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カテゴリ:鹿児島の歴史
次に訪れたのは、永野金山と山ヶ野金山。 山ヶ野金山のことは、次回に譲るとして今回は永野金山。さつま町長野と霧島市横川町山ヶ野にまたがる地にあったこの二つの金山はは江戸時代には長野金山と記され、山ヶ野金山とも言ったという。つまり両金山は区別されておらず、一体のものだった。明確に呼称が別れたのは明治4年(1871)のことで現在の霧島市横川町溝辺の方を「山ヶ野金山」と呼ぶようになる。 金山の歴史は寛永17年(1640)島津久通(宮之城領主)が領内の佐志村の川中から砂金が発見されたのを機に内山与右衛門らに命じて上流の山谷を探鉱させた結果発見したのが始まりである。その後も金鉱石や近鉱脈が発見され、藩領内外から2万人もの山師や金堀鉱夫が集まったという。 ここは「永野金山」の三番滝精錬所跡。 右側には抗口がある。 建物が見えるあたりには、鉱業館があった。 今に残る「九郎太郎橋跡」の橋脚。 山の中にこんな立派な橋脚がと圧倒される。 金の発見者・内山与右衛門の石碑 坑夫専用風呂跡。 説明版にあるように坑内で汚れる仕事をして上がってきた坑夫への入浴というサービスのためではなく坑内から金を持ち出してきていないか調べるための入浴施設であった。 胡麻目坑道入口。ここにも島津家の丸に十の字が見える。 明治時代になると山ヶ野・永野金山は公爵島津家の所有となり、金山経営は鉱業館長をトップに近代化が図られた。中でも7代鉱業館長・五代龍作(五代友厚の養子)と8代鉱業館長・西郷菊次郎(西郷隆盛の長子)のときに永野金山の近代化が進んだという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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NHKテレビの 西郷ドンにも出てくる 西郷菊次郎が 長野金山 八代目館長だったのですね。
(2018.11.13 20:33:16)
橋脚立派ですね。
それから、風呂跡まで残ってるのですね! 鉱山跡とその周辺景観というのは似てるのでしょうか、うちの比較的近場では、兵庫県猪名川町に多田銀銅山があり、やはり雰囲気が少し似てます♪ (2018.11.13 22:38:39)
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