餅つき機は我が家の歴史を見てきた?
今日は暮れの28日、我が家の恒例の餅つきの日である。もっとも、餅つきと言っても杵、臼で本格的につくものではない。そうそう、あの便利な餅つき機であなた任せの餅つきである。とは言っても、熱くくっつきやすいつきたての餅はなれない私には手に余り、加勢もできない。今年は子供たちに手のかからなくなった娘も加勢と称して朝から押し寄せてきた。そしてこの餅つき機が我が家にやってきたのはいつ頃のことだったろうという話になった。山口県の徳山の中学校に入った年に買ったと妻が言う。娘の中学校の入学祝いに餅をついたり、桜餅をつくったりして、親戚や親しい人に配ったとのこと。もう40年くらい前の話だ。仕事だけに目が向いていた私にはそのような記憶のかけらもない。 その後、鹿児島に落ち着いてからも家の片隅で我が家を見守ってきた餅つき機である。とは言うものの40年毎年連続で使い続けてきたわけでもない。鹿児島に帰ってきて35年経つが、その間、妻も私の会社が軌道に乗る前に手助けをして、会社が落ち着いて、母の終末期介護をするまでの何年かは、街の饅頭屋さんに餅つきをお願いしていた。しかし全てが落ち着いてからは毎年この餅つき機にお世話になっている。 餅つき機一つをとっても家の歴史と深い関わりが有り、モノを大事にしなくてはと思った今日だったが、自分の歴史もぼつぼつ振り返らなくてはならない歳になってきた。 夏頃だったか友人のKくんから自分史的なものをまとめているという話を聞いた。中国を愛して、中国への旅は数知れず、ついには中国の日本語学校の教師にまでなったKくんは、帰国後も日中友好に並々ならぬ力を注いでいる。そのKくんが交流のあった中国の友人たちのこと、中国旅行各地を巡った旅のことなど凄い数の旅行記やエッセイを残している。それらに書き加えたり、推敲をして取り敢えずプリントアウトして残すという。 そのKくんに触発された私もこれまで書いてきた6、70本のエッセイもどきの延長上にさらに書き加えればそれなりの自分史になるのでは思いながら、ほとんど手つかずで今年も暮れようとしている。来年のことを言うと鬼に笑われるかもしれないが、少しでも気力の残る今のうちに一行でも書ける来年にしたいと思う。 それともう一つはこの3年くらい興味を持って訪ねたり、調べたり、読んだりしてきた薩摩の歴的な資産のことも来年のテーマにしたい。 昼は妻と娘の3人で恒例でつきたての餅をおろし大根と柚子の酢じょうゆに浸して食べた。あっさりしていて、いくらでも食べられる。4、5回ついて今年の餅つきは終了。娘も餡餅など持って帰って行った。明後日にはおせちをつくりにまた娘が来る。これは毎年のことだ。