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ジージの南からの便り

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2012.02.13
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カテゴリ:鹿児島の城と麓
 2月11日、“歌う仲間のコンサート”会場のすぐ近くに“市来鶴丸城跡”はあった。
正確には,鹿児島県日置市東市来町長里にある。主催団体心づくしの弁当を食べたあと、開演までの時間を使ってデジカメをしっかり握って一人で出かけた。
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 日置市役所支所(旧東市来町役場)の向かい側(北方向)にある。この道を50mほど行くと赤い鳥居の春日神社がある。
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 境内には「鶴丸城址登道」「永山大佐紀念碑」の石碑や「日露戦役紀念碑 海軍大将東郷平八郎書」の石碑がある。
そこを更に進む。
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「聖ザビエルと市来鶴丸城」「聖ザビエルと家老ミゲル」「市来鶴丸城とザビエル」の説明版がある。そこには概要次のことが書いてある。
「16世紀、ヨーロッパから日本に初めて渡来した聖フランシスコ・ザビエルは1549年8月15日鹿児島の祇園州に上陸、伊集院の一宇治城で島津貴久公からキリスト教の布教の許可を得た。ザビエルと市来鶴丸城の関わりは鹿児島で布教していたザビエルの教えを聞いた市来鶴丸城の家老ミゲル(洗礼名、日本名は不明)の案内でザビエルが市来鶴丸城を訪れたことから始まる。城主新納伊勢守康久は快く城内に招き、厚くもてなし城内で布教することを許した。この為、康久の夫人と2人の子をはじめ家臣17人はザビエルの教えに感動し洗礼を受けた」
「11年後の1561年ザビエルの弟子ルイス・アルメイダが貴久公の招きで鹿児島を訪れた時もアルメイダ市来鶴丸城を訪れミゲルとも会いザビエルの教えを説いた。このとき70名が洗礼を受けた」
「この地はその後の日本における布教活動の足がかりになった意義深い地である」
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 上の写真は「薩摩国市来鶴丸城想定復元図」であるが、次のような説明がなされている。
「この鳥瞰図は縄張図をもとに市来城が最大規模に拡張されたと想定される時期であり、天文年間から天正年間(1540年代~1570年代)の市来鶴丸城想定復元図である」
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 この写真は「大日寺の歴代住職の墓」である。この大日寺も説明文によると明治2年の廃仏毀釈により廃寺となっている。
 この墓地を右に見ながら更に進むと、階段状の急坂になり、元気な私でも息があがりそうなくらいである。そしていよいよ本丸のあった「鶴丸城跡」に着いた。
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 ここの説明版によると「市来鶴丸城は、鹿児島を代表する中世城郭でで標高106mの城山を最高地点とするシラス台地にあり、およそ南北に600m、東西に500m、面積20万平方キロメートル、鶴丸城と呼ばれる曲輪群(くるわぐん)と御惣坊城と呼ばれる曲輪群と供に市来城を構成していた。『古城主由来記』等には『13世紀初頭市来家房が最初の城主』と記されている。また他の古文書では『建武4年(1337年)市来院氏系惟守姓市来氏で御家人であった市来時家と島津貞久の子、川上頼久がこの城で合戦した』というのが記載されている。その後この城は15世紀半ごろ守護島津家領となり、15世紀末に島津薩州家領となった。そして天文8年(1539年)島津相州家から戦国大名となった島津忠良・貴久領となったが、16世紀末に使用されなくなり、中世の山城としての役割を終えた」とある。

 この東市来長里には薩摩藩独特の“外城制”による“地頭仮屋”はなかったが、それはこの東市来麓(長里麓)は市来郷の一村であったためであり、地頭仮屋は市来麓にあったそうだ。
それでもこの周辺には、古い石垣や石の門などが残されている。
次はそれらを紹介したい。





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Last updated  2012.02.13 14:32:29
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