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カテゴリ:鹿児島の歴史
11月30日(金)「かんまち維新まちづくりプロジェクト」主催の「上町の馬場、小路めぐり」が久しぶりに開催された。私はいつもの同期生3人組で参加した。 鹿児島市内には馬場にちなんだ地名があり、現在も電車やバスの停留所の名前として残っている。 昔から馬に乗って通れる程の大きな道路だったことを意味しているという。なお、鹿児島の場合は武士が住む場所とその前の通りの意味もある。また道路の名前の由来はそこに住んだいた武士や特徴のある人物や職業に由来するものが多い。また人が往来できる程の道は小路と呼んでいた。 鹿児島では「馬場」は「ばぁ」、「小路」は「すっ」という。例えば電停もある「高見馬場」は「たかんばぁ」と言うが如くである。「かごっま弁」の面目躍如というところか。(自画自賛) 下の写真は南洲神社を背に遠くに内城跡(現在は大龍小学校)の前を通る大龍寺馬場(南州門前通)を望む。 南洲神社への階段登り口。 上から車で行けば、広い駐車場もあり。 右に南洲神社への階段があり、その左側に「般若院小路」(はんにゃいんすっ)の銘碑がある。 現在の般若院小路 般若院小路を進んで行くと右側に般若院跡が見える。 般若院の本山は、京都醍醐の三宝院で「当山派山伏薩隅袈裟頭」という寺だった。神変大菩薩を本尊とし、真言宗系の山伏寺としては、藩内一の300石を領していた。般若院跡の石垣は当時のまま残されている。 「立野(竪野)馬場」銘碑。 竪野系薩摩焼が焼かれた場所である。ここで作られたとされる最高級品の白薩摩は、江戸の薩摩藩上屋敷跡でしか確認されておらず、鹿児島城(鶴丸城)でも発見されておらず、将軍家等の外交行事など特に重要な宴席で使用された。私が子供の頃は、長田町、竪馬場、柳町の電停があった。 昔の電車通りだった、竪野馬場。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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