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カテゴリ:鹿児島の歴史
鹿児島市中央駅の西口を出て山(武岡)に向かって数百メートル歩くと、常盤トンネルがある。その南側の少し上には鹿児島中央駅に向かう新幹線最後のトンネルもある。
この二つのトンネルの周辺は拙ブログに何回か書いた「笑岳寺墓地」と「島津どんの墓」(寿国寺)のあった場所である。 その昔、西口から見て右側(北)に「笑岳寺」、左側(南)に「寿国寺」があったのだ。両寺とも広い敷地だったそうで、この一帯は仏教の荘厳な雰囲気が漂っていたことだろう。そして残念ながら、この二つの寺も明治2年の廃仏毀釈によって廃寺となっている。 私は終戦後疎開先から鹿児島市に戻って小学校3年の途中から中学校2年の途中まで約5年間、このすぐ近くに住み、笑岳寺墓地には我が家の墓もあり、「島津どんの墓」ともども遊び場所でもあった。 そこでこの二つの遊び場所はそもそも何だったのかということに興味を持ち、「笑岳寺」と「寿国寺」について調べてみた。 「笑岳寺」は「宝蔵山笑岳寺」といい、永禄12年(1569)11月伊集院大和守忠朗が創建したもで、伊集院の曹洞宗梅岳寺の末寺であった。伊集院大和守忠朗は薩摩藩主第15代島津貴久のとき国老になった人で、法名を笑岳道観といっていたのに因むものである。本尊は聖観音。開山は梅岳寺の七世月盛呑撮和尚である。この寺は廃仏毀釈によって明治2年11月廃寺となった。その跡は墓地となり「笑岳寺墓地」と称されていたが、昭和48年にこの一帯で区画整理が行われ、墓地は武中学校上の「武岡墓地」に改葬された。 ただ笑岳寺墓地跡の一部が「笑岳寺公園」となりその名を留めている。 「寿国寺」は「元持山寿国寺」といい、享保14年(1729)8月、第21代島津吉貴が茶円迫にあった真言宗の地蔵院(ここに鼻取地蔵があった)をここに移した。そして僧の玄黙に命じて再興し、黄檗宗の寺として元持山寿国寺と改め開山した。 高嶺を後ろに負い前方には広い田野を臨み風致よく、正門には「第一関」と書いた扁額が掲げてあった。即非という人の書である。この門をくぐって上がっていくと、天王殿というのがあって、梅壇林と書いた扁額がかけてあった。これは隠元の書いたものである。 それから石段を数十段登ると仏殿に獅子窟の額がかけられていた。 この寺は,中国の風格を持っていた。寺禄は400石で黄檗宗としては薩摩第一の大刹であった。この寿国寺の下院が田上村の三蔵院にあった。聖観音(木立像)を安置し、嬰児の長育を祈るのに霊験あったといわれ、俗に子安観音と称していた。 ここには、拙ブログ11月25日に書いたように島津家の墓が4基あり、歴代当主の御夫人や息女、側室が葬られていたが、ここも区画整理にともない福昌寺に改葬された。 前記、新幹線トンネルの工事のとき、鹿児島県教育委員会(県立埋蔵文化センター)による発掘が行われたが、寿国寺のものとみられるはん池(はんち)が見つかった。このはん池は当時の様子を伝える絵図によると門前池の一部であろうと考えられている。 この池には内側に浮島(中島)が設けられていて、そこには石像が設置されていたことが伝えられているが、発掘調査でこの石像ではないかと思われる破片が見つかっている。 また池の西側で見つかった井戸跡や柱跡は長寿院のものではないかといわれている。 いずれにしてもこれ等を知ったことで、当時の武岡下の様子が偲ばれ大きなロマンを感じることだった。 参考文献 「常盤町の史跡」昭和14年8月30日発行 発行者 甲西史談会 「武郷土史」 昭和49年2月20日発行 発行者 武小学校郷土誌 刊行委員会 ネット情報 「鹿児島県上野原縄文の森 縄文の風 かごしま考古ガイダンス」
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