|
カテゴリ:鹿児島の城と麓
![]() 4月30日、蒲生からの帰り道、平松城跡、重富麓を訪ねた。 御仮屋跡は平松城跡の重富小学校になっているが、校庭が本丸だっという。写真に写った現在の校門は県庁舎が鹿児島市の公民館地にあったころの県庁門で払い下げを受けて移設されたものだという。(姶良町郷土誌) 平松城跡の歴史は下の写真の通りであるが、天文23(1554)年島津15代当主・貴久が帖佐渋谷氏を討ち島津義弘を岩剣城に移した。岩剣城は山上が険しかったので、平松城を築き平常はここに居住した。更に慶長5(1600)年、関が原戦後しばらくここに住み、又慶長11(1611)年にもここに住み、翌年加治木に移った。(姶良町郷土誌) ![]() この城は周囲690m、石垣2.5m野面積の石垣である。 ![]() 平松城が出来る前にあった岩剣城は重富小学校の右後方の標高210mの岩剣山頂にあった。麓には岩剣神社がある。 下の写真は岩剣城のあった岩剣山である。 ![]() 岩剣城は祁答院良重が建設したと伝えられるが、築城時期の詳細は不明である。天文年間、祁答院良重は菱刈隆秋、蒲生範清と組んで島津貴久に反旗を翻した。天文23年菱刈・蒲生連合軍が島津側の武将・肝属兼重の居城である加治木城を攻め、貴久は加冶木城を救援するため祁答院良重の住む岩剣城を息子の義久・義弘(当時忠平)・歳久に攻めさせる。そして落城する。(フリー百科事典・ウィキ・ぺディア) この時期の戦いは15代当主島津貴久から16代島津義久が三州(薩摩・大隅・日向)平定の足がかりを作った大きな転換となったものと思う。 麓には麓馬場や武家門がきれいな形で残されている。 ![]() ![]() 最後の写真は重富小学校の校門手前の道路手前にあったこの辺一帯の案内板である。 ![]() この写真では読み取ることは出来ないが、次のことが書いてある。 “重富郷の歴史” 重富郷は再建された越前島津家の領地として帖佐郷の脇元村、平松村、船津村、春花村、触田村(吉田郷内)の五カ村をまとめて元文(1739)年創設されました。重富という郷名は越前島津家ゆかりの越前国重富の地名に因んだとされています。 “越前(重富)島津家の由来” 越前島津家は島津家初代忠久の二男・忠綱を元祖とし、戦国時代の15代忠長の時に朝日山の合戦で敗れ途絶えていました。 約200年後の藩主継豊の弟・忠紀が16代として越前島津家を再興しました。 その他、“外城(とじょう)制度(郷士制度)”の解説や近辺の史跡「平松城跡」「岩剣城跡」「越前(重富)島津家墓地」「招魂石」「脇元浦」「御石山」「帖佐八幡神社の大銀杏」古帖佐焼宇土窯跡」「島津義弘居城館跡石垣」「天福寺跡磨崖仏」「米山薬師」「宮田ヶ岡瓦窯跡」の解説が書いてある。 この日は他の用事もあり、平松城跡と麓を散策しただけで終わってしまった。 いづれゆっくり時間をかけてまわってみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[鹿児島の城と麓] カテゴリの最新記事
|