西郷隆盛 私学校と西南戦争
黎明館(鹿児島鶴丸城跡)と道路をはさんで北側に国立病院機構鹿児島医療センターがある。そこが私学校跡である。国道10号線沿いの石塀は道路拡張で後退したが、原形に復元されている。 旧門の横に「私学校跡」の石碑がある。(上の写真) 明治6年(1873)、征韓論・遣韓大使派の政治家・軍人・官僚600余が次々に官職を辞任した明治六年の政変で西郷隆盛が下野して鹿児島に帰ると、西郷を慕って同調した青年子弟があふれていた。 西郷は彼らを教育するために、県令大山綱良の協力を得て、ここに明治7年(1874)6月私学校を設立した。「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の3校だったが、幼年学校は明治維新に功績を挙げたものに与えられた賞典禄によって設立されたことから「賞典学校」とも呼ばれる。西郷が二千石、大山が八百石、桐野利秋が二百石を拠出し、参議大久保利通も千八百石を拠出した。残る二校の費用は「私学校」という名前とは裏腹に、県の予算より支出された。また県内各郷に130校くらいの分校が設置された。 教務は主に漢文の素読と軍事教練にあったが、設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐことにあったとされる。そのため入学できるのは士族、それも元城下士出身者に限られていたという。 ここからは私見だが、言うなれば、明治維新によって日本一多かったとされる鹿児島士族に現代風に言えば大失業時代が到来したわけで、士族の不満は頂点に達したものと思われる。そいう中で、帰郷した西郷は明治政府から警戒もされ、ある意味では鹿児島士族の暴発を防ぐ意味で安全弁とも見られていたのだろう。 そいう中で日本各地では士族の反乱、農民一揆などが頻発し、不穏な空気が渦巻いていた。しかし、鹿児島では私学校幹部の努力もあり、平静を保っていた。 それでも、そのような鹿児島士族の動きは政府にとってはむしろ無気味な存在であり、警戒感を強めて様々な圧力と兆発を繰り返し、20数名の密偵を送り込んだ。その中で私学校士族らが捕らえた政府密偵から「西郷刺殺」の情報を知ることになる。そして政府軍が夜間に弾薬輸送を行うことを知り、弾薬庫を襲う。これら跳ね上がり士族の行動で私学校幹部の努力は水泡に帰した。 明治10年2月5日私学校幹部は会議を開き、西郷が上京して政府に問い質すためにどのような方法をとるかなどを協議したが、軍を興して決起すべしという意見と、慎重論に分かれた。平時なら慎重論を唱えたはずの士族たちもこの西郷刺殺の情報には冷静さを失っていた。出兵論に慎重反対の桐野利秋、篠原国幹らさえ我慢の限界に達しており、支持多数で出兵論でまとまった。最後に西郷の「同意」得て,ことは決したのである。 西郷出陣の直前に西郷と会ったという日記をもとにした記事がある。著作のことなので、直接旧い文献を見たものではないことをお断りしておく。それは、萩原延壽著 「遠い崖ーアーネスト・サトウの日記抄 13」西南戦争(朝日文庫)からの引用である。アーネスト・サトウはイギリスの外交官であり、鹿児島で医師をしていた旧友ウイリアム・ウイリスのもとを訪れて正に西南戦争前夜の鹿児島・西郷の出陣までの経過を見届けた人物である。 明治10年(1877)2月2日、サトウは鹿児島に到着し、旧友ウイリスの家で旅装をといたが、当時ウイリスは宮崎へ出張中であり、そのウイリスが鹿児島に戻るまでは、政情視察というパークスの訓令はひとまず脇に置くというのが、このときのサトウの思惑ではなかったかと想像される。すでに1月29日から2月2日にかけての私学校徒による火薬庫襲撃事件によって、動乱は動き始めていたのであるが、2月5日に県令大山綱良を訪問したサトウは、大山の「まったく冷静で、落ち着きはらった様子」におどろかされた。(中略)しかし、2月8日、ウイリスが宮崎から戻り、ウイリス家の夕食に加わった若い医師三田村敏行(三田村一の弟)からくわしい説明を聞かされるに及んで、サトウにも動乱の深刻さが納得できた。何よりもまず、これに西郷隆盛が加担していることである。西郷、桐野利秋、篠原国幹の連名で、大山県令に送った届書は、上京の理由として「今般政府へ尋問の筋これあり」と述べ、つづけてこれには「旧兵隊の者共随行、多数出立致し候」と書き添えていた。さらに若い三田村は、東京から送り込まれ、やがて鹿児島で逮捕された警視庁警部中原尚雄らの自白にもとずく、西郷暗殺計画の陰謀を暴露した。(中略)「2月10日、聞くところによると、西郷と大山を暗殺すべく当地に下った者たちは、江戸の大警視川路某(利良)の内命を受けていたという」「川路の共謀者は内務卿の大久保で、大久保は昔は米倉庫の小役人だったそうである」「暗殺の陰謀に加わった者たちは、一名の江戸の『さむらい』を除くと、すべて薩摩の出身者だという」(中略)ところが、翌11日、その西郷が突然ウイリスの家に姿を見せた。「2月11日、西郷がウイリスに会いに来た。ウイリスは用事で西郷を訪ねるつもりだったし、わたしも西郷を訪問したいと思っていたところであった」(中略)旧知のサトウが鹿児島に滞在していることも、西郷の耳に届いていたであろう。ウイリスが訪ねてくるとすれば、サトウもこれに同行してくると西郷は予想したであろうし、じじつサトウもそのつもりでいたであろう。(中略)しかし、このときの西郷の来訪ぶりは異様であった。その模様をサトウはつぎのようにつたえている。「西郷には約20名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意深く監視していた。そのうちの4,5名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷に付いて家に中へ入ると主張してゆずらず、さらに2階へ上がり、ウイリスの居間へ入るとまで言い張った。結局、1名が階段の下で腰をおろし、2名が階段の最初の踊り場をふさぎ、もう1名が2階のウイリスの居間の入り口の外で見張りにつくことで、収まりがついた」ここに描かれている西郷の姿は、あたかも「虜囚」のそれに似ている。中原尚雄らの自白にもとづく暗殺計画が発覚していたとはいえ、この警戒ぶりは尋常ではない。護衛たちが「監視」していたのは、暗殺の危険ではなく、西郷の発言の内容ではなかったか。最初、護衛たちがウイリスの家に入るのを西郷が制止したことからみても、西郷は旧知のサトウやウイリスに何かを語りたかったのかもしれない。(引用終り) この辺りの西郷の心境は如何なものだったのだろう。安政の大獄で一緒に錦江湾に飛び込んで水死した僧・月照とのこともあり、自分だけが生き残ったという気持ちが、その後の人生においてずっと負い目となり、こういう場面でも人に命を預ける、という気持ちを持っていたのではないか。 これをきっかけに大軍を率いて熊本まで上り、そこからは、官軍の猛烈な攻撃に撤退を余儀なくされ、最後は城山で切腹という結末を迎える日本で最後の内戦と言われる西南戦争である。 その城山の麓の上記鹿児島医療センターの石塀にその時の弾丸の跡が今も無数に残っている。 その他の参考文献「鹿児島県の歴史散歩」(編者 鹿児島県高等学校歴史部会) ウィキぺディア「私学校」「西郷隆盛」