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ジージの南からの便り

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2018.09.04
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カテゴリ:西郷隆盛


 村田 新八(むらたしんぱち) (1836~1877 明治10年9月24日没 享年42歳)

 高橋八郎の第3子として生まれ、村田十蔵の養子となる。文久2年(1862)寺田屋騒動に連座して西郷は徳之島(のち沖永良部島)、村田は喜界島へ流罪となる。復帰後、王政復古に尽力した。また新選組と剣を交えた。維新後は、鹿児島常備隊の砲兵長。明治4年宮内大丞となり、全権岩倉具視一行と欧米を視察し、明治7年に帰国した。勝海舟は村田を「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり」と賞賛したが西郷に従って西南戦争の挙兵に加わったため政府を驚かせたという。
 
 桐野、篠原、村田の3人は大西郷の三将とも言われるくらいである。西郷は「村田新八は知・仁・勇の三徳を兼備した士。諸君、この人を模範にせよ」と言っていた。西郷とは刎頚の交わりだった。

 また美術を愛し、和歌や漢詩もつくる才人だった。
音楽も好きで、家にいるときはいつも風琴(アコーデオンやコンサーティーナ)を手放さなかったという。西南戦争従軍中も常に持ち歩いたという説もあるようだ。

 西郷とは刎頚の友で、西郷が倒れたあと、「ああ、天なり」と長嘆し、涙が下る間もなく、銃弾があたり、立ったまま腹を切ったという。
西南戦争では薩軍2番大隊長を務めた。


 次は永山盛弘(弥一郎)の墓


 永山 盛弘(弥一郎)(ながやまもりひろ やいちろう)
  天保9年(1838)~明治10年(1877)没 享年40歳

 永山休悦の第1子として薩摩国鹿児島郡荒田村(現在の上荒田町)に生まれる。
若くして勤王の志を抱き奔走した。文久2年(1862)有馬新七らに従って京都の上り挙兵に加担して失敗(寺田屋騒動)したが、年少であったため処罰を免れる。

 明治2年(1869)に鹿児島常備隊がつくられ大隊の教導となった。明治4年(1871)藩が御親兵を派遣した際には、西郷に従って上京し、陸軍少佐に任じられた。しかし、ロシアの東方進出を憂えた弥一郎は、志願して開拓使出仕に応じ、北海道に趣いた。明治6年(1873)征韓論敗れたと言われる西郷が下野し、近衛の将校が大挙して退職した時も、彼らと行動をともにすることはなかった。
明治8年(1875)軍に復帰して陸軍少佐に任じられ、屯田兵を率いたが、政府が樺太・千島交換条約を締結したことに憤慨して、職を辞して鹿児島に帰った。永山は政府高官を無能とはせず、大久保利通や川路利良らに対し一定の評価をし、私学校に与しなかった。

 明治10年(1877)中原尚雄の西郷暗殺計画を聞いた会議に同席し、憤慨したものの出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では大軍を率いての上京には反対の態度をとる。しかし桐野利秋の熱心な説得で漸く同意した。弥一郎は3番大隊長となって、10箇小隊2000名を率いた。
4月12日熊本の緑川から川尻を攻略するため進撃を開始したが、砲弾の破片を浴びて足腰に重賞を負い熊本の二本木本営に護送された。しかし、翌13日、苦戦を聞いて人力車に乗って御船に出陣、川路少将の別動第3旅団との戦いの指揮をとった。そして矢尽き刀折れるまで戦い、四面楚歌の状況に陥った。
そこで近くの農家の老婆に数百円を渡し家を買い取り、自ら火を付け自刃した。撤退を勧めにきた税所左一郎に介錯を頼んだとも言われる。
 



 参考資料 「かんまち本」その二  ウィキペディア 
      「激闘田原坂秘録」肥後評論社





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Last updated  2018.09.04 17:33:46
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