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ジージの南からの便り

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2016.04.04
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カテゴリ:島津一族
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 日置市指定有形文化財(指定は平成17年)の少林山梅天寺を訪ねた。(説明版は拡大して読むことができます)

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 坊主墓や石造物が並ぶ

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 梅天長策大禅伯(永吉島津家初代領主島津家久公の墓)

島津家久公(中務大輔)(天文16年、1547~天正15年、1587)のことについては拙ブログでも簡単に何回か触れているが、どういう人物・人生だったのか少し書いてみる。

 旧く室町時代~戦国時代を通じて島津氏と抗争の絶えなかった伊東氏が元亀3年(1572)「木崎原の戦い」で島津義弘に敗れた日向の伊藤義祐は所領を維持することが難しくなって大友宗麟(1530~1587)を頼って豊後に逃れた。そのため佐土原城は薩摩島津氏の手に落ちた。

 天正6年(1578)伊東義祐に頼られた大友宗麟は九州を制覇する勢いだった島津義久の軍と戦う。これが「耳川の戦い」である。しかし、百選練磨の島津軍の戦術にはまり大敗を喫してしまう。天正12年(1584)には「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)に参戦し有馬晴信・島津家久軍は龍造寺隆信軍に勝利し龍造寺隆信傘下の国人たちが一気に島津方についてしまう。薩摩島津氏は九州全域をほぼ手中にする。そこで大友氏は豊臣秀吉に頼る。そこから豊臣秀吉の島津討伐が始まる。天正14年(1586)九州の島津攻めを決断した豊臣秀吉は長宗我部元親・信親親子を始め武将たちが豊後国に到着したのち、いろいろな経過を経ていよいよ「戸次川の戦い」(へつぎかわのたたかい)が始まる。そこで島津家久率いる島津軍は「釣り野伏せ」戦法を用い勝利し、秀吉勢は長宗我部信親など武将を始め1000人が戦死する。そこから秀吉の本格的な九州攻めが始まり、秀吉は弟・秀長を日向口から、自らは肥後口から攻め入った。家久は日向口からの20万の秀長軍に抗することはできず降伏を申し出る。

 秀吉もこの申し出を受け入れ所領は安堵されるが、家久は病死、その所領は嫡男・豊久に引き継がれた。佐土原を受け継いだ豊久はその後の秀吉の朝鮮出兵では叔父の島津義弘と共に約2000名の兵を引き連れて朝鮮に渡り、幾多の戦で活躍する。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは伯父の義弘に従い約1000名の兵と共に西軍の立場をとったが、自らは出陣せず、静観をし、勝敗を見届けたのちに東軍陣地を突破、途中義弘の逃亡を助けるため豊久は自ら犠牲となる。

 日向国美々津に帰還した義弘に従っていた軍勢はわずかに80数名を数えるだけだったという。
そいうことからいわゆる前期佐土原島津家と呼ばれる家久と豊久の墓地は佐土原の天昌寺にもあるという。

 関ヶ原の戦いで西軍に依ったと見られた佐土原藩は徳川家康により所領を没収され、豊久の家臣らは義弘を頼って上記・永吉に領地を授かり、改めて永吉島津家を再興する。家臣らは永吉にも同名の天昌寺を建立し豊久の墓を設け併せて歴代永吉島津氏の当主と奥方の菩提寺とした。しかし廃仏毀釈により佐土原と同様廃寺となり、墓だけが残されている。ここを守っておられるのが現地の永吉南郷会である。前永吉南郷会の会長・本〇どんに話を伺ったところ、永吉島津家の子孫は関東にお住まいで地元とも連絡をとっておれれるとのことだ。

 島津家久、豊久親子については逸話も多く、とても一回では書ききれないので、本〇どんのご助言もいただきながら折に触れて今後も書き続ける所存である。

 島津家久公の墓地・梅天寺跡とその嫡男豊久の墓地・天昌寺跡は同じ永吉の集落の中にあるので、同時に訪ねることをお勧めしたい。


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 ここを訪ねたのにはもう一つ理由があった。それはブロ友・rinzoさんのブログ「薩摩旧跡巡礼」で紹介されていた「五輪塔双式板碑」を見たかったのだ。それが下の写真である。この板碑が墓標なのか逆修塔なのか由来を知る手掛かりもないが見ることができて嬉しかった。rinzoさんまたご教示ください。ありがとうございました。

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Last updated  2019.10.23 20:55:07
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