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2月12日、日置市の吉利麓の小松墓所や菩提寺、武家門などを見学したら12時を過ぎていた。だが3時までに帰ればコーラスの練習にも間に合う。このまま帰るにはもったいない。
そこで再び南下し、“かめまる館”で野菜など買い、隣接のそばやでうどんをかき込む。 そこから亀丸城跡をめざす。ここの入り口は車で通る度に見ていたので、県道谷山伊作線より中に入る。しかしここからが思ったより距離があった。もっとも山城だから、入り込むのは当然といえば当然である。道を間違ったな?と思うころ看板のある“憩いの森”駐車場に着いた。 車が20台くらい駐車できるスペースがあり、トイレも完備されている。 ここから案内版に従って「山之城跡」へ。 登ってみたが、今はもう山の上の平野(荒地)にすぎない。もちろん曲輪ははっきりした形のものを見ることが出来た。ここを下り駐車場を抜けて少し下るとやっと「亀丸城跡案内版」を見つける。 そこから空掘(からぼり)を通って本丸である亀丸城跡に登る。 登り口から奥に進むと案内板と石碑がある。 では、この伊作城(亀丸城)はどういう城だったのだろうか。 ここは島津家中興の祖ともいわれる島津忠良の城であったことはよく知られているが、フリー百科事典ウィキペディアによると「日置市吹上町中原に残る中世の山城、県指定史跡 本丸は亀丸城と称した。南北朝時代に島津氏の分家伊作家の城として築かれたと考えられる。その頃は『中山城』と呼ばれていた。戦国時代にはここを拠点として島津忠良が南九州統一に繰り出し、戦国大名島津氏雄飛のきっかけとなった城でもあった。元和の『一国一城令』で廃城になった。最盛期には南北750m、東西1050m城域全体の面積は50万平方メートルという広大な規模を誇っていた。亀丸城の他に『山之城』『蔵之城』『花見城』『御仮屋城』と6つの曲輪(くるわ)が設けられていた。この城は島津貴久、忠将、尚久の忠義の3人の息子、そして島津義久、義弘、歳久、家久の島津四兄弟の誕生地であり、記念の石碑が残っている。」と書かれている。 また「島津家おもしろ歴史館」(尚古集成館)によると、「島津忠良は戦国島津氏の事実上の祖」と言っている。 実際、忠良の嫡子・貴久は代14代島津当主勝久の養子になり、第15代当主となって、薩摩を統一している。またそのあと、貴久の嫡子・義久は16代当主、次男義弘は17代当主、そして義弘の3男家久は義久の養子となり、18代当主になっている。 最後の写真は、善久、忠良、忠将、尚久の誕生石である。 亀丸城跡を下りて蔵之城跡へ行く。ここも木々が生い茂り平たい広場になっている。 亀丸城を下りた道路沿いにも土塁が残されている。 帰り道に武家屋敷跡と思われる石柱の門を見かけた。 ここ伊昨麓には立派な武家門など沢山残されているとのことだが、今回は時間がなくなり、そこまで行けなかった。いずれまた訪れたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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