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カテゴリ:島津一族
日置市吹上町永吉の「南郷城跡」を訪ねた。 上の説明版にあるように、永吉は日置南郷(へきなんごう)と呼ばれ、郡司として桑波田氏が在り、南郷城はその居城であった。(説明版は拡大して読むことができます) その桑波田一族は、天文2年(1533)桑波田孫六の時代、島津実久に組し、南郷城合戦によって島津忠良公(日新公)に敗れ、北薩へ逃れた。以後日置南郷は伊作島津氏(島津宗家)の治所となり、「永吉」と改められ、地頭時代を経て永吉島津氏の私領となって幕末まで続いた。(永吉地区史蹟マップによる) この説明版から右の城跡に向かった。 しばらく歩いて山道を進んだが、昨年の台風により、木や竹が倒れていて、雨の後でもあり、この日はそれ以上の先まで進むことを諦めた。 最近の本〇どんの情報によると、「永吉南郷会」の皆さんの補修によって台風で通れなくなった城跡への道は通れるようになっているとのことで嬉しいことだ、次回訪問時には是非登ってみたい。 南郷城跡の雰囲気だけを味わった後、永吉麓にある「六地蔵塔」を訪ねた。 ここの説明版によると、天文2年(1533)3月、第一回南郷城合戦の折、日新公は南郷城の城将であった桑波田河内守桑波田式部少輔等の首実検を行い、味方の戦死者とともにこの地に葬ったとある。六地蔵塔はその際丁重に回向した供養塔であると伝えられている。またこの頃、日新公は敵味方の戦死者の慰霊と戦で迷惑をかけた農民等を慰めるため夏祭りを行った。これが六月灯(鹿児島県の各神社で夏に開催される夏祭り)の始まりと言われているという。 尚、ブロ友の「中期高齢者である田舎人のタワゴト」の「本〇どん」によると、島津家第32代当主・島津修久様の調べによると、島津本家が全国に建立した六地蔵塔は13ヶ所にあるという。 先日「本〇どん」とお会いしたとき、平成25年(2013)この六地蔵塔で供養祭があった記事をいただいてきたので、アップした。(拡大して読むことができます) 今日の中で、島津実久に組みした桑波田一族と島津忠良(日新公)が戦ったと書いたが、これは島津一族同士の戦いであり、奇異に感じられた方もおられると思う。これには、複雑な背景もあるので、またいずれ書く事にする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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