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カテゴリ:鹿児島の歴史
私が子供頃住んでいた武町にあった「島津どんの墓」と呼ばれていた島津墓地のことは2011年11月25日の拙ブログに「鹿児島市武にあった島津墓地のこと、再び」というタイトルで書いたほか何回か書いている。 上の写真は「武郷土誌」にあったものを以前コピーしていたので、今回それをデジカメで撮影してアップしたものだ。(武郷土誌によると島津久敬氏提供とある)この写真の墓地は私が小学校の3年生のとき疎開先から鹿児島市に帰ってきて、借りた家の大家さんの隣りの土地にあったので、私たちの遊び場でもあった。しかし、なんと言ってもまだ小さかった60数年前のことで墓の形や数などは全然覚えていなかった。ただ子供のころ遊んだ墓地や山の佇まい当然のことながらそのままで、この写真を見たときには懐かしさがこみあげてきた。残念ながら区画整理の後、九州新幹線のトンネルがこの横を貫き、昔の面影を残すのは裏山(武岡)だけである。 ではこの墓は島津家のどなたの墓だったのか。詳しくは以前の拙ブログに詳しいが、4基のうち3基は、第20代島津家当主で第3代薩摩藩主・島津綱貴公の御夫人、後のご婦人、娘さんの墓標である。(この写真には3基しか写っていないが、武郷土誌には4基の詳細が記述されている) 今回はその武の「島津どんの墓」が区画整理により、島津家の菩提寺である福昌寺跡墓地に移設されたのを追いかけてきたので、書いてみる。 武の島津墓地の写真には3基しか写っていなかったが、今回は4基並んだ全景も写してきた。ただ並びは武の墓地の真逆になっている。 一番右側は八角柱が特徴の前記・島津綱貴公の後のご婦人の信證院殿の墓である。 右から二番目は五輪塔で、綱貴公の娘さん・信解院殿の墓である。 右から三番目の宝塔は同じ綱貴公の御夫人常照院殿の墓である。 これは私が見たところ、宝塔の特徴である円筒形の塔身は新しいものではないかと思った。というのは武郷土誌の記述と表面の文字などが少し変わっていて、しかも新しい塔身に思われた。とすれば、移設の際に風化していたかで、新調されたものだろう。 円筒形の塔身の下の石は武郷土誌にある通りだった。 宝塔の左側にある祠状の墓は島津家26代当主で第9代薩摩藩主・斉宣公の後夫人である蓮亭院殿の墓である。 もちろんこの同じ墓地には綱貴公の墓も、斉宣公の墓もある。 ここに綱貴公の写真をアップする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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