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10月4日当ブログに鹿児島市武にあった島津墓地は佐志島津家のものだろうと書いたが、その後も史料を調べる中で、そうではないという新しい発見があった。
ただ当初から書いている佐志島津家の墓地が笑岳寺墓地にあったろうことはこれまで色々調べて書いてきた通り間違いはない。ただ一般の墓とどういう折り合いをつけていたのかは、まだ調査中である。関係者にたづねたり、メールを入れて問い合わせもしているが、なかなか決定的なことは未だ分っていない。 それでは、武にあった島津墓地はどういう墓だったのか。 それは昭和49年2月20日 武小学校PTA郷土誌刊行委員会発行の「武郷土誌」に詳しい。 それによると、「西鹿児島駅裏口を西方に行き、武岡の麓に寿国寺の跡があるが、そこに島津家の墓地がある。武町の人は『島津どんの墓』といっている」とある。寿国寺跡(明治2年廃仏毀釈により廃寺)の場所を色々調べてみると、武2丁目47番付近となっており、その場所は2011年「武・田上地域ガイドマップ」にも場所が明記されている。その場所というのが常盤トンネルと新幹線トンネルの間にあり、私のこどものころの「島津どんの墓」とも一致した。 同誌によると「島津どんの墓」を49年当時たづねてみたら、「墓の礎石はあったが墓石はなかった。付近の人の話によると、昨年9月ごろ島津興業の手によって移動されたということであった。そこで島津敬久氏に問い合わせたところ、池之上町の玉龍高校裏の福昌寺跡の墓地に改葬したということであった」とある。 更に同誌には島津敬久氏提供の写真もあったが、4基のうち3基のみ写っている。 そして次のような記述がある。 「左から二番目の宝塔には正面に 常照院殿観了日脱大姉 南無多宝如来 右面に 寛文十三丑妃 南無妙法蓮華経 後面に 江戸池上本門寺墓地 墓碑と共に改葬 と刻まれている。 常照院殿は第20代島津綱貴公の御夫人である。松平左兵衛督信平主の娘であって、寛文十三年(1673)正月五日死去され忌日は二月五日と定められていた。東京の池上本門寺から改葬したものである」とあり、この宝塔の台石の漢文のお経か詩も書いてあるが、割愛する。 「一番左側ののには中央に 蓮亭院殿香顔玉溶大姉 と刻まれている。 これは第26代島津斎宣公後の御夫人で丹波加賀守長祥元の妹にあたる方である。文化十二年(1815)巳亥六月二十六日に死去され、忌日は六月二十三日と定めてある」 「一番右側の六角柱の墓には 正面 信証院殿寿国総元持大禅尼 左面 改号 福宝清香姫命 と刻まれている。 この墓は第20代島津綱貴公後の御夫人の墓である。この方は、江田五兵衛国重の娘で幼名を梅ヶ枝といい、のち於豊といった。宝暦六年(1756)丙子正月三十一日死去されている」 「その次、右から二番目の五輪塔には 正面 信解院殿方広浄玄大禅尼 左面 改号 伊都栄樹姫命 と刻まれている。 この方は第二十代島津綱貴公の娘さんにあたられる方である。元禄十一年(1698)一月十七日に生まれ、明和八年(1771)六月八日七十一歳で亡くなられている。この方は伊予の飛騨守定英の奥様になられたが、のち離別され、剃髪して仏門に入られ、信解院と号された」 尚、この「武郷土誌」によって、佐志島津家の墓や我が家の墓のあった「笑岳寺墓地」があった笑岳寺がいつ廃寺になったのかも明らかになった。ここも徹底的に行われたという明治2年の廃仏毀釈によって廃寺になったそうだ。 そうするといつごろ我が家が笑岳寺墓地を手に入れたのか考えてみた。 父方の祖父が明治4年(1871)2月28日に生まれて昭和18年2月28日という誕生日に没しているので、祖父の父親の代に手に入れたものかと思う。この墓は以前当ブログに書いたように昭和50年代初めには区画整理により、現在の武岡墓地を中心に他の墓所に改葬された。 今回いろいろ調べる中で感慨深い想いを持った一つは、自分の3代前の祖父が明治維新の直後に生まれていて、4代前のその父親というのは明治維新のまっただ中を生き抜いた人だったのかなということだ。歴史というのは決して遠い昔のことだけではない。 ますますいろいろ調べることが面白くなってきた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
島津家のことを充実した調査で、それでいてわかりやすい文章、さすが大先輩の力ですね。
(2011.11.25 19:02:58)
つき指さん
> 島津家のことを充実した調査で、それでいてわかりやすい文章、さすが大先輩の力ですね。 ☆ただ薩摩のことや先祖のことを知りたいという好奇心です。 (2011.11.26 08:04:59)
ホント、そうですよね~
私の祖父などは、明治の人ですし、3年前に96歳で亡くなった父も大正2年の生まれでしたから~ 歴史も興味を持って調べれば、感慨深いですよね(^_-)-☆ (2011.11.26 09:26:34)
ガーべラ9475さん
>ホント、そうですよね~ >私の祖父などは、明治の人ですし、3年前に96歳で亡くなった父も大正2年の生まれでしたから~ >歴史も興味を持って調べれば、感慨深いですよね(^_-)-☆ ☆今回いろいろ調べてみて、江戸時代や明治時代が身近に感じられるようになりました。私の父は戦死しましたが、生まれたのは明治36年ですからね。感慨深いものがあります。 (2011.11.26 11:47:21)
私の祖母が明治の生まれで、とってもしっかりとした厳しい人でした。
私も子供の頃は、よく叱られていたものです・・・ 父は、戦争でビルマに行き すぐに帰って来たようですが、かなりいろんな経験をしたらしく、よくその話を聞かされていました。 いま考えると、祖母にも父にも、もっと話を聞いていれば良かったな~と・・いまになっては もう遅いですが・・・ 昔の事を、調べてみると 今の時代のするべき事、どう生きるべきかと言う事、自ずと分かって来るような気もします。 (2011.11.26 14:39:36)
春の陽だまりさん
>私の祖母が明治の生まれで、とってもしっかりとした厳しい人でした。 >私も子供の頃は、よく叱られていたものです・・・ >父は、戦争でビルマに行き すぐに帰って来たようですが、かなりいろんな経験をしたらしく、よくその話を聞かされていました。 >いま考えると、祖母にも父にも、もっと話を聞いていれば良かったな~と・・いまになっては もう遅いですが・・・ >昔の事を、調べてみると 今の時代のするべき事、どう生きるべきかと言う事、自ずと分かって来るような気もします。 ☆私も母や祖母にもっといろいろなことを聞いておけばよかったと今になって思います。 ただ父の一番下の妹(叔母)が93歳で頭も身体も元気なので、近々またいろいろ聞こうと思っています。 こうして考えてみると「明治は遠くなりにけり」というのは嘘ですね。明治はまだ身近にありますよね。 (2011.11.26 15:16:04)
クマタツさん、こんばんは、やまももです。
クマタツさんの記憶にあった「島津どんの墓」のことが『武郷土誌』に「西鹿児島駅裏口を西方に行き、武岡の麓に寿国寺の跡があるが、そこに島津家の墓地がある。武町の人は『島津どんの墓』といっている」とあり、この墓を49年当時に同書の著者が訪れると「墓の礎石はあったが墓石はなかった。付近の人の話によると、昨年9月ごろ島津興業の手によって移動されたということであった。そこで島津敬久氏に問い合わせたところ、池之上町の玉龍高校裏の福昌寺跡の墓地に改葬したということであった」と記しているそうですね。また同書に載せられている島津敬久氏提供の写真から、それらの墓は島津の歴代藩主の御夫人方を祀ったもののようですね。「島津どんの墓」のことが随分判明して来ましたね。 それから、佐志島津家の墓やクマタツさんの家の墓のあった「笑岳寺墓地」が明治2年(1869年)の廃仏毀釈によって廃寺になったことも判明した様で、そこからクマタツさんの父方の祖父(明治4年=1871年生まれ)のお父さんの代に手に入れたものだろうと推測され、「今回いろいろ調べる中で感慨深い想いを持った一つは、自分の3代前の祖父が明治維新の直後に生まれていて、4代前のその父親というのは明治維新のまっただ中を生き抜いた人だったのかなということだ。歴史というのは決して遠い昔のことだけではない」とコメントされていますが、多くの読者の人たちも同様の感慨を持たれたようですね (2011.11.29 20:40:15)
佐志島津家の問題をいつまでも気にしても始まりませんので一応の決着をつけました。でもまだ何か出るかも分りませんね。その時は白旗を掲げて訂正します。
サンデー毎日で暇なはずなのですが、最近は雑事に追われて歴史散歩や読書も進みません。一昨日は高校の同期会があり、昨日はそのために遠くから帰ってきた友人と食事会をしたりで、楽しく過ごしました。この何日かで宝暦治水を書いた杉本苑子薯「孤愁の岸」上下2巻をやっと読了しました。 今週末は結婚式と母の13回が連日あるため、それが済んだら感想など少しまとめてみようと思っています。 (2011.11.29 22:03:55) |