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カテゴリ:西郷隆盛
いわゆる征韓論に敗れた(私はそうは、思っていないが)西郷は、明治6年(1873)10月23日、岩倉首相代理に辞表を提出し、東京日本橋小網町の寓居を28日に出発した。下僕の竹内矢太郎を連れて品川から海路帰途についた。大阪で数泊し、長崎に向かい、茂木港から海路阿久根に上陸、市来に一泊して鹿児島に帰り、懐かしい武村の屋敷(現在の西郷屋敷跡・公園)に落ち着いた。ときに11月10日で47歳であった。明治4年2月に乞われて上京してから、京にいること2年9ヶ月3年ぶりの帰国であった。 西郷隆盛は明治6年(1873)11月から約4年間この屋敷で生活した。 屋敷は明治2年(1869)薩摩藩の上級武士から譲り受けたもので、敷地約3600平方m。 高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったという。 西南戦争で焼失したが、明治13年(1880)弟の従道が再建した。 西郷は晴耕雨読の生活で、吉野や西別府で農耕に励んだり、県内各地で狩猟を楽しんだりした。 また、私学校を創設し、青少年の教育に当たるなど「武村の吉」として悠々自適の暮らしをおくった。 自宅には、沖永良部流刑中に出会った川口雪篷を同居させ、近辺の子供たちの教育にあたらせた。 参考資料 「武郷土誌」など お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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こんばんは
かなりの部屋数があったのですね。 (2019.12.10 19:40:49)
広いお屋敷ですね。悠々自適の 生活だったのですね。近所の子供たちの教育にも関心があったのですね。
(2019.12.10 20:43:17)
こんばんは。
本当であれば。 郷里に引退して。後進の指導と晴耕雨読。 そういう人生をゆったり歩んで欲しかった。 時代の矛盾がそれを許さなかったのでしょう・・ (2019.12.10 22:41:10)
こんばんは。羨ましい、悠々自適の生活を4年もしたのですか。お金持ちなんですね。この時は奥さんは何番目でしょうか?自分は、男性がいくら活躍しても女にだらしない人は尊敬できません。男の快勝と言うけど、、泣くひともいることを考えて欲しいです。立派なお屋敷ですね。
(2019.12.10 23:16:09)
クマタツさん今日は~!!
いつもコメントをありがとうございます。 書かれた文章を読みながら、大河ドラマ 「西郷どん」を思い出しています。 あの素朴な家僕。確か江戸にもついて行ったの でしたよね。従道役の俳優の顔も思い出します。 このお屋敷が西南の役の際に焼けてしまったのですか。 元々は下級武士としての貧しい暮らしでしたものね。 こんな大きな屋敷を借り受けられて過ごした平和の 日々も、ごく短いものでしたね。 島津斉彬公の時代を読む力と英明さを思い出します。 思えば不思議な藩主親子、兄弟関係でしたね。 下級武士によくぞ活躍の場を与えたものです。 (2019.12.11 09:08:53)
先生が朝鮮に行かれていたら、危険は伴ったかもしれませんが、歴史は変わっていたと思います。(^-^)
お早うございます。。北九州戸畑は曇りです。 いつもありがとうございます。 今日は、早朝から重要会議でした。 年末に部屋を引っ越すので、ボチボチ片付けを始めています。 なかなか進みません…………(^_^;) 今日も良き一日でありますように。 (2019.12.11 10:59:38)
ご挨拶に立ち寄りました。
お早うございます。。北九州戸畑は曇りです。 いつもありがとうございます。 今日は、また寒くなりました。これが例年並みですが、 昨日と7~8度違いますと、堪えます。(^_^;) また地震、列島はここのところ地震続きですね。 大震災の予兆でなければ良いのですが…………。 今日も良き一日でありますように。 宴会で培われる心の交流が 廃れていきますね。人工知能は「知」であって、大切な「情」「感」は無理なんですけど…………。そこは人の領域、大切にしたいものです。(^-^) (2019.12.12 10:14:05) |