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カテゴリ:鹿児島の歴史
福昌寺跡墓地を訪ねる度に一番先に出迎えてくれるのは上の写真の3基の石造物である。これまでも何なのか気にはなっていたが、島津家墓地は後ろに見える石塀の中にあるので、そこに急ぐために3基について詳しく見ることはなかった。今回よく見ると、先日皇徳寺跡を訪れたときにあった六地蔵塔によく似ている。 上の側面は六角になっており、それぞれに地蔵像が彫られているし、他も六地蔵塔の要件を満たしているようだ。 ウィキペディアによると六地蔵塔は供養塔として街道に建てられた例が多く、九州に集中しているという。灯篭型が多いがそれ以外の形もあるという。 左から3番目には「関山良無居士」とある。調べてみると島津綱久公の法名である。 六地蔵塔の一つを大写ししたもの。 大きな3基の六地蔵塔の右側には小さな六地蔵塔が1基ある。 六地蔵塔を左にしながら石垣に沿って進むと墓地入口に着く。門があるが施錠はしてないので入ることができる。 門を入ると広場になっており、よく整備され桜も満開で美しい佇まいである。 以前拙ブログに書いたが、この福昌寺跡墓地には島津家歴代当主6代から28代斉彬公までの墓標とその縁者の墓標がある。 下の写真は25代当主にして8代藩主・重豪公(しげひで)の墓標であるが山川石でつくられている。 山川石は現在の指宿市山川町の福元周辺でしか産出されない独特の黄色の石である。のこぎりで切れるほだ柔らかいが風化に強いため石垣や墓石として用いられた。島津家では歴代当主夫妻の墓石に使用した特別な石材であった。 六地蔵塔の一つである法名「関山良無居士」綱久公夫妻の墓標・宝筐印塔も墓地内にあった。 綱久公は当主にも藩主にもならないまま42歳で病没されたようだが、当主並みの扱いがされている。 それは父である19代当主・光久公の嫡子で、薩摩藩の世子(次期藩主)に就任するはずだったからだと思われる。 病没のため、綱久公の嫡男・綱貴公が20代当主になっている。 よく見ているともう一つ発見があった。 それは、正面にあるのは当然のことながら法名の関山良無居士なのだが・・・。 左側面の改号「廣足豊雲根命」とある。これは明治政府の廃仏毀釈によるものと思われる。他の墓標も改号が書き込まれていた。ここまで徹底したのかと改めて驚くことだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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