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カテゴリ:鹿児島の歴史
島津義久公の墓所でもある金剛寺跡に「丁丑戦亡之塚」(ていちゅう)という珍しい説明版を見つけた。読んでみると「西南の役」(西南戦争)にこの地方から出征し、戦没者となった御霊を慰霊したものという。西南戦争を丁丑戦と呼んでいたというのは寡聞にして初めて知ることであった。西南戦争が起こったのが明治10年(1877)で、この年が干支の丁丑(ひのとうし、ていちゅう)に当たることからそう呼ばれているようだ。 西南戦争についてはこれまでいくらか当ブログでも書いているので今回は割愛する。 大きな碑が建てられている。 西南戦争終結後、3年後の明治13年に建てられている。 西南戦争の10年前にあった戊辰戦争戦没者の慰霊碑もある。 時代はくだり、日露戦争戦没者慰霊碑 ここで亀趺(キフ)を見つけた。 しかし、これまで実際に見たり、写真で見たものにはなかった亀趺の上に乗る部分が龍である。これは「亀趺碑」と呼ぶことが出来るのか。つくられた時代も慰霊碑と同じ頃とすれば、明治13年頃である。 この亀と龍の関係について調べてみると、中国では皇帝を龍とみなし、その下のものを亀としたというよなこともあるようだが、ここではどういう意図でこれがつくられたのか、定かではない。 鹿児島のみならず、熊本の田原坂や宮崎など各地に西南戦争にまつわる史跡や慰霊碑は多く残されている。 鹿児島市内にも祇園の洲公園に官軍戦死者慰霊碑が、建部神社の境内には「招魂塚」として武村出身の西郷隆盛など9名の戦没者の石碑がある。(詳細は当ブログ2011、11,16) ほかにもたくさんあると思われるので、少しづつ調べてみたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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