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カテゴリ:我が家の行事
![]() 12年前のあの日、当時59歳でまだ現役だった私は28日夜も妻と病院に行き、いつもの通り母に食事をとらせ、「これでお正月は無事迎えることが出来るだろう」と思い翌日からの正月休みを楽しみに家に帰った。 ところが29日の朝、枕もとの電話が鳴り響き一瞬何が起こったのかと思ったが、すぐ「母に異変が・・・」と思い電話をとった。予感の通り母の異変を知らせる電話だった。 当時奄美大島に転勤でいた娘一家も正月を我が家で過ごすべく帰ってきていたが、それも起こさず妻と二人慌しく病院に車を走らせた。病室に駆け込むとそこには悲しい現実が待っていた。私たちの到着も待たず母は一人で旅立っていたのだ。 あれから12年、今回は12月3日には姪の結婚式もあり、遠く関東・関西から一族が6人帰ってくるので、遠方組に迷惑のかからないようにと思い、お寺さんに「結婚式の翌日に法事をしてもかまいませんか」とお聞きし「我が宗派ではそういうことには一切こだわりません」ということで結婚式と法事を連日で行うことになった。 遠方組を迎えて2日夜は花嫁になる姪の私の妹一家の招待による夕食会が城山観光ホテルの中華料理店 翡翠庁であり、私たち夫婦もこれにも招待された。 3日、12時写真撮影、1時チャペルでの挙式、2時30分から披露宴と目出度い楽しい宴はあっというまに過ぎていった。 4日、天気晴朗。もう13回忌ということもあり、今回は19人の近い身内だけにした。西本願寺別院で法要。そのあと同じお寺内にある叔父と従兄弟の納骨堂に全員で参る。 そこから3台の車に分乗し、昼食のため“いちにいさん”へ移動。遠方組が帰省したらここにはよく案内しているのだが、この日のメニューは初めてだったこともあり、好評で主催者の私と妻はホッとする。19人といっても93歳の叔母から下は小学4年生の我が家の孫まで4代にわたっているので、若い連中も満足するように追加料理なども頼んで皆喜んでくれた。 食事が終わって、再び車に分乗し、我が家の墓地のある“武岡墓地”に参る。こんな大勢が一緒にお参りするのは母の初盆以来のことである。母をはじめご先祖さまが、この賑やかさは何だろうとびっくりしたことだろう。いいお参りが出来て皆嬉しそうでなによりだった。 三度、車に分乗し、桜島フェリー乗り場に向かう。大人組13人が今晩の宿舎、レインボー桜島に行くためだ。私の車だけが桜島に行くことになるので、荷物を全部積み込む。 桟橋で息子や婿殿の車と分かれていざ桜島へ。 ホテルの前から予定していた“サクラジマ アイランドビュー”に乗る。時に15時32分。 これは、鹿児島市交通局が走らせているバスで、今年の10月1日から運行している。 「桜島港~湯之平展望所循環バス」となっており、1日乗車券(500円)を買えば、途中のバス停で自由に乗り降りできて大変便利な代物だ。バスが小型なので、我々13人とあと4,5人で座席は満杯となる。ともあれバスは途中名所に停まりまがら、湯之平展望所へ。 私はここは初めてだったが、いつも行く有村溶岩展望所とは違い、目の前に切り立った山容は迫力満点である。土石流の恐れがあるためか、そのための流れる川も目にすることが出来る。 一日乗車券は買っていたものの、時間もないので1周60分でホテルに入る。 温泉のあと、夕食会となったが、母の法事ということで、先日書いていたエッセイ「大叔父の涙」を挨拶代わりに読んだ。するとあちらこちらからすすり泣きの声が聞こえ読んでいた私も途中つまってしまった。あとでメールやコピーで送ってくれと言われ、その約束をした。 カラオケなどでも盛り上がり、10時まで大騒ぎだった。賑やかなことが好きだった母も喜んでくれて許してくれるだろう。 5日、朝6時からの朝風呂に入るべく6時10分に浴場に向かう。今日もいい天気だ。 8時からレストランでバイキングの朝食を済ませ、再びフェリーで錦江湾を渡り、鹿児島市街地へ。私の車と、タクシー2台に分乗し、空港行きリムジンバスの通る市役所前まで遠方組を送る。昨年の兄弟11人の京都・奈良旅行以来の再会だったが、今度はまた何時会えるのか。3泊4日の楽しい日々はあっと言う間に終わってしまった。 遠方組はまた17回忌に来ると口々にいいながら喜んで帰って行った。 写真はレインボー桜島前に建てられている“大正噴火 九十周年記念碑”である。 ちなみに再来年は百周年にあたる。
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