ジージの南からの便り

2013/02/16(土)12:07

昨年と同じ日、2月11日、再び日置市東市来長里地区を歩く

鹿児島の歴史(323)

  昨年2月11日、東市来文化交流センターに呼ばれて、それが好評だったのか今年も「おじさん合唱団」が再び招待され、演奏したことは、先日書いたとおりだ。 昨年も好天に恵まれ、昼食の後散策して市來鶴丸城や周辺のことを2012年2月13日、14日の拙ブログに書いた。今回は市來鶴丸城のことは割愛し、第10代島津立久公墓地跡のことを先ず書くことにする。  この墓地は昭和46年3月25日東市来町の有形文化財として指定を受けている。島津家第10代藩主立久公は、寛正3年(1462)鶴丸城の市來久家がそむいたので、これを討ち市來郷を島津の直轄地とした。そしてここに、法城山竜雲寺を建てた。立久公は文明6年(1474)4月1日在位5年で43歳で死去された。遺体は遺言によって竜雲寺墓地に葬った。文明18年(1486)夫人も死去しここに葬った。このご夫妻の墓は昭和3年鹿児島市の福昌寺墓地に改葬され、現在墓祠のみが残っている。(現地案内板)  この墓地の入り口を入って右側にに珍しい石像を二つ発見。近辺にあった道祖神? をここ に移したものかと思いネットで調べてみたが、正体不明である。もともと鹿児島には道祖神は少ないという記述も多く、はてさて何なのか。道祖神であれば「双体道祖神」なのか。 次に竜雲寺である。もちろん上記の墓地も竜雲寺内にあったのだが、寺院の敷地は広かったことが分かった。というのは、たまたま緋寒桜がきれいだった交流センターの道を隔てた山側のお宅に見に行くと、そこのご主人が出てこられて、明治時代になってご先祖が竜雲寺の土地の一部を買われたのだという広い庭を案内してくださった。 竜雲寺は開山は心岩良信和尚である。この竜雲寺、田布施の常球寺、吉田の津友寺を薩摩曹洞宗の三ヵ寺といい、竜雲寺には末寺が18もあり、由緒ある格式の高い寺であった。 文明10年(1478)竜雲寺の玉洞和尚は中国に7年間留学した尚高の優れた桂庵禅師が肥後に居ることを知り、第11代藩主忠昌公に相談し薩摩に招くことになった。遂に2月21日竜雲寺に入った桂庵禅師と玉洞和尚に意志相通じ、禅学を語り、詩を作ったりした。ここに2か月滞在し鹿児島の田ノ浦の島陰寺に移った。著書に「大学章句」「家法倭点」などがある。永正5年鹿児島伊敷の来福案で82歳で没した。 この寺は明治2年廃仏毀釈でこわされた。敷地には立久公夫妻の墓祠と竜雲寺歴代僧侶の墓が十数期建ち並んでいます。(現地案内板) 案内していただいたお宅には「龍池」と書いた石像が池の中にあり、さらに「長明塔」という燈籠もあり、ここが名だたるお寺であったことをうかがい知れる。  更に歩いていると、石作りの面白いものを見つけて質問してみると、石で作った風呂とのこと。今はもう写真の通り、上には木が生えたりして、当時このまま使っていたのか、五右衛門風呂みたいに木造りの風呂桶でもはめ込んで使っていたのか、うかがい知ることも出来ない。 「石風呂」について調べてみたが、それはサウナみたいなものを石風呂と呼んでいたようで、この風呂跡は単に石造りの風呂と呼ぶべきなのかと思う。  この道沿いの鶴丸小学校の前に「田の神さあ」を発見。だいぶ風化して、しかも草に覆われていて、気の毒な田の神さあであった。

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