長崎 風頭公園周辺の墓地
龍馬の像のある広場からすぐ下に、由緒のあるような立派な墓地群が見えた。降りていくと 日本写真界の始祖 上野彦馬先生墓地参道とあり、少し進むと 市指定史跡 上野(彦馬)家墓地という説明板がある。 私も初めて知る名前であるが、西洋文明の入口だった長崎ということを考えると、そういう人がいても当然かとも思った。 上野彦馬 天保9年(1838)~明治37年(1904)日本初の商業写真家として、幕末から明治の長崎を記録し続けた。また金星観測や西南戦争に赴いて記録を残した報道カメラマンとしても草分け的存在である。現在私たちが目にする坂本龍馬やグラバーなどの著名人の写真は、ほぼ上野撮影局で撮られた。彦馬は、上野俊之丞の四男として銀屋町で生まれた。俊之丞は日本で初めて写真機を輸入したり、蘭書や実験器具を自宅に置いていたことから、自宅には緒方洪庵などの蘭学者が常に出入りしていた。そういう中で育った彦馬も、当時確立されていなかった写真技術を自ら実験を重ねて研鑽した。一連の成果をまとめた「舎蜜局必携」は当時の化学の教科書として大変な評判を呼び、開設した写真局も遠く上海やウラジオストクへ支店を出すほどだったという。 すぐ近くには通事の墓地があった。これもいかにも長崎らしいので見てみた。 市指定史跡 唐通事 林・官梅家墓地の説明版によると概略次のようなことが書いてある。 福建省福州府福家の人、林公琰(りんこうえん)が日本に渡来し、大村藩の森氏の娘と結婚して生まれたのが林道榮です。道榮は有名な大通事となりました。学問が深く詩文に長じ書を能くし語学も抜群でした。その子、三郎兵衛が早く死んだので孫の勝五郎の後見として官梅三十郎をつけました。三十郎は平井仁左衛門の子 三郎兵衛の娘婿です。三郎兵衛の子が林家を継ぎ、三十郎の子孫が官梅家となりました。この両家の墓がここに並んでいます。 次は 市指定史跡 阿蘭陀通詞加福家墓地である。案内版には次のように書いてある。 加福家は代々阿蘭陀通詞を継承した家柄である。始祖吉左衛門はポルトガル語の通訳として勤めていたが、ポルトガル人の国外退去に伴って阿蘭陀通詞へ移行した。寛文4年(1664)小通詞となり、その後 寛文8年(1668)には大通詞に就任している。阿蘭陀通詞の大役である江戸通詞も勤めたが、元禄2年(1689)江戸参府の際72歳で没している。加福家は、吉左衛門の後、明治維新に至るまで八代にわたって阿蘭陀通詞を勤めている。吉左衛門の他に3代喜七郎、4代喜三、5代安次郎及び6代新右衛門がそれぞれ年番大通詞に就任し墓碑もほぼ原型のまま残っていることもあり、大変貴重であると言える。 風頭公園は長崎のハタ(たこ)揚げの名所でもあると聞いており、見ることが出来るかと思って行ったが、この日はハタ上げにあうことはなかった。しかし、思ってもいなかった写真界の始祖や長崎らしい通事・通詞の歴史などを偶然にも知ることができて大変貴重な勉強をすることができた。 長崎の記事はあと2,3回書くつもりだが、明日28日から31日まで北九州に行く用事があるため2月になってしまう。北九州では29日、ウエル戸畑で開催される「クローバー コンサート」4つの合唱団が奏でるハーモニー に男声合唱団 「楠声会合唱団」の一人として歌うことになっている。黒人霊歌4曲を歌います。その後、妻の妹宅に滞在し、北九州時代の合唱仲間たちと旧交を暖めたり、小倉の街をぶらついたりして31日帰鹿の予定である。