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カテゴリ:鹿児島の歴史
薩摩の人間なら誰でもその内容に詳しくはなくても言葉だけは知っている“宝暦治水”“薩摩義士”を題材に書かれた「孤愁の岸」を読んだ。杉本苑子の出世作であり、第四十八回直木賞を受賞した小説である。
私たち鹿児島の人間は宝暦治水については子供のころから「薩摩義士」「木曽川の治水工事」「平田靭負の切腹」(ひらたゆきえ)などという言葉でいつの間にか覚えてしまうほど折に触れて聞いてきた。また城山町の鶴丸城北側にある「薩摩義士碑」にも馴染んできた。 ただ、私は齢(よわい)重ねてこの歳になるまで恥ずかしいことだが、その詳細を知ることはなかった。 このたび、縁あってたまたまこの本のを手にして読むことで初めて全体像を知り大きな感動と感慨を持った。 その感想を一言で言えばこれほどの悲憤慷慨を以って読んだ本は初めてだったということだ。 少なくとも薩摩の血が流れる私には悲しさが先にたって、口惜しさで歯軋りする思いだった。 あまりのことに、先を読み進むのをやめてしまいたいほどの思いに何回も駆られたくらいだ。 それは「薩摩藩、鹿児島城下。七草は過ぎたがまだどこからか琴の音、屠蘇の香など漂ってきそうな、生温かい新春の一宵、幕府からの一通の奉書がもたらされたことから始まった」 その奉書には「濃州、勢州、尾州川々御普請御手伝い仰せつけられ候間、その趣き存ぜらるべく候。もっとも此の節、参府に及ばず候。恐々謹言 宝暦三年十二月二十五日」とあった。 「文中に『美濃、伊勢、尾張の川々』とあるのは、木曽川、長良川、伊尾川{揖斐川}の三巨川と、それらにまじわる枝川をひっくるめて称したものであり・・・」それは濃尾平野の米の取れ高、六十四万五千石の穀倉を守りぬきたい幕府の治水を実現するためのものだった。 「普請手伝いといえば、ほとんどの負担を意味する。大名諸侯の財力をそぐために、幕府が好んで用いた手だった。わけて島津家は外様の雄藩。幕府にとっては寸刻の油断もならぬ海底の竜である。金蔵には金がうなっているともみられていた」しかし島津藩の内実はそれまでの色々な事情で金子にして六十万六千両の借財をかかえていた。 第24代当主 まだ若年でしかも病弱の島津重年と重職たちの協議の結果、諸般の事情に鑑み公儀御手伝い受託を決定した。 普請総奉行に国老で勝手方家老 平田靭負(財政一切)、副奉行に筆頭大目付役 伊集院十蔵久東(人事一切)も決まり、その他用人など主な役に13人、役付き藩士200余名、他にも医師、書役など600余名、総勢1000名の派遣が決定された。 平田は「武士は苦痛はこらえなければならぬ。恥辱はこらえてはならぬ。だが明日からは恥辱にも耐えねばならぬ」という覚悟を披瀝した。それほどの決意でこの御手伝いに臨もうというのだ。 資金調達のための先発隊は、一足早く大阪へ向けて出発。やがて平田らも大阪藩邸に着くと、それまで情報として入手していた総入費10万両から14万両と思っていたものが、江戸家老らがその後、たしかな筋より探し出したところ、総入費は30万両を超えるものだったとの大変なことが分ってきた。平田を先頭に上方の町を金策に走り廻る日々が続く。 平田は都合20日間、上方に滞在のあと美濃に向かう。 普請場は、濃尾の野に広がる川々の全流域に及び、おおよそ工区を4つに分けて、一ノ手、二ノ手、三ノ手、四ノ手となっていた。 御手伝い方本小屋は安八郡大牧村鬼頭家の邸内、伊尾川を見下ろす高台に建て増しされていた。「濃州勢州 尾州川々御普請御手伝 島津薩摩守」としたためられていた。 「とうとうやって来たのだ!濃尾の野に・・・」 「工事に先立って郡代役所から村々へ『心得』として廻された触書の写しだ」と言われた二階堂は紙片を家村に渡した。 それは御手伝い方に対する食事のこと、宿舎のこと、掛売り禁止など、薩摩藩士にとっては内容のひどいものだった。「生肝でも噛むような顔つきで沢庵をかじり、薄い味噌汁をすすりながら、二階堂が言った。『腹は据えてきたんだ。前からは幕吏、うしろからは金貸し、横からは土地の百姓どもにいびられる毎日だろう、と。-なあ及川』」という実情だった。 そういう困難な中、四ノ手で一つの事件が起こる。 二人の藩士が刺しちがえて自刃~自裁という悲劇である。しかし平田総奉行は「腰の物にて怪我」と言えと指示した。以後もこのような自刃に対しても全てそのように言いあらわした。 自刃の原因は幕府側の堤方役人と御手伝い藩士とのぶつかり合いにあったのだが、その背景には、郡代役所上役の資材不正入札、賄賂、百姓同士のいがみあいなど沢山の要因があった。それらに対する御手伝い藩士の身をもっての抗議であった。 彼らの遺志とはなんだったのか。一言で言えば“冗費を防ぐ”という一条であった。 つまりは現在の“村方請負”は内達の倍を要する巨額に達することが分ったことだ。そこから村方請負を“町方請負”に切り換える運動を始める。 運動が少しだが実り、町方請負に切り換えたいと希望していた難場38ヶ所のうち、6ヶ所の水中工事が許可された。 そういう中で、平田は御入用金70万両が予想されていたとの秘密文書を入手する。「謀られた」御手伝いを甘受したことへの悔恨で「かたちを変えて仕掛けられた合戦なのだ」という想いでいっぱいになった。14、5万両との内達が30万両にはねあがったとき、ひそかに覚悟していた平田は、その70万両にもさほど驚愕しなかった。 第一期工事も終わり、普請場は夏の休暇に入ったが、中級以下の幕吏と御手伝い方の人々だけは働いた。いよいよ第二期工事に備えて夏休み中に諸資材を揃えておかなければならない濃尾の野はいっせいに雨季に入った。そして5ヶ月の辛酸のあげくつくろいあげた川筋に決壊場所が続出しはじめた。 そういう中、町方請負への反発から、村々の庄屋、年寄りなどが嫌がらせを始める。 物価の高騰、人が働かない、石寄せ、木寄せがはかがゆかない。 そこにもってきて疫病の発生である。 そこえ藩主 重年が江戸出府の途中激励のため現場を訪れる。重年は憔悴がはげしかったが、病人小屋を見舞う。そして言う。 「桜島の噴煙をのぞむ汝らの故郷・・・、あの鹿児島城下へそろってふたたび帰ってくるのだ、よいか・・・よいか汝ら」(号泣が薄い小屋の羽目板をふるわせ、外にまで洩れた) 平田の費用試算は54、5万両。村方請負をこれまで通り野放しした場合である。 ただ10ヶ所を町方請負に切り換えることができれば、10万両削減でき、44、5万両になる。 (12月19日下巻に続く)
Last updated
2012.01.09 10:17:28
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