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2012.12.10
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カテゴリ:鹿児島清水城
IMG_0415.jpg

橋の向こうに見えるのが鹿児島清水城の平城部分に建てられた鹿児島市立清水中学校。
中学校の建物右上の山に山城があったとされる。
現在の清水中学校は、鹿児島清水城⇒大乗院⇒清水中学校という経過をたどる。
大乗院につてもいずれ紹介したい。 

4回目講座も南九州城郭談話会会長で鹿児島国際大学名誉教授の三木靖先生を講師にお迎えして開催された。
講座名は「守護島津氏と鹿児島清水城」である。

 この日はそもそも島津家とはどういう生い立ちを持ち、どういう歩みをしたのかということが主要なテーマである。そしてまた鹿児島清水城は守護島津氏にとってがどのように位置づけられるのかについてのお話である。私もこのところの歴史散歩などから、必要性にも迫られて島津氏の系図や歴代藩主のことなどいくらかは調べているが、こうして体系ずけて聞くのは初めてであり大いに興味を持って講座を聴くことだった。

「島津氏は現在32代目、同一地域で、身分制社会の上位の身分で地域最高の武家として現地で800年以上前から続き、700年以前に島津姓の家柄をたて、300年以前に本格的な家系を確定した。このような武家の長期継続の家系は類例が少なく貴重である。」
その背景についての解説もあったが、かいつまんで言えば「当主が家の継続に努め、分家が本家を尊重し、国人(地元領主)が島津氏の存在を認めたを背景に当主が優秀で、早々に家系が確定し本家と分家の位置が明瞭で幕藩大名として島津本家歴代当主が、戦国期の相州家・伊作家を主体に家系を再編し、守護大名期、幕藩大名期の本家が、基本的に長子相続を維持できたことが幸いした。」ということだ。

「島津家本家は鎌倉・室町の全期間、鹿児島の守護職であり、6代以降は守護大名・戦国大名・幕藩大名となってほぼ同一地域で700年程の期間に30人近い当主が家督を継承した。初代(1)~15代は幕府から守護職に任じられ、管国の治安維持の責任者だった。守護は代官を派遣し(守護代)、国衙の機能を継承した守護所を設けた。島津氏もそうした。」
「島津氏は5代目以降、当主が現地に本拠を移し、6代~14代は守護大名となった。」 

 「初代忠久は島津庄の地頭職に任命された。そして鎌倉将軍に御家人として認められ、庄官の縁もあった島津庄の地頭職に任命されたのである。さらにその庄園が過半を占める薩摩国以下大隅国と日向国、後には越前国の守護にも任ぜられた。本貫地のなかった1代は、島津庄(薩摩国)を本貫地にしようとした。これは将軍の側近で本貫地が無い御家人は将軍(幕府)が倒れれば即地位を失って廃絶となりかねないので、その危険を避けようとしたと思われる。北条氏が実権を握る時流のなか、1203年母方の比企氏が弾圧されると、島津氏も連座し、守護職は抹消された。それでも10年間の働きを評価され1213年薩摩国守護職だけは回復した。そして1333年5代貞久のとき大隅国、日向国の守護職も回復した。」

 「島津氏は1~5代は将軍の側近で鎌倉に常駐していたが、3代のとき、元寇に対処するため北部九州に出向き、北九州で没したとのことで、4,5代は北部九州と鎌倉を行き来した生活で、4代は鎌倉で没したが、5代は鹿児島(島津庄)に定着し初めて鹿児島(木牟礼城といわれる)で没している。」

 「守護大名となった島津氏は守護所を築いたと思われる。可能性があるのは出水平野の西端に近い野田の屋地か国衙のあった川内平野の川内川流域沿いであろう。それらを引き継いで、鎮西探題攻めの恩賞で大隅国、日向国の守護も回復した後、薩摩でも大隅、日向と繋がる鹿児島地域に中核となる守護所を設けようとし、鹿児島東福寺城を攻略し、その後、清水城を築いた。ここは島津氏の本拠となる。島津氏は鹿児島でもそれ以外でも、一族・領主層を被官層にすることには苦労し、主に分家を活用し守護大名となったが、室町末期になるとその維持も難しくなり、14代目は分家からの養子で本家を継続しようとした。そんななか分家伊作家兼相州家当主忠良は息子を15代目とした。15代目となった貴久は、自力で家臣団を組織し、領域を統治し、守護大名にとどまらず戦国大名となった。15代目は鹿児島清水城を廃し、その財産を継承しようとし、清水城のすぐ東に新しい城、鹿児島内城を築いた。それを受けて18代が幕藩大名となった。」

 その後、先生のお話は島津家歴代当主の話に及び、初代 忠久から18代 家久までの簡単な経歴や業績のことなど紹介があった。
その中で鹿児島清水城は7代 元久の1384~1387年から使い始め14代 勝久の1550年まで約160年間にわたり鹿児島本城として使われたことを改めて話された。

 その他「島津氏本拠城の変遷」など沢山の話があったがここでは割愛する。


 






Last updated  2012.12.13 13:56:27
コメント(10) | コメントを書く


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Re:鹿児島清水城ガイド養成講座 第四回(12/10)   flamenco22 さん
こんにちは~
大乗院についても、是非、お聞きしたいです。
清水中学校の事は、よく知ってますが、清水城の事って、知らないことばかりです。
(2012.12.13 15:17:43)

Re:鹿児島清水城ガイド養成講座 第四回(12/10)   悠々愛々 さん
シェ~パ~イ、おばんでがんす。

ガイド養成講座とは、ボラテイアでガイドになる

おつもりですか?

金毘羅さまのガイドさんが、70歳代のお年寄りで、

一日2~3回 8百段の階段を上りながら、観光客に

ガイドするそうで、びっくらこきました。

こちとら、ひ~~ひ~~言いながら、やっと登った

のに。。。。。

(2012.12.13 16:12:08)

Re[1]:鹿児島清水城ガイド養成講座 第四回(12/10)   クマタツ1847 さん
flamenco22さん
>こんにちは~
>大乗院についても、是非、お聞きしたいです。
☆そのうちに必ず書きます。大乗院の遺物も発掘されていますよ。
>清水中学校の事は、よく知ってますが、清水城の事って、知らないことばかりです。
☆先日高校の同期会があって、35人集まりました。その中に清水中卒が10人くらいいましたが、ほとんどが母校がそういう場所だったとは知りませんでした。
で、いまやっていることを説明しましたが、沢山の質問が出されて私も意を強くしました。
これから注目されると思っています。
(2012.12.13 16:52:18)

Re[1]:鹿児島清水城ガイド養成講座 第四回(12/10)   クマタツ1847 さん
悠々愛々さん
>シェ~パ~イ、おばんでがんす。

>ガイド養成講座とは、ボラテイアでガイドになる

>おつもりですか?
☆そのおつもりですが、もうご存知のように相当来ていて、しかも頭脳の方が一段と劣化しており申せば、もう不可能かもわからんと思っておりまするが、何か? (爆)

>金毘羅さまのガイドさんが、70歳代のお年寄りで、

>一日2~3回 8百段の階段を上りながら、観光客に

>ガイドするそうで、びっくらこきました。

>こちとら、ひ~~ひ~~言いながら、やっと登った

>のに。。。。。

☆それはそれはご苦労さまでございました。
70歳台というと私と一緒でござりまするが、ますます自信が出てきましたぞ。いや訂正、自信を無くしたでござりまする。 (2012.12.13 17:03:16)

Re:鹿児島清水城ガイド養成講座 第四回(12/10)   春の陽だまり さん
こんばんは!
大名にとって、家柄・家系を継承し続けて行く事が どれほど大変な事だったか・・・現代社会でも多少はあるのでしょうが、今とは比べ物にならない程 深刻な問題だったんでしょうね。
北部九州と鹿児島、往復するのも気が遠くなる思いがしますね~
昔の人は、本当に大変でした・・・・
講座も、もう4回目なんですね!
クマタツさんも、随分知識が増えた事でしょうネ♪
クマタツさんのガイドで、歴史散策してみたいものです^^
(2012.12.13 20:43:10)

Re:鹿児島清水城ガイド養成講座 第四回(12/10)   ジョー0114 さん
鎌倉や小田原は、関東と九州をつなぐ上で重要な意味合いを持つ地で多くの方が赴任のような形での行き来をしていたようですね。

私の遠い先祖もその中の一人であるのだとか聞いたことがあります。

時代や歴史とは不思議なものですね。
そんな私は、日本を離れて海外暮らし。

人生とは実に不思議なものです。

今日もよろしくお願いします。 (2012.12.13 22:01:29)

Re:鹿児島清水城ガイド養成講座 第四回(12/10)   あんたさんのなんた さん
島津家が鎌倉の御家人からきているとは思いませんでした。
そしてその母方が比企家とは…

鎌倉と北九州を行き来とは、気が遠くなりそうです(笑)
ウチの近くに「かまくらみち」というのがあるのですが、そういった往復に使われていたのですかね。 (2012.12.13 22:17:44)

Re[1]:鹿児島清水城ガイド養成講座 第四回(12/10)   クマタツ1847 さん
春の陽だまりさん
>こんばんは!
>大名にとって、家柄・家系を継承し続けて行く事が どれほど大変な事だったか・・・現代社会でも多少はあるのでしょうが、今とは比べ物にならない程 深刻な問題だったんでしょうね。
☆島津氏はいろいろな問題を乗り越えながら現在まで32代約800年続いています。明治維新までで考えても29代約650年です。気の遠くなるような年月です。
>北部九州と鹿児島、往復するのも気が遠くなる思いがしますね~
>昔の人は、本当に大変でした・・・・
>講座も、もう4回目なんですね!
☆いえいえ、もう7回終わっています。が、気合を入れないとまとめるのが難しいのでついつい先延ばしでアップが遅れています(爆)
>クマタツさんも、随分知識が増えた事でしょうネ♪
>クマタツさんのガイドで、歴史散策してみたいものです^^

☆鹿児島は良いところですよ(自画自賛)
私が国家試験より難しい? ガイド養成講座に合格したら案内しますよ(笑) (2012.12.14 09:48:21)

Re[1]:鹿児島清水城ガイド養成講座 第四回(12/10)   クマタツ1847 さん
ジョー0114さん
>鎌倉や小田原は、関東と九州をつなぐ上で重要な意味合いを持つ地で多くの方が赴任のような形での行き来をしていたようですね。

>私の遠い先祖もその中の一人であるのだとか聞いたことがあります。

>時代や歴史とは不思議なものですね。
>そんな私は、日本を離れて海外暮らし。

>人生とは実に不思議なものです。

>今日もよろしくお願いします。
☆人の運命は分からないものですね。
私も自分の人生は必然だったのか、偶然だったのかいつも考えながら歩いてきました。「偶然が重なれば必然」と思うようになりやっと納得できたような気がします。 (2012.12.14 09:52:39)

Re[1]:鹿児島清水城ガイド養成講座 第四回(12/10)   クマタツ1847 さん
あんたさんのなんたさん
>島津家が鎌倉の御家人からきているとは思いませんでした。
>そしてその母方が比企家とは…
☆島津家の先祖・初代島津忠久は源頼朝の落胤とか後白河天皇のご落胤とかいう説もあるそうですが、近年の研究では鎌倉時代初期の歌人の惟宗広言(これむねひろとき)と丹後局(比企能員の妹)の子供ということのようです。一説には惟宗忠康の子とする説もあります。
>鎌倉と北九州を行き来とは、気が遠くなりそうです(笑)
>ウチの近くに「かまくらみち」というのがあるのですが、そういった往復に使われていたのですかね。
☆歴史は奥が深く、またそれだけにどんどんはまり込んでいきますが、なかなか謎の部分が多いですね。私もあれも知りたいこれも見たいと好奇心いっぱいです。
(2012.12.14 10:14:48)


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