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ジージの南からの便り

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2020.10.30
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カテゴリ:旅行・ドライブ

 
 高校同期歴史愛好家4人組の私たちは、天昌寺跡墓地見学を済ませて再びボランティアガイドOSさんの車に乗せていただき「商家資料館・旧阪本家」に向かった。

 「宮崎市佐土原資料館」のパンフレットによると、阪本家は江戸時代から続いた味噌・醤油醸造販売を営む旧商家だったという。
この建物は明治38年(1905)に建築され、平成12年(2000年)5月旧佐土原町の有形文化財に、同20年12月1日には宮崎市景観重要建造物に指定された。

 佐土原の町の旧商家の建物は、切妻屋根造りに妻から入る基本の型と、この型の2・3軒分の土地に切妻屋根造りまたは入母屋根造りに平から入る型に分かれる。
旧阪本家の建物は後者の「重層入母屋根造りの平入り」の型である。
この周辺は江戸時代、佐土原藩の町人町として位置づけられ、城が広瀬に移った後の明治期以降も旧城下町として栄えた。しかし、近年古くからの建物が少なくなっていく中で、阪本典章氏から建物寄贈を受け、旧佐土原町によって保存のための改修工事が施され、商家資料館として活用されている。



 外観も見所の一つ。
なまこ壁や紅柄格子、防火用水など現在では見ることが少なくなった建築様式を見ることができる。



 屋根には屋号や家紋をあしらった瓦やゲン担ぎのための鍾馗瓦などがある。



 旧阪本家をあとに宮崎駅行きのバスに乗車のため再び佐土原城跡まで戻る。
ここでガイドしていただいたOSと別れて「城の駅・佐土原いろは館」でしばらく休憩。
入口には島津豊久公の大型パネルが展示されていた。

 今年は豊久公生誕450年ということで11月20日から11月29日の間、「生誕450年記念島津豊久展」が開催されるという。人気漫画「ドリフターズ」企画展・日向の陣だという。



 バス停の前に佐土原城跡の景色がひらける。







Last updated  2020.10.30 13:40:51
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2020.10.28
カテゴリ:旅行・ドライブ


 佐土原城跡を見学の後、車のない私たち一行をボランティアガイドのOTさんが自家用車で案内していただけることになって、向かったのは島津家久・豊久公の眠る「天昌寺跡墓地」である。
ここの説明は二枚の案内版で十分に説明されているので、書く事もない。
ただ、写真の一枚に謎の男が写っているので注目ですぞ!(爆)


















Last updated  2020.10.30 12:43:32
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2020.10.27
カテゴリ:旅行・ドライブ


7月の宮崎県えびの市歴史旅から3ヶ月、今回は一泊で佐土原と都城を訪ねた。
メンバーは前回と同じ4人組である。
朝7時37分鹿児島中央駅発の特急きりしま号でKくんと出発。途中鹿児島駅で二人が乗車合流し4人旅が始まった。
10時過ぎには宮崎駅に到着、友人のNくんの出迎えを受けて佐土原歴史資料館「鶴松館」(かくしょうかん)まで送ってもらう。ここは佐土原城跡の一角に建てられている。 



 佐土原城は14世紀半ば頃に伊東氏の一族・田島休助によって田島城として建てられたといわれる。
応永34年(1427)頃、田島氏に代わり日向国に勢力を伸ばしていた本家筋の伊東祐賀が入城し佐土原氏を名乗る。文明12年(1480)に伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、正式に伊東氏が田島城(佐土原城)を支配し伊東四十八城の一つに位置づけられたという。
天文5年(1536)に焼失したが、天文11年から12年にかけて跡地に新しく鶴松城として建てられた。その後、九州の関ヶ原の戦いといわれる「耳川の戦い」に破れ豊後国に一時的に退去した際に島津四兄弟の末弟・家久が城主として入った。

 天正15年(1587)に豊臣秀吉の島津氏に対する平定により、島津本宗家の16代当主・義久が秀吉に完敗し降伏する。その直後に家久が急死(死因については諸説あり)し息子・豊久が城主となる。
家久と豊久親子の2代が前期佐土原家と言われる。

 寛永2年(1625)の2代島津忠興の代に山の上の建物を壊して、山の下に城を移した。城郭の老朽化による修繕費の増大により藩財政が逼迫したことと、元和元年(1615)の武家諸法度の発令による大名の城郭に対する規制が厳しくなったことなだがその理由と思われる。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで島津軍は西軍に参加するが、豊久は討死にし、佐土原城は家康の家臣・庄田三太夫が預かる。その後慶長8年に島津以久(宗本家15代当主島津貴久の弟忠将の嫡子)が3万石を分与されて立藩、明治まで領することになる。以久以降が後期佐土原家と言われている。



 下の写真は「佐土原城跡」のパンフレットから
写真の中央付近に佐土原歴史資料館「鶴松館」(かくしょうかん)がある。
佐土原城は山城で中世宮崎平野を治める拠点として、城には曲輪が設けられ、土塁や堀切が築かれていた。江戸時代には現在の鶴松館の部分に佐土原藩主の屋敷が建てられ、明治の廃城のときまで使用されたという。また近年、本丸から発見された天守台や鯱瓦は、貴重な発見例として注目された。
平成16年9月30日 「佐土原城跡」は国指定史跡となった。
佐土原歴史資料館「鶴松館」は城の遺構に基づいて、二の丸跡に大広間・書院・数寄屋が復元され、平成5年6月に開館したという。








 今回私たち4人はボランティアガイドのOTさんから懇切丁寧な案内をしていただいた。
OTさんに私たちが宮崎を訪ねることを連絡していただいたのは、ブロ友である「永吉南郷会」の前会長で現在顧問として日置市吹上町の「永吉島津家」の菩提寺・天昌寺跡墓地などのガイドをされている「本〇どん」である。OTさんと本〇どんに感謝の他ない。ありがとうございました。

参考資料
 Wikipedia         佐土原城
 川口素生著    「島津一族 無敵を誇った南九州の雄
 佐土原歴史資料館 鶴松館 パンフレット






Last updated  2020.10.30 12:41:53
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2020.10.22
カテゴリ:つれづれ
もう10月も22日だという。
今年はあと2ヶ月少し残っているが、このような閉塞した気持ちのままで終わってしまうのだろうか。

 コロナに明けたとは言わないまでも2月に入るとダイヤモンドプリンセス号での新型コロナウイルス疾患が判明、その頃はまだいくらか遠いところの出来事というような感じていた。
ところが福岡で患者発生、それからは当地でも次々にクラスター発生など慌ただしい世の中になっていった。
その間、私たちのおじさん合唱団の合唱活動も停滞し2月7日の日置市の「石谷小学校」でのスクールコンサートを最後に10月14日の薩摩川内市「東郷学園義務教育学校」でのマスク着用のコンサートが開かれるまで対外的な活動はストップしてしまった。加えて今後予定されていたこれからの2つの行事も休みとなった。毎週日曜日の練習も3月から7月まで休みとなったが、東郷学園の演奏会に備えて8月から大ホールを借りて練習再開。これも終わってとりあえず10月は休みである。11月以降は未定だが、大きな口を開けて声を出す合唱が文化活動の中でも一番問題があるとされているので完全解放の見通しが立たない。

 グラウンドゴルは、学校が休校になったこともあり、自粛しようと4月末から5月末まで約1ヶ月間休止した。

 旅行らしきものは、コロナ禍の最中の3月27、28日、孫の高校卒業と大学入学を祝って娘一家4人とジジ・ババの6人で島原・長崎・阿蘇の一泊したことくらいか。少し良心が痛んだが年来の約束だったからと自分にいい解釈で乗り切るしかなかった。阿蘇の宿で鹿児島での患者発生第1号を知って深雑な心境だった。
もう一つは高校同期の歴史愛好仲間4人での日帰り「えびの市への旅」だった。
主に島津義弘に関する史跡を訪ねるのが目的だったが、その他の史跡もたくさん見学することができた。

 久々の緊張の日々をおくったのは国勢調査員をしたおかげである。
8月18日の打ち合わせ会議に始まり実務は9月9日くらいから始まった。
その間、適当に気を抜きながらの作業だったが前にも書いたように久しぶりにテストを受けるような気持ちを持った。紆余曲折しながら今日やっと最終報告書を書き上げた。しかし、これも最終的に指導員さんが合格をだしてくれるかどうか。来週の期末テストを待っているところだ。

 明日は合唱団の会計引継ぎである。
会計は10年前に卒業したが、その後は監査である。会計が変わるのでその立会ということで出かけなければならない。

 明後日24日から1泊で宮崎への歴史旅である。またいつもの4人組の珍道中になるだろう。






Last updated  2020.10.22 21:54:07
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2020.10.20
カテゴリ:鹿児島の歴史


 「若き薩摩の群像」は鹿児島中央駅前広場の正面にある。
1865年19人からなる薩摩の使節団が串木野(現在のいちき串木野市)の海岸から国の掟を破り英国に渡った。その中に長崎の通詞(通訳)・堀孝之と土佐藩脱藩の後薩摩藩士となった高見弥一(弥市)の二人がいた。しかし、その二人については、この群像が1982年に鹿児島市が人口50万人達成記念と建立された時に藩外出身ということで除外されて17人の像のみ建立した。なんという狭量なことをしたのだろうと思ったのは私だけではなくてく今日までくすぶっていたようだ。
何はともあれ、この度、約40年近くの時を経て、二人の像が加えられて19人の全ての像が揃ったことはおめでたいことである。
地元南日本新聞によると、除幕式は9月30日、制作した彫刻家・中村晋也さん(94)=文化勲章受賞者=や二人の子孫ら関係者が集まって開かれたという。
そこでちょっと遅くなったが見に行ってきた。



 下が完成した高見弥一(左)、堀孝之(中央)の像




 薩摩英国使節団は留学などを終えて帰国後、日本の近代化に貢献している。
初代文部大臣 森有礼 
サッポロビール創始者 村橋久成
大阪商工会議初代会頭 五代友厚 などなど日本に有意の人材を送り込んでいる。

 薩摩は何故国禁を犯してまで英国に使節団を送り込んだのか。
それは、文久3年(1863)7月の薩英戦争でイギリス海軍の実力を見せつけられたからだと言われている。薩摩藩は西洋の技術を学びとることが急務と考え藩士たち19名を密航させたものである。






Last updated  2020.10.21 20:17:19
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2020.10.18
カテゴリ:読書




 令和元年、「熱源」で第162回 直木賞受賞の作家・川越宗一氏の講演会が10月17日(土)かごしま県民交流センターで開催された。
鹿児島県出身の作家・海音寺潮五郎記念文化講演会と銘打たれた講演会で毎年著名な作家を招いて開かれるものだ。今年は3密を避けるため定員600名のホールに200名という密のない聴衆だった。
川越氏は1978年鹿児島県錦江町の生まれで大阪育ち。2018年「天地に燦たり」で第25回松本清張賞を受賞し、作家デビュー。2019年、2作目の「熱源」で第10回山田風太郎賞候補、第9回本屋が選ぶ時代小説大賞受賞、第162回直木賞受賞。

 私が今回この講演会に友人たちを誘って参加したのは2019年7月21日に開催された「島津義弘没後400年シンポジウム 戦国島津最前線」を聴講したのがきっかけである。その「第2部 戦国島津はどのように発信されるのか」の中で川越宗一氏の紹介文があり、2018年に朝鮮出兵と琉球出兵を舞台にした歴史小説「天地に燦たり」で松本清張賞を受賞と紹介されていた。そのときはいずれ読もうかと思っていたが、そのままになっていた。ところが2019年の直木賞受賞者が川越氏と知り、作品は「熱源」だという。単純な私は「熱源」よりも先に気になっていた島津氏も関連する「天地に燦たり」を買って読んだのだった。読み始めるとこれまでの時代小説とは違うむつかしさもあったが、途中から一気に引き込まれる面白さがあって、時間をかけずに読破した。そして今回の講演会を知ったというわけだ。

 演題は「わたしの歴史小説の世界」
ナビゲーターとして主催者の鹿児島県立図書館長の原口泉先生が登場し対話という形で進行した。
ご両親が根占町(現在の錦江町)生まれのため鹿児島出身を名乗っているという。
高校は大阪で特に何もしなかったが歴史は好きだった。19歳で京都に移りバンド活動などをしていたが30歳でサラリーマンとなり、サラリーマンを続けながら4,5年後に小説を書き始めた。

 原口館長との会話の中で私が興味を持った部分がたくさんあったので羅列的になるが次に紹介したい。
〇小説を書くときは史実を変えることがある。
〇物語には動機をつくる。
〇半分実在、半分フィクションとし、誇張・脚色でキャラクターをつくるが、歴史とのバランスには留意する。キャラクターには愛着を持っている。
〇世の中には本当に悪い人はいない。正しく、良く生きていこうとする。
〇小説は読者に喜んでもらうエンタテインメントとして書いている。
〇両親が鹿児島弁を使うし、盆暮に錦江町に帰っていたので鹿児島弁のリズムが自分の中に流れている。
〇島津家重臣の樺山久高を中心に朝鮮出兵と琉球侵攻を書いた「天地に燦たり」の意味は、誇りと生き様を書いた人間賛歌ということ。朝鮮出兵を取り上げたのは、世間が避けて通っているので自分は敢えてそこに触れた。
〇人は各々の価値観を持っていて相容れないが、お互いを尊重するために「礼」があるのではないか。
〇宗教については取り上げておられないようだがとの質問に対して「自分が宗教で救われた経験がないので軽々しく書けない」
〇小説を読むと歴史を相当に勉強されておられるようですがという問いかけには「さわりだけの知識で書いているのではとの不安はある」と謙虚な言葉が返ってきた。
〇次の作品は東シナ海、東アジアを舞台に海を通じての交流を書きたいということで、時代設定は「天地に燦たり」の2,30年後のことを構想している。自分は境界の人に興味がある。

 まだまだたくさんの対話がなされたが、全体を通じて感じたことは「天地に燦たり」を読んで思ったスケールの大きな物語をこれからも書いていかれるだろうとの期待が膨らんだことだ。これからが楽しみである。

 逆になったが、最初に触れたように「令和2年 海音寺潮五郎記念文化講演会」ということで例年通り講演の前に海音寺作品の朗読がなされた。
今年は「史伝 西郷隆盛」の中から、西郷と僧・月照が錦江湾に身を投ずる場面の朗読だった。
県立伊集院高等学校放送部の3人の女子生徒による朗読で静かに聞き入ることだった。






Last updated  2020.10.19 16:46:26
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2020.10.16
カテゴリ:鹿児島弁


 先日、地元の南日本新聞に興味をひく記事が掲載された。
皆さん、かごっま弁の「びんた」とは何を指しているかわかりますか。「頭」のことです。
一般的には「ビンタ」は「頬を平手打ちする」こととなっているが、かごっまでは「頭」のことだ。
「きゅはびんたがいてで会社をやすませっくいやはんどかい。あんしごちゃよろしゅ頼んもんで」
(今日は頭が痛いので会社を休ませていただけないでしょうか。あの仕事はよろしくお願いしますので)

 そのかごっま弁の伝承に問題が生じているという今回の記事である。
記事による認知度は次の通りである。
                社会人    中高生    小学生  
「びんた」=「あたま」     98,3%  43,3%  32,2%
「からいも」=「さつまいも」  96,8%  41,8%  32,3%
「とぜんね」=「さびしい」   61,3%  8,5%   18,1%
「ぐらしか」=「かわいそう」  96,3%  34,0%  28,0%

 他県の人から見ると飛んでもない上の4つの言葉でも、私たちの年代同士の話では現在も日常的に使っている。「びんた」「からいも」「ぐらしか」は巾広い年代を含む社会人でいづれも96%以上の認知度があるのに対し「とぜんね」は社会人でも61,3%の認知度である。

 これらの言葉は私たちの年代では100%が知っているのだが、中高生以下になると、ほぼ40%以下の認知度と言っていい。詳細は記事にある通りだが、「保護者が方言を話す」と答えた小学生、中高生は45%、「話さない」は55%だったそうだ。当然のことながら家庭で方言を話す子供の方が理解度が高い結果が出たという。日常の生活に関係が深いということだろう。
方言のイメージについては全体の63%が「良い」と答え「悪い」は5%どまりで好意的には捉えているそうだ。せめてもの救いである。

 伝承活動については「自然の流れのままでいい」が58%で「盛り上がってほしい」の40%を上回ったとのこと。これを見るとやがては衰退し消滅していくことになるのだろうか。寂しい話である。

 それはともかく、若者の方言離れが進む中で高齢者と接する医療・福祉現場では仕事に支障の出るおそれも出てきているとのことだ。私ども高齢者はとかくマイペースで一方的に話すことが多いので若い医師やスタッフとのスムースな会話が出来ず治療にも支障をきたす恐れがあると思われ、その対策として方言リストの作成などの必要性も言われるようになっている。


 最後に思いつくままに「あ行」のかごっま弁を少し紹介します。

アイガテ=ありがたい  アイタヨ=ああ痛い  アバテンネ=たくさん  イッダマシ=たましい
イタッキモンデ=行ってきます  イシタ=汚い  イッペコッペ=あっちこっち  ウケ=多い
オイ=俺     オセ=大人  オヤットサア=お疲れ様






Last updated  2020.10.16 17:53:34
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2020.10.14
カテゴリ:男声合唱


  マスク着用で勢揃い(上の写真は団員のKくんから提供を受けた)




   (上の2枚の写真はリハーサルに向けて準備中のもので当然ながらマスク着用である)
 
 久しぶりの演奏会だった。
しかも、私に大いに縁のある薩摩川内市東郷町の学校である。
私にとって70年ぶりの母校? である。
  
 昭和19年我が家は父の出征によりいわゆる女・子供だけの家庭となり、母の郷里・薩摩郡上東郷村にある母の姉(私にとって伯母)を頼って、その隠居所に疎開した。
そして昭和20年8月15日そこで終戦をむかえる。
そのあとも満州から先の行方も安否もわからない父の帰還をそこで待っていた。
そういう中で私は昭和21年4月1日を迎えて「東郷小学校」に入学した。
同級生には叔母の子供である男の子もいた。
その頃の艱難辛苦は今更だが、そういう中でも田舎にも馴染み貧乏な中にも楽しい思い出もたくさん作ることができた。それは私の生涯の財産になっている。あの時期の伯母や従兄弟達とのつながりは今も生きている。
しかし、ある日遂に父が思いもしなかったフィリッピンで戦死したとの公報が入る。
疎開先では生活の成り立たない我が家は3年生の2学期途中に鹿児島市に帰ることになる。
その後、母も勤めに出る、姉たちも次々に勤めに出ることでどうにか生きてのびることができたのだった。
  
下の写真は休憩時間中の生徒さんたち 私たち演奏者とは10mの間を空けて、マスクを付けて鑑賞



 その東郷小学校が2019年4月1日、東郷中学校が統合されて開校したのが9年制の「薩摩川内市立東郷学園義務教育学校」である。
今回縁があって、そこでスクールコンサートを開催すると決まったのは昨年のことである。
その日から私はワクワクドキドキしながらその日を待っていた。
しかし、思いもしなかったこのコロナ禍である。
果たしてスクールコンサートは開催されるのだろうか。学校側にもいろいろなお考えがあるだろうしどうなるのだろう。2月から8月までは落ち着かない日々が続いた。
9月になって学校から今後よほどのことがない限り予定通り開催しますとの連絡があって、こちらも最終準備に入った。

 そして、今日を迎えたのだが、私たちはいつもの練習時に検温の上で練習場に入りマスクをつけての練習をしているが、今日はバスに乗る前に検温し、マスクを付けて車上の人となる。
約1時間で学校に到着。他時間の発声練習とリハーサル。
演奏開始  今日の曲目は

 団歌「輝く黎明」   ビリーブ    花は咲く    箱根八里
 ウエルナーの「野ばら」を歌っての「男声四部合唱」のハーモニーの解説
 夕焼け小焼け   待ちぼうけ
        休憩
 ピアニストによるピアノ演奏  モーツアルトとベートーベンの「トルコ行進曲」
 「組曲 空飛ぶうさぎ」から3曲  「お母さん」  「手紙」  「空飛ぶうさぎ」
 ふるさと(会場と一緒に)
 東郷学園義務教育学校校歌(会場と一緒に)
 
 以上の演奏中の生徒さんたちの鑑賞態度は素晴らしかった。
最後の校歌は1年生から2年生と低学年がハチキレンばかりの歌声で一番元気がよく生徒さんたちが楽しんでくれたことがわかった。
しかし、一番楽しんだのは、久しぶりの演奏会に燃えた私たちおじさん軍団だったかもしれない。
私にとっては生涯忘れることのできない演奏会になるだろうと思う。
最後になりましたが、校長先生はじめ先生方、生徒の皆さんほんとうにありがとうございました。
 
(下は貸切バス その左側が学校)



 下の3枚の写真は、今は廃校になった、私が入学し、3年生の途中まで通った東郷小学校
建物は建代わり昔の面影はないが、周りの苔むした石垣などはそのままである。(バスの中から写した)





 今も学校の前は田んぼが広がっていた。のどかな田園風景いつまでもと願いながら東郷町をあとにした。







Last updated  2020.10.22 19:35:33
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2020.10.13
カテゴリ:読書


 先日来、初めて読んだり、改めて読んだりした松本清張「傑作短篇集」シリーズ6冊の中から私なりに興味深かったもの、面白かったものを、今後何編か取り上げるつもりだ。

 今日はその(一)の中の第一作目の 或る「小倉日記」伝 について少し書いてみようと思う。
この小説は昭和27年「三田文学」に発表され、第28回芥川賞を受賞した清張の出世作と言われる。

 主人公・田上耕作は実在の人物だと解説の平野謙は言っているが、その田上耕作が森鴎外が旧陸軍第12師団軍医長として在職した小倉時代の足跡を追いかけ原稿としていくことに情熱を傾けている。

 田上耕作は生まれながらに変わった風貌をしていた。歩行も不自由で気の毒な境遇にあった。
しかし、頭脳は明晰で、その肉体と精神のアンバランスが彼に不幸をもたらしたのではないかと思う。
だた彼はそういう境遇に身を委ねるようなことはせず、なんとかそこから這い上がろうとする。
だが、遂にそこから這い上がることができなかったというところに悲劇性を感じる。

 あらすじは、森鴎外によって「てんびんや」という幼児の記憶の由来を学び、そこで森鴎外の文学に親しむようになり遂には、鴎外のそれまで明らかにされていない小倉時代の足跡を調査しようと思い立ち実行する。しかし業半ばにして「てんびんや」の鈴の音を幻聴しながら逝ってしまう。
まさに田上耕作の報われることない生涯であった。
清張作品の底流に流れる暗い運命を示唆するようなものが多いといわれるが、この初期の作品にもその萌芽が見られるように思う。

 上の写真はネットから拝借した北九州市小倉北区鍛冶町にある、「森鴎外旧居」。
鴎外は37歳の時、軍医として小倉に赴任し約3年間滞在する。
その3年間のうち、前半をここで過ごした。

 因みに私は同じ小倉北区のこの鴎外旧居から数百メートルの京町の銀行独身寮に約3年住んだが、現在はビジネスホテルになっている。






Last updated  2020.10.13 16:23:39
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2020.10.11
カテゴリ:鹿児島の歴史


 上町五社(鹿児島五社)詣りに誕生日の1月5日に行くようになって3年になる。参詣順路一番の南方神社(お諏訪さあ)は、私が清水町に住んでいた頃から馴染みの神社である。鹿児島での夏の恒例行事・「六月灯」には毎年夜お詣りに行ったものだ。
今日の写真は今年の私の誕生日の一日遅れの1月6日にお詣りに行った時に写したもものである。

 お詣りしながら境内を動き回っていると境内の一角にたくさんの文字を書いた石碑を見つけた。



 「旧射圃記」とある。「きゅうしゃぼき」と読むらしい。
なお、「射圃」とは「弓道場」のことである。



 帰って調べると鹿児島市の「史跡めぐりガイドブック」に概要次のような記述があった。

応永20年(1413)島津家8代当主・島津久豊が菱刈氏を討とうとして出陣した後、伊集院頼久が清水城を攻めた。清水城が危機に瀕したとき、上町の篠原新右衛門が人々に呼びかけて防ぎ戦った。
激しい戦いで数十人の死者がでた。
久豊は市井の人々が困難に殉じたことを賞め、人々に土地を与え弓のけいこをさせた。その後泰平の日々が続き、弓のけいこをする者もいなくなり、射圃は顧みられなくなった。寛政8年(1796)町役人が中心となり射圃を復活することになった。これらのことが記されている。



 「旧射圃記」については「平田信芳選集 石碑夜話」や「鹿児島の金石文」に詳述されている。
興味のある方には一読をお勧めする。






Last updated  2020.10.11 11:01:56
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