの小太りの女か。井戸のところでときどき見かけるあの娘に違いない。

バーさんの家に入ると、人々は既にたくさん集まっていた。ごちそうを載せたお盆が次から次へと運ばれてくる。笑い声や話し声がにぎやかにこだまするが、だんだんと酔っ払いのだらしない口調になっていく。ぼくはといえば、ハノイ動物園のサルでも見物するかのような周りの人たちのせいで、恥ずかしくて何も喉を通らない。「花婿だ」、「花婿だ」とあっちでもこっちでも人々の声が上がり、ぼくはもう泣き出したかったが泣いてどうなるわけでもない。

花嫁を連れ帰るのを請う頃合いになると、さらにややこしいことになった。花嫁側はきっかり100ドン要求した。ぼくの母は20ドンまけさせようとするが、相手側は頑としてはねつけ、頑として花嫁を渡そうとはしなかった。そして両家は声を荒げはじめ、ぼくは心配になりはじめた。1ドン2ドンをめぐる永遠に続くかのような値段交渉の末、ようやく85ドンで折り合いが付いた。それ以上は一銭たりとも譲れないというわけだ。

部屋の戸が開き、花嫁が歩み出てきた。数人の娘が花嫁の周りに付き従っている。そのなかにはスー嬢もまじっていて、彼女はぼくを見て微笑んだ。
はっきりと顔を見ることはできなかったけど、花嫁はぼくの二倍はあろうかという大柄で肥えた女で、ぼくは背筋が寒くなった。寺院に参拝に行き、そのとき花嫁もぼくの横で拝んでいたけれど、ぼくには花嫁を直視する度胸がなかった。

人々は地面に御座を敷き、そしてバーさんとバー婦人がサップ台の上に座り、ぼくたちに跪拝させた。バーさんは不安定な姿勢で腰掛け、ときどき髭をなでてはとても得意そうな様子を見せていた。バー婦人は息も付かず一気に長々としゃべり出したが、ぼくには何を言っているのかさっぱり分からなかった。けれどバー婦人がお金の詰まった財布二つと赤い紙の包みを持ってきたとき、中にたっぷりお金が詰まっているだろうことは、ぼくにも理解できた。そしてバー婦人は鷹揚に言った。

「ほれ、婆がおまえたち夫婦に少ないけどお金を用意してやったよ。将来家を出て独立して暮らすときに、これで土地を買って商売でもしてお互い助け合うんだよ」

ぼくは恐くてお金を受け取っていいのか分からなかったけど、父が目配せをしたので屈んで受け取った。うわぁ、なんて重いんだ! かなりの大金に違いない。これだけあれば思う存分お菓子が食べられるぞ。

つづく






最終更新日  2005年06月22日 11時05分21秒
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2005年06月20日
カテゴリ:ベトナム文学
「子供の結婚」 タック・ラム著 岩井訳

結婚の日

 今朝、寒かったので布団の中でぐずぐずしていたら、父がぼくを引っ張り起こし目をギョロつかせて言った。

「起きんか! お前は嫁を迎えに行く服を着なくちゃならんのだろう」

 急いで跳ね起きて離れに行ってみると、人々が忙しそうに立ち回っていた。ライスペーパーで包んでいる人、豚肉を挽いている人。何房かのビンロウの実を詰めた丸い木箱が数箱あり、真っ赤なフランス製の布が巻かれている。

 朝食をちょっとつまんでから服を替えに行った。母が衣装箱を開けて服を取り出す。叔母や近所のテオの野郎までが様子を見に集まって来た。最初、ぼくは真っさらの紅染めされた絹の半袖シャツを着た。一度も洗濯されていないズボンは、長くて硬くて歩くとゴワゴワする。腰に縮緬の帯を締める。二重に巻くがまだ長い。

 晴れ着の着付けがここまで終わると、母は薄い朱色の着物とお椀の口ほどもあるかという大きな花をぼくに渡した。おいおい、綺麗過ぎるよ! 叔母がその着物の布地は中国の錦で、一着10ドンはする代物だと言った。けどどうしてこんなにぶかぶかで長いんだろう、膝まで裾が垂れ下がってきている。

 「それでいいのよ、大きくなったらちょうどよくなるんだから」

 母はそう言うと、今度は頭に巻く布と新しい靴をぼくに渡した。たとえ五年後だってまだぶかぶかのままだろう布と靴だ!

 着替えが終わり、鏡を出して我が身を映し、ちっとは大きくなったか見てみる。母はぼくをあっちに行かせたりこっちに行かせたりする。ぼくはぶかぶかで恥ずかしくてたまらないというのに。テオの野郎が手を叩いて笑う。

 「花婿らしくなってきたじゃねえか」

 ぼくまでつられて浮かれた気分になってきた。あとは唇に紅をひけば、これで男前の一丁あがりってわけだ。

つづく






最終更新日  2005年06月20日 00時12分58秒
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2005年06月19日
カテゴリ:ベトナム文学
「子供の結婚」 タック・ラム著 岩井訳

お膳立て

 ここ最近、叔母は遊びに来るたびに、ぼくの両親となにやらひそひそ相談事をしている。しかもそれがどういうわけか、ぼくの結婚についての話みたいなのだ。ちょっと待ってよ、ぼくが嫁をもらうっていったいなんのために? ぼくは懸命に考えてみたけど分からない。ぼくに分かることといえば、嫁をもらうっていうのは綺麗な服を着て、爆竹が鳴らされ、そしてお小遣いがもらえるかもしれないってことぐらい。

 ぼくは毎日ティーと一緒に庭で棒打ち(ダイン・カン)に興じていたが、近所のテオが歌う声はぼくらの耳にも聞こえてきた。

茄子にゃイチモツ生るように
女にゃ夫が、男にゃ妻が……

 それはそのとおりかもしれない。けどそれは大きくなってからの話で、まだ14になったばかりのぼくには、所帯を持つということがどういうことなのか想像もつかないのだ。

 きょうの午後、ぼくはまるで法事の日のように簾が掛けられ御座が敷かれ、家の中が何かの準備でごった返しているのを見た。そして父と母ときたらひそひそと相談し合って、なにやらものすごくあやしげだ。ぼくの結婚式の準備でもしてるんじゃないか。そう思うと不安でたまらなくなり、全身の感覚がなくなってきて、ティーの奴が棒打ちに誘いに来ても応える気にもなれない。

 明かりを点す時分になると、母はぼくを部屋に呼んで寝台(ファーン)に座らせ、ぼくの服のボタンをいじりながらこう囁いた。「明日母さんがお前に嫁をもらってやるからね。素直に言うことを聞けば、父さんが小遣いたんまりくれるはずさ。うちは子宝に恵まれず男のお前が一人いるだけだろう、嫁をもらって女手を増やして、母さんが歳を取ったときに楽させておくれよ」

 ぼくは全身が痺れて硬直したまま、何て言ったら良いのか分からず、涙が滲んできて、ただただ泣きたかった。

 母はこうも言った。「もう披露宴の準備で大金をはたいてしまったし、礼物も全部用意してあるんだよ。あんまり聞き分けのないこと言ってると、父さんに死ぬほどぶたれちまうだろうよ」

 その夜、ぼくは寝返りを打つばかりで一睡もできなかった。嫁をもらうということがどういうことなのか、不安なこころもちでぼんやりと考えながら。

つづく






最終更新日  2005年06月19日 12時20分49秒
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2005年06月18日
カテゴリ:ベトナム文学
 タック・ラムは1910年ハノイに生まれ、主に1930年代に多くの作品を残したベトナムの作家です。川口健一氏訳の『農園の日差し』という短編集で、日本にもすでに紹介されています。

 この本の中に短編「二人の子供」も訳出されています。この短編は、私が初めて原文で読んだベトナム文学作品でした。ベトナム語を原文で読む際、それが新聞記事であろうが教科書の長文であろうが、それぞれの単語、文章の意味を把握するのに精一杯で、ベトナム語の文体をたのしむ、なんて余裕もなく、はっきり言えば苦痛を伴う作業でしかありませんでした。

その程度の語学力のときにこの「二人の子供」を読みました。大げさに言えば、衝撃でした。まず、文章がわかりやすく、そしてなにより静かで美しい文体。引き込まれるように読み、辞書を引くことに苦痛も感じませんでした。そしてつっかえつっかえ時間をかけてしか読めない程度の語学力でも、タック・ラムの文章の持つ不思議な魅力を感じ取れることができる、ということに、感動を覚えました。ベトナム語を学んでよかったなあ、そう素直に思えた瞬間です。

そのタック・ラムの作品を、拙い訳ですが紹介したいと思います。「子供の結婚」という短編です。『農園の日差し』に紹介されている他の作品とは違い、文章の美しさで読ます短編ではなく、タック・ラムが軽い気持ちで(たぶん)書いたユーモラスな作品です。







最終更新日  2005年06月19日 11時04分15秒
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2005年05月13日
カテゴリ:ベトナム文学
 バオ・ニン氏に私も一度お会いしたことがあります。東京外国語大学でバオ・ニン氏を囲む会のようなものが催され(正式な名称忘れました)、そこでお会いしました。バオ・ニン氏はウイスキーとた煙草をのみながら、参加者の質問に鷹揚に答えていました。講義室内で堂々と煙草を吸うすがたがクールでした。

 私はバオ・ニン氏の短編「侵略軍のバイオリンの音」を読み、カミュの『転落』を思い浮かべました。バオ・ニン氏に『転落』を意識したかどうかを訊いてみたかったのですが、訊けずじまいでした。

 残念でしたが、バオ・ニン氏は魅力的な方でした。同じスモーカー仲間だと確認できただけでもうれしかったです。
 






最終更新日  2005年05月15日 17時24分48秒
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カテゴリ:ベトナム文学
 バオ・ニンはベトナム国外ではもっとも名の知れた現代ベトナム人作家だと思います。代表作は『戦争の悲しみ』というベトナム戦争(北ベトナム側の表現だと抗米救国戦争)を題材にした長編小説です。内容もさながら、訳者が正確に訳していないという批判も飛び出し、「改竄疑惑」としてもすこし話題になりました。英語からの重訳ですので多少の誤訳は致し方ないと思いますが、確かに訳者が想像をたくましくしすぎた箇所もあるようです。

 私の大学の恩師が、日本ペンクラブの作家をベトナムに案内したときにバオ・ニン氏とお話する機会があったそうです。日本の作家は『戦争の悲しみ』に感銘を受けていたため、あの部分がよかったと具体例を挙げて賛辞を送るのですが、バオ・ニン氏はキョトンとしておられたそうです。後ほどあたってみると、日本語訳には出てくるその場面が、原文(ベトナム語)ではまったく記されていなかったとのことです。

 翻訳とは「まったく新しい作品をつくりあげることだ」、という考え方もあるかもしれません。ですが翻訳と名のる以上は翻訳としての節度をまもるべきであり、まったく新しい場面をつくってしまうとそれはもう翻案小説となってしまうように思います。






最終更新日  2005年05月15日 16時59分40秒
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2005年05月10日
カテゴリ:ベトナム文学
「侵略軍のバイオリンの音」 連載第5回(最終回)
                  バオ・ニン著
                   岩井 訳

 一筋の閃光が光った。街の上空で、稲光が走り出した。雲の上では雷鳴が轟いていた。

「ええ、雨が降りそうですね」ボン爺さんはそう言ったが、そのまま話し続けた。「銃弾が飛んできたのはほんのひとときでした。その後フランス軍の応射の音にすべてがかき消されました。屋根瓦、漆喰の壁、窓ガラスが、砕け飛び散りました。フィリップは大声で発砲を制止させ、突入を指示しました。兵士たちは四方から家の中へ突入しました。家の中からは一発の銃弾も発砲されず、兵士たちはなんの障害もなく乱入しました。フィリップは彼らには従わず、庭の真ん中に立ち、手を腰に当てていました。時を置かず、兵士たちは捕えたベトミンと一緒に出てきました。頭に包帯の巻かれたフランス人の負傷兵も支えられながら出てきました。彼こそシャム猫を見て、家に飛び込んでいったあの兵士だったのです。彼はベトミンに頭を殴打され銃を奪われただけで、決して殺されたわけではなかったのです。そしてベトミンたちときたらですね、フランス人が思っていたような大人数ではありませんでした。知っていますか、なんとたったの三人だったのです。最初に引きずり出されたベトミンは女性でした。まだ若く、長い髪が乱れていました。伍長が彼女の腕をねじ上げ、ぐいぐいと押しながらフィリップの前に連行しました。フィリップは、通訳させるために大声で私を呼びました。彼は手を伸ばし彼女の顎をグイと持ち上げ、名前と属している部隊を訊きました。彼女は黙秘し、目を見開いてフィリップを見返しました。私は、彼女が私の通りの自衛部隊で傷兵の看護をしていたのを知っていましたが、彼女の名や家の番地までは知りませんでした。彼女は学生のようでした。そう思ったのは、彼女がまだうら若く、フランス語を理解したからです。彼女と同じ部隊の二人の男が家から引きずり出され、庭に転がされたとき、彼女は憤慨して、フィリップにフランス語できっぱりとこう言いました。『負傷した捕虜をこんな非人道的に扱うことは許されていません!』。フィリップは皮肉っぽく笑い、彼女を手で強く押し退けました。フィリップは、庭の煉瓦敷きの所でぐったりと横たわっている二人のベトミン負傷兵に近づき、彼らのそばに転がっていた、いましがたフランス兵が放り置いた自動小銃を屈んで拾いました。押収された武器はこの自動小銃一丁、床尾板の割れた歩兵銃一丁、そして一振りのサーベルだけでした。フィリップは弾倉を取り出して調べました。弾倉は空でした。歩兵銃もすでに弾が切れていました。フィリップは今度はサーベルを手に取り、振りまわしました。彼は微笑を浮かべていました。しかし私は恐ろしさで身体の震えが止まらず、思わず一歩あとずさ後退りました。不意にフィリップが地面にサーベルを叩きつけ、女兵士のほうに歩み寄り、彼女をキッと睨みつけて言いました。私は一語一句たがわず記憶しています。『この土地、この家は、私の、私の父の、私の妹のものであって、我々フランス人のものだ。あなた方は我々の家と土地を不法占拠しているのだ。言わせていただくが、主人である我々が、あなた方下僕を懲らしめているに過ぎない。私たちは下僕どもと戦争しているわけではない。戦争じゃないんだから捕虜もクソもないってわけですよ、おわかりですか、お嬢さん』」

「そして……」爺さんはゴホゴホと咳きこんだ。「そして、そう言い終わるや否や、フィリップはサッと背を向け、支え合いなんとか半身を起こしていた二人の負傷捕虜のほうへズカズカと歩み寄りました。フィリップはリボルバーを抜き、なんの予告もなしに引金を引きました。二人に向けて、交互に何発も銃弾を撃ち込みました。私は、いや私だけではなく、その場にいた兵士たちでさえ、一斉に凍りついたように硬直しました。雷に打たれたかのような五発の銃声がや止み、辺りは時が止まったかのように静まりかえりました。そして……そしてですね、耳をつんざく、腹を切り裂くような痛々しい悲鳴が、天に轟きました。女兵士は暴れ、伍長の手による縛めを振りほどき、電光石火で駆け寄るやサーベルを拾い上げ、身を屈めて突き上げました。しかし……フィリップの方が一瞬速く、のけ反って剣先をかわすや、引き金を握り残っていた弾丸をぶっ放しました。女兵士の身体がぐらりとかし傾ぎました。空を斬ったサーベルが煉瓦の上に落下し、鋼の刃から火花が散りました。そのとき、伍長が肩に担いでいた銃を構え、銃口を彼女に向けました。他の兵士たちもそれを契機に我に返ったか、一斉に銃を構えました。その直後に、私は駆け出しました。通りに飛び出し、フランス兵を押しのけて走りました。私を遮る者は誰もおらず、止まれ、と叫ぶ者さえおりませんでした。たとえ叫んでも、私には聞こえなかったでしょうがね。庭では銃声が猛り狂い、轟音が響き、空気がビリビリと震えました。私は走って走って走りました。頭の中で炎が明滅し、野蛮な死刑執行の銃声が耳にこびりついて離れませんでした。力尽きて、ハンコー通り近くの泥まみれの路地裏で突っ伏して気を失いました。やがて意識が戻り、人気のない通りを身体を引きずりさまよいました。涙がとめどなく溢れてきて……。私は一介の小市民に過ぎません。低劣で意志薄弱な小市民に過ぎません。しかし私は植民地主義兵士たちがこれほどまでに野蛮で下劣であったとは、思いもよらず、理解もできず、測り得もしませんでした。それから歳月が過ぎたのちでも、ペギー家で現出した光景は、未だに脳裏にまざまざと焼き付いています。その痛ましさに、私は言葉を失います」

「私はハノイがフランスに占領されていた期間ずっと、チャイガンに人目を忍んで、あらゆる重労働で生計を立てながら暮らしておりました。意志薄弱で厭世的な私に、解放区に飛び込む度胸があるはずもありませんでしたが、再度フランスの手先に堕すつもりもありませんでした。また、私の大切な人たちと、断腸の思いで絶縁せねばなりませんでした。私がいくら敬愛したところで、彼らはフランスに付き従っているのですから。私の家族も四七年の春には疎開先から戻ってきました。私の父と兄たちは、以前にも増してフランスに重用されました。家族が私の行方を懸命に探していることは知っていましたし、私も家族のもとへ帰りたくてなりませんでしたが、かなわぬ願いでした。一度、四七年の秋の日暮れ時に、私はどうしても自分の気持ちを抑えることができず、ノ ン菅笠を目深にかぶり、無謀にもソレ通りを歩いて我家へと向ったのです。私の家は、まだそれほど暗くもないのに、電灯が庭を燦燦と照らしていました。庭には車が一台停められていて、シェパード犬が鉄格子沿いを落ちつきなくうろついていました。ベランダにはトリコロール三色旗が風にパタパタはためいていました。ペギー家の家はというと、以前とちっとも変わらず、古めかしく、苔むして黴がはえて、排他的な佇まいでした。しかし銃撃戦と惨殺事件の証跡は、まったく跡形も留めていませんでした。風がひとしきり通りに吹き込んできて、バンランの木の葉がぱらぱらと舞い散る音が聞こえてきました。私はまたゆっくりと歩を進めました。するとですね、なんということでしょう、あの痛ましくもの哀しいバイオリンの音がどこからともなく聞こえてきたのです。ということは、ソフィーがあの懐かしの家に帰ってきたということです。私はまるで眼前に見るかのように、彼女をありありと思い描くことができました。あの美しく、優しい、澄んだ盲目の瞳のフランス少女を。しかし私は駆けるように歩を速め、耳を塞ぎました。それから五四年の十月まで、私はその慣れ親しんだ通りに、歯を食いしばって誘惑を断ち、近寄りませんでした。私は見たくも、聞きたくもありませんでした。あの絶妙なバイオリンの音色に、私は我慢がならなかったのです。それは侵略軍のバイオリンの音で、事実そのとおりで、ほかにどう考えることができたでしょう……」

 雨が滝のように降りそそぎ、そしてひととき雨足が弱くなったが、雷光は依然閃いていた。私は裁判所のわきの雨を凌げる場所から離れる気がまだしなかったが、老人は雨のなかへ消えていってしまった。私は雨を眺めながら、彼の話を聞いていた。話が途切れて、ふと顔を向けると、彼は音も立てず、私に挨拶もなく立ち去っていたのだ。私は彼が雨のなかに潜り込んで消える前に、七二年にアメリカがフランス大使館を爆撃したとき、彼は大使館近くの防空壕に隠れていた、という話をしていたのを覚えている。彼は他の人と一緒に、瓦礫に埋もれた人々の救出を手伝った。「私は大使が瓦礫の山から引きずり出されるのを見ました。べっとり血まみれになっていて、そしてすでに死んでいました」

「その事件後、私はフランスを赦してやることができるか、と自問をくりかえしました。どれほどの時間と、年月と、崩れた煉瓦と、砕けた瓦と、人命を注ぎ込めば、百年に及ぶ侵略で植民地主義フランスがこの国にもたらした死と災禍の深淵を埋めることができるのでしょうか」

 彼はそう問いを残し、消えていった。稲妻走る空のもと、私も雨のカーテンの奥へと老人に続いた。老人の人影はどこにも見当たらない。しかしサッと吹き抜けた雨混じりの風に、誰かがあるメロディーを口笛で吹いているような音が聞こえてくる ──われ想いしやかの大地、わが故郷(ふるさと)とそしてパリ……
(『二〇〇〇年度傑作短編集』二〇〇〇)






最終更新日  2005年06月11日 19時03分27秒
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カテゴリ:ベトナム文学
「侵略軍のバイオリンの音」 連載第4回
                  バオ・ニン著
                   岩井 訳

 ボン老人は力なく座り、うつむいた。彼は私のことなどすっかり忘れ去り、知覚は際限のない領域へと流されてしまったかのようであった。

「ある日、西暦の二月中旬に差しかかったころでしたが、私は思いもよらぬ知人と邂逅しました。一台のジープが、労役に従事していた私たちのそばで急ブレーキをかけました。フランス人の男がジープから跳び降り、軍靴をカッカッと鳴らして駆け寄ってきました。『おい! ――フランス人は叫びました―― おい、ああ、やっぱり君じゃないか、なんでこんな所にいるんだい、なんでこんな目にあっているんだい、君は随分と変わったね』。そのフランス人はだみ声で、頬髭をはやしていましたが、それはかつての隣人であるフィリップ・ペギーでした。彼も随分と変わり果てていて、兵服、拳銃、軍靴、ヘルメットなどを身に付けたフランス人の一敵兵であるという符合を除けば、なんら昔の面影が見出せないほどでありました。しかし、フィリップは私にとても親切にしてくれました。彼の口利きのおかげで、私は重労働から解放されたのです。彼は私の家族が善意で彼の父と妹をかくまった話を知っていました。現在ソフィーは父親と一緒にハイフォンにお居り、そして彼女はハノイが早く平定され少女時代の愛すべき我家に戻ることを切望している、とフィリップは言いました。フィリップはジアラン通りに駐在している彼の兵舎に私を連れていきました。私は一日休んでから、フィリップ付きの通訳として従事せねばならなくなりました」

「ああ、なんということでしょう ――老人はしわがれた嘆き声をあげた―― これで私もフランスの一味としての一歩を踏み出してしまったというわけです。たとえそれが数日というほんの僅かな期間であったとしても。その数日間、私はフィリップの車に同乗し、前線近くまで潜入しました。車は通りの角に隠れ、拡声器をバリケードのほうに向けました。私は投降を呼びかける言葉、時には甘い約束の言葉、時には脅迫の言葉を通訳せねばなりませんでした。もちろんそんな真似はしたくありませんでしたが、だからといって私にどうすることができましょうか、従うよりほかはなかったのです。そして一方で、正直に申しますと、私は自己を正当化する理屈を懸命に探し出しました。知らず知らずのうちにフランス人の論調に飛びついて、ハノイの破壊や流される血をできるだけ少なくする努力に、とにかく私も一助しているのだと自分に言い聞かせていました」

「しかし投降を呼びかける拡声器の声を聞き、バリケードを出てフランスに屈しようとする者など誰一人としていませんでした。連区内の戦闘は、日毎に激烈さを増しました。長引く停滞にイライラを募らせ、私に通訳を強いるフランス軍の言葉は、日毎に高圧的になっていきました。二月一五日の朝、投降勧告の車がロパゾー広場に停まり、朗々とフランス軍司令部の最後通牒を読みあげました。何日の何時までにベトミンの残存勢力拠点が白旗を掲げなければ、一斉攻撃を加えるという旨でした。ロパゾー広場の傍にはドンスアン地区での凄まじい戦闘の痕跡がそのままに残されていました。賑わいを見せていた街が血のこびりついた戦場と化したのです。霧雨のなか、火はもう消えていましたが、まだあちらこちらで煙が立ちのぼっていました。北風が灰を舞い上げ、視界を遮りました。砕けた煉瓦、粉々の屋根瓦、折れた梁木(うつばり)……。黒焦げになった戦車が散見され、キャタピラは千切れて飛び散り、運転していた兵士が戦車の出入口に引っかけられたかのような体勢で死んでいました。この身の毛もよだつ激戦のあと、比較的平穏な日が数日間続きました。たまに銃声が聞こえてきましたが、いずれも単発でした。フランス軍は手痛い反撃を受け兵力を消耗し、一時攻撃の手を緩めねばなりませんでした。しかしベトミン側も非常に困難な情勢でした。フィリップの言動をとおして、私はフランス軍の勝利にもはや疑いの余地がないことを知りました。『フランス軍は慎重に、堂々と、人道的に勝利を勝ち取るであろう』。フィリップはそう言いました」

「しかしハノイは、侵略者たちに勝利を決定づける機会を与えませんでした。二月一八日の朝、炎が空の一角を真っ赤に染めましたが、街中はシンと静まりかえっていました。第一連区はもぬけのからでした。あれほど厳重な包囲網にもかかわらず、ベトミンは突如どこかに消え去ってしまったのです。この神懸り的退却により、フランス軍は極めて滑稽な勝利を押しつけられたかたちとなり、勝利したというのに実際には大敗を喫したかのようでした。都市を占拠できたというのに、占領者はほっと一息つくこともできず、嬉しくもなんともなかったのです。押し黙り、疲弊した兵士たちは、銃を構え二列になり、人気のない路地のなかへ注意深く進入していきました」

「狙撃される危険に頓着せず、フィリップは旧市街の表通りから路地裏までありとあらゆる場所にジープを走らせ捜索しました。私はフィリップがいまさら何を望んでいるのかまったく理解できませんでした。街路のゾッとするほど静まりかえった空気のなかで、投降を呼びかける拡声器はもはや語られるべきこともなく、恥ずかしそうに口をつぐみ、たまに喉に骨が刺さったかのようにガーガーと音を洩らすだけでした。ジープの上でフィリップの横に座っていた私は、寒さと恐怖のため、ガタガタ震えていました。通りの両側には、人影はおろか開かれている扉もなく、話し声も聞こえず、そして見られているような視線さえもまったく感じませんでした。にもかかわらず、走り過ぎる家一軒一軒から、またはそれぞれの庇や壁や通りの角から、目には見えず無言ではありますが、強烈な敵意のようなものが立ちのぼっているように感じ、私は気が気でありませんでした」

 通りの向かい側にある家の二階の窓が、突如開け放たれ、一人の女性がベランダに出てきて通りを見下ろした。ボン老人の話し声が気になったのだろうか。しかし実際は、老人の話し声は耳もとで囁くように小さかった。

「また戦闘が再開されるのではと恐れ慄いていた私でありましたが、実際銃撃戦が始まった場所に直行せねばならぬと知らされたとき、虚を突かれたような思いでした。また戦闘が始まったんですよ。今度は第一連区ではなく、無線で指令を聞き終えたフィリップが私にこう言いました。『おい、ベトミンの拠点がまだ残っていたらしいぞ。しかも俺の家の通りだ!』。クアンチュオン通用門から、フィリップは車の向きを変え、全速力でソレ通りに向けて車を飛ばしました。私たちはソレ通りの端まで来ると、赤いヘルメットを被った兵士を満載したトラックの後ろに付けて、ジープを走らせました。トラックは我家の門の真ん前でブレーキをかけました。私たちが到着すると、すでに黒人兵の一団が邸宅を取り囲んでいました。それは私の家ではなく、ペギー氏の家でした」

 ホアンキエム湖の畔からリー・トゥオン・キエット通りに向って、一陣の突風が吹き抜けていった。ひんやりとした、湿っぽい風だった。サウの木がザワザワと風に揺れ、葉が大量に舞った。じきに暴風雨になるかもしれない、ボン爺さんにそう伝えたかったが、私は黙っていた。

「一人の伍長が、彼の指揮下の斥候隊が偶然ベトミンを発見した、とフィリップに報告しました。ペギー氏の家の門を横切ったとき、軒下に丸まって日光浴をしているシャム猫を目に留めた一人の兵士が、不審を抱いたというのです。空家なのになぜ猫は居残っているのだろう、もしや家に人がいるのだろうか、と。その兵士は家の中に様子を見に行きました。しばらくして悲鳴が聞こえ、兵士は二度と戻ってきませんでした。二時間以上が経過し、兵士たちは何度か侵入を試みましたが、家の中から銃弾を浴び、退却を強いられました。二人が死に、三人が負傷しました。帰ってこない兵士を加えれば、六名がやられたわけです。伍長は少なくとも十人のベトミンが立てこもっていると見積もりました。ベトミン側の火力は相当強力である、伍長はそう進言しました。しかし、それにしては家の中が静かすぎるように思えました。兵士たちは通りに突っ立ち、家の周りを所在なく取り囲んで格好の的になっているにもかかわらず、家の中からは狙い撃つ気配すら感じられないのです。フィリップが投降を勧告したときですら、撃ってきませんでした。私がフィリップの言葉を通訳し、拡声器の大音響がこだましてもなお、家の中は静まりかえっていたのです。まったく奇妙でした。しばらくして、彼らは弾を撃ち尽くしてしまったのではないか、と私は思い至りました」

老人は頭を垂れ、深い沈黙の中へ重々しく下降していった。随分と長い沈黙だった。私はため息をついた。爺さんは顔を上げ、今度は彼がため息を洩らした。

「先ほどお話したように、戦闘が勃発した最初の夜のうちに、私の通りの自衛部隊は二つに分断されました。私のいた半分は工芸学校に追いやられて、そしてもう半分はソレ通りで挟まれ身動き取れない状態に陥りました。大通りの間を斜めに走っているあの通りがソレ通りです。フランス軍はこの大通りに兵を集め、このあたりは装甲車や兵士で昼夜を問わず賑わっていました。完全に包囲されている仲間たちに、もはや退路は残されていませんでした。どの方角に跳び出そうとも、フランス軍にぶち当たらずには済まないのです。各家の地下壕に身を潜めているほかに仕様がありませんでした。夜更けに彼らは突破口を見つけるため、そしてあわよくばフランス軍に奇襲を加えようと、闇夜に忍び出しました。まだ私が死体処理班で働かされていたころ、捕虜仲間が、ホアロー監獄近辺の通りでは、狙撃されたり、刺されたり、銃を奪われるフランス兵がまだいる、とひそひそ噂しておりました。その後、フランス兵がシェパード犬を使ってその大胆不敵なベトミンたちを一網打尽にした、という噂も耳にしました。しかし残っていたベトミンがまだいたのです。彼らは完全に包囲され、追い詰められていました。彼らは不気味な静寂を保ち、発砲しませんでした。それとも投降の決意を固めたのでしょうか。実際、つかむ藁さえない状況だというのに、なぜ銃を下ろさないのでしょうか。『あなた方はベトミン本隊に見捨てられました』、私はフィリップの言葉を通訳しました。二ヶ月の間、声を嗄らしてあちこちで投降を呼びかけましたがまったく効果がなく、フィリップは功をせ急いていました。彼は大胆にもジープを庭のなかにまで入れ、拡声器をまっすぐ屋敷のほうに向けました。私、運転手、フィリップの三人は、十分な射程距離の前でその身を無防備にさらし、何度も投降勧告を行いました。それでも撃ってこないということは、ベトミンが投降を望んでいるのはもう明らかでした。『縦一列になって、一人ずつ順番に、両手を頭より高く上げて出てきなさい。一フランス軍士官の名誉にかけて、あなた方全員の生命の保証と国際戦争捕虜条約に従い処遇することを誓います』、この居丈高な言葉の直後でさえ、私たちが撃たれることはありませんでした。しかし、フィリップが『あなた方はベトミン軍もベトミン政権も、すでに投降していることを知らないのですか』と言葉を継いだとき、私が通訳するいとまもなく、銃弾が飛んできました。自動小銃の一斉射撃により、車のてっぺんに取りつけられた拡声器が弾け飛び、フロントガラスは砕け散り、そして銃弾が運転手の肩を貫通しました。フィリップは車から転がり降りて銃弾を避けました。しかし私ときたら車の中で茫然自失、座りこんで微動だにできませんでした」 つづく






最終更新日  2005年06月11日 19時03分01秒
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