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ジージの南からの便り

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2019.12.10
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カテゴリ:西郷隆盛


 いわゆる征韓論に敗れた(私はそうは、思っていないが)西郷は、明治6年(1873)10月23日、岩倉首相代理に辞表を提出し、東京日本橋小網町の寓居を28日に出発した。下僕の竹内矢太郎を連れて品川から海路帰途についた。大阪で数泊し、長崎に向かい、茂木港から海路阿久根に上陸、市来に一泊して鹿児島に帰り、懐かしい武村の屋敷(現在の西郷屋敷跡・公園)に落ち着いた。ときに11月10日で47歳であった。明治4年2月に乞われて上京してから、京にいること2年9ヶ月3年ぶりの帰国であった。







 西郷隆盛は明治6年(1873)11月から約4年間この屋敷で生活した。
屋敷は明治2年(1869)薩摩藩の上級武士から譲り受けたもので、敷地約3600平方m。
高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったという。
西南戦争で焼失したが、明治13年(1880)弟の従道が再建した。

 西郷は晴耕雨読の生活で、吉野や西別府で農耕に励んだり、県内各地で狩猟を楽しんだりした。
また、私学校を創設し、青少年の教育に当たるなど「武村の吉」として悠々自適の暮らしをおくった。
自宅には、沖永良部流刑中に出会った川口雪篷を同居させ、近辺の子供たちの教育にあたらせた。



 参考資料 「武郷土誌」など





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Last updated  2019.12.10 16:17:02
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