ジージの南からの便り

2014/04/07(月)15:52

春の佐賀県・唐津市呼子を訪ねる(その四)

旅行・ドライブ(180)

 三の丸跡を左に見ながら本丸跡に向かう。 この日は「史跡巡りの歩こう会」があり、ゼッケンをつけた皆さんとあちらこちらで行きかった。  ウィキペディアには概略次のような記述がある。                              中世には松浦党の交易拠点の一つであった。そしてここには松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城・垣添城があったという。豊臣秀吉は大陸への進攻を企図しここを前線基地とすべく大掛かりな築城をおこなった。  ここは波戸岬の上段(標高90mほど)を中心に170,000平方メートルにわたりきずかれた平山城(ひらやまじょう)である。五重天守や御殿が建てられ周囲3km以内に120ヶ所ほどの陣屋がおかれた。城の周囲には城下町が築かれ最盛期には人口10万人を超えるほど繁盛した。 秀吉の死後、大陸侵攻が中止されたため廃城となったと考えられている。 建物は唐津城に移築されたと伝わる。 石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て籠もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。  本丸跡の「名護屋城祉」の碑  現在も城内整備中で玉石の復元もなされていた。  太閤秀吉を詠んだ月斗の句碑案内板  句碑  二の丸の長屋建物跡  天守台跡方面から多門櫓跡を望む  佐賀県立 名護屋城博物館は「名護屋城以前」「歴史の中の名護屋城」「名護屋城以後」「特別史跡 名護屋城跡並びに陣跡」のコーナーに分かれ文書や考古・美術・工芸品などが展示されている。入場無料。  こうして楽しかった二日間はあっという間に終わった。唐津の街に出て、昼食をとり、北九州の妹夫婦と別れてそれぞれ帰途についた。

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