10月1日(火) 第11回 歴史作家 桐野作人講演会
島津義弘の闘い ~没後400年を迎えて~
が開催された。私はKくんと一緒に当日申し込みで参加することができた。
その時の配布資料の初めの部分に下記のような紹介がある。
ー義弘の波乱に満ちたナンバー2の生涯ー
今年は島津義弘(忠平、義珎、維新、1535~1619)の没後400年にあたります。ご存知のとおり、義弘は島津日新齊の孫、守護貴久の二男であり、島津四兄弟のなかでもっとも有名な人物です。
義弘とはどのような人物だったのかを表現するのは難しいですが、個人的には「島津家の前線司令官」であり、「永遠のNO.2」でありつつ、「兄義久との共同統治者(名代)」だったと考えています。(中略)
義弘の武勇は広く知られていたのは間違いありません。本日は、義弘の生涯のなかでも、「島津家の前線司令官」としての面、家督問題を中心に、付論として愛妻家としての義弘についても紹介します。
というようなことで始まった。
1、義弘の居城変遷と最前線の守り
ここでは、義弘が最前線に配置される前線指揮官という役割だったことから、居城の変遷の説明があり、「平松城」に始まり「加治木感」に至るまでの8つの城で前線に立ったことが紹介された。
2、「特別な舎弟/脇之惣領」から「名代」へ
一般に義弘は兄義久から家督を相続して、島津氏17代当主になったと言われている。しかし、研究上はかなり以前からそれは否定されており、義弘は島津氏当主にはなっていないと結論づけられている。実際には義久の三女亀寿の婿であった久保(義弘二男)に家督を譲ろうとした。しかし、久保は朝鮮で病没してしまう。そのため、亀寿が久保の弟・忠恒(のちの家久)と再婚して紆余曲折はあったものの、忠恒が義久の家督を継いだのだった。
3、島津家中の「鬮取」ー神慮伺いの主体の変遷ー
「鬮取」は(相州)島津氏の家法。歴代当主が使者をしかるべき神社に派遣して鬮取を挙行。義弘も義久の「名代」となった天正14年(1586)から鬮取を行う。鬮取の目的は主に出陣や合戦の日取りや方角を神慮で決めることだったが、その後、家督相続などでも使用される。
4、朝鮮陣と関ヶ原合戦ー宰相成と島津の退き口ー
義弘は島津家中では家督を得なかったが、豊臣政権からは島津氏の代表として遇せられた。それは多分に義久が降伏時に出家したことと関係がありそうである。それと同時に島津氏の分断や弱体化を狙う意図もあったかもしれない。ともあれ、豊臣政権は義弘を厚遇した。秀吉の「際限なき軍役」に付き合わされることになったのである。いわゆる文禄・慶長の役への動員である。この従軍には太守義久が病気(仮病?)のため、義弘が出陣することになったが、家中の非協力に遭い散々な首途となり「日本一の大遅陣」と嘆くほどだった。そんな中でも「泗川の戦い」では5000人足らずの兵で明・朝鮮連合軍数万を撃破する大勝利で、一躍、義弘の武名を高めることになった。
関ヶ原の戦いもまた、国許からの加勢を得られない苦しい戦いとなったが、予想外の前進退却戦によって無事、戦場からの離脱に成功した。のちに「島津の退き口」として称揚されることになった。
付論 義弘の逸話など。
関ヶ原合戦での逸話 夫人園田氏 (宰相夫人、実窓夫人)との文通
「今夜もそなたの夢を見て、たった今逢ったような気がします。よい便があったら、同じことでもいいから手紙を寄こしてくれれば嬉しいです。(中略)そちらは何事もなくめでたい事です。この度は私もいよいよ白髪がふえ、老いの波の立ち重なれる面影、朝、鏡を見ると、我ながらあきれはてます。さてさて対面すれば、こんなになってしまったなと、人違いかと驚くに違いないと思うばかりです。・・・」
資料にはそれぞれの重要場面の古文書とそれの現代訳があり、大変わかりやすいものになっていた。
日頃、古文書までは手が届かないので、古文書へのいい入門編ともなった。