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カテゴリ:島津一族
2018年の鹿児島は「明治維新150年」と「西郷どん」で一年中大騒ぎだった。 その余韻も冷めやらぬままで、私も西郷隆盛関連で書くべきブログネタも幾つか残っている。 その中で明けて2019年は、あの「関ヶ原の退き口」で有名な島津家第17代当主・島津義弘の没後400年だという。 島津家の菩提寺・福昌寺(鹿児島市池ノ上町)にある義弘の墓標。 1月1日の南日本新聞に掲載された「島津義弘 没後四百年」の記事。 義弘のことについては、これまでにも拙ブログで何回か取り上げてきたが、本紙記事によると、これから1年を通して連載でたどるとある。この機会に私もこの1年改めて義弘のことも調べてみたい。 本文には「島津の退き口」(しまづののきぐち)、関ヶ原の敵中突破を決断した場面を紹介する、とあり次のような記述がある。「もし薩洲勢が5千人いたならば、この合戦は勝つものを」慶長5年(1600)9月15日、美濃国・関ヶ原。西軍の島津義弘は、味方の劣勢を悟り、思わず3度つぶやいた。幾多の戦場をくぐり抜けてきた”老将゛義弘の本音だった。数え66歳。旗下の兵力はわずか1500人。太守・義久の意向もあり本隊は来ず、配下の有志らが日々国元から駆けつけるありさまだった。60万石を超す島津家としては、あまりに不相応だった。 当初,義弘は家康の要請で伏見城に入る予定だったが、城将の鳥居忠元に拒絶され断念、やむなく西軍に加勢した。決戦は東軍の井伊直政勢が西軍の宇喜多秀家勢に発泡し戦端が開かれた。当初は西軍が優勢だったが、正午過ぎから石田三成、宇喜多秀家、小西行長ら西軍主力が突き崩されていった。そういう中で豊臣家一門であり1万5千の大軍を率いてきた小早川秀秋が寝返り、大勢は決定的となった。 出撃の機会をうかがっていた島津勢は、戦機を完全に逸した。混乱の中、島津の陣には逃げる宇喜多勢がなだれ込んだ。眼前に数万の敵兵が入り乱れ、背後には険しい伊吹山がそびえ、武功にはやる東軍が、逃げる敗残兵をなぶるように山裾へと追い込んでいた。もはや命は助かるまいー。百戦錬磨の老将・義弘の冷静な分析だった。それを甥の豊久が必死にいさめた。幸い、敵兵は島津の両脇にある石田や宇喜多の陣をめがけて殺到していた。「では、その猛勢の中へかかり入れよ(かかれ)」と下知を発した。 生きて薩摩へ帰る、考え得る最良の手だった。前代未聞の敵中突破が始まった。(ここまで南日本新聞) これからの南日本新聞でどのような構成でまたどれくらいのボリュウムで「島津義弘」のことを取り上げて連載記事としていくのか想像もつかないが、私はこれまでの持ち合わせの資料などから分かる範囲で書けたらいいなと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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クマタツさん、こんばんは~(*^-^*)
鹿児島弁、めちゃ、嬉しいです。 ”がよ”も、そうですが、家の娘、”がね~”をよく使います。 鹿児島で育った訳じゃないのに、不思議です~笑 ”島津義弘”の墓標は、私も、1度行ってみたいと思ってます。 クマタツさん、今日は、五社詣りって、すごいですね。 歩数にも、ビックリです~ クマタツさんは、御朱印は、集めていらっしゃいますか? (2019.01.05 20:59:20)
こんばんは。
八王子は今日は暖か、他の日が寒すぎが正しいかもしれません。 同じ東京でも西の外れ、寒いのも暑いのも有名で雪が降れば駅前に取材が来るほどです。 熊本は若い時一度行ったきり、 もうこの年になっては長い旅はなかなか腰が上がりません。 今年は病気をして30年初めての手術が平成元年5月8日でした、 まだ元気ですが常に病気が付きまとっています。 また熊本、長崎行きたいです。 ありがとうございました。 (2019.01.05 21:21:51)
島津義弘 没後400年ですか。60万石の殿様ですね。西軍 東軍に分かれて 闘ったのですね。
これからの世界も 戦争が起こらないとはいえませんが 平和が続いて欲しいですね。 (2019.01.05 21:26:02)
クマタツ1847さんへ
おはようございます 島津義弘の史跡が見られるのですね 天龍寺早駆けで訪れられたのですね 嵐山で保津川下りのの後 出来れば由来を知ってゆっくり観たいものです (2019.01.06 09:16:22)
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