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ジージの南からの便り

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2019.09.18
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カテゴリ:島津一族

 
 上の写真は鹿児島県日置市の伊集院駅前にある島津義弘像
島津義弘は天文4年(1535)島津貴久(島津家第15代当主)の次男として誕生した。
長男・義久、次男・義弘、三男・歳久、四男・家久の島津四兄弟として有名である。
兄の義久に従い九州各地を転戦し、島津家のために力を尽くした。しかし、天正15年(1587)に九州制覇の戦いで豊臣秀吉に敗れると義弘、義久の関係は微妙なものとなる。
秀吉は、義弘に大隅一国などを安堵し、さらに義弘の長男・久保を島津家の家督に任ずるなど厚遇する。翌天正16年に義弘が上洛すると、秀吉は豊臣姓と羽柴氏を与えた。一方の義久には羽柴氏しか与えなかった。そういうことから、義久は反豊臣になっていった。

 文禄元年(1592)に文録の役が勃発すると、義弘が病気の兄・義久に代わって朝鮮半島に出兵する。しかし、島津領国では、肥前の名護屋城の普請、出陣による軍事負担が重荷となり、「日本一の大遅陣」といわれる大失態を演じてしまう。以後も財政逼迫もあり義弘の活躍は目立たず、翌年には長男の久保が病死するという悲劇に見舞われる。

 慶長2年(1597)慶長の役が勃発すると、義弘は漆川梁海戦(チルチョンリャン)で敵将を討ち取るなど、華々しい活躍を見せた。なかでも翌慶長3年の戦いで大勝利をおさめた。そのことで敵から「鬼島津」と恐れられた。

 慶長5年(1600)関ヶ原合戦が起こると、義弘は軍勢を率いて西軍に与した。兄の義久は出陣に消極的であったため、軍勢は少なかった。同年9月15日、関ヶ原合戦が始まると、早々に西軍は敗勢が濃くなった。義弘は敵陣を突破し、薩摩へ帰還しようとする(島津の退き口)。途中味方の兵が犠牲となり義弘を逃そうとした。義弘は薩摩へ無事に戻るが、300名いた兵は60名になっていた。

 戦後、義弘の行動は独断専行とされたが、島津家の本領は安堵、義弘に咎めはなかった。義弘は慶長12年に加治木に移り住み、元和5年(1619)に84歳で亡くなった。

 下の写真は同じ伊集院にある法智山妙円寺



 2019年9月16日に南日本新聞に掲載された新聞記事
当ブログでも何回か取り上げてきたように今年は島津義弘没後400年である。
そこで、関ヶ原の戦いが旧暦9月15日にあったのにちなみ9月15日に没後400年大遠忌法要が営まれたという。





                「歴史人 薩摩島津家 最強の真実」を参考とした。





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Last updated  2019.10.08 19:10:20
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