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ジージの南からの便り

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2020.04.27
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カテゴリ:島津一族




島津忠恒(のち家久)第18代島津家当主にして初代薩摩藩藩主・薩摩守
   天正4年(1576)~寛永15年(1638)

 忠恒は島津義弘の三男として誕生する。長男は夭折し、次男・久保が豊臣秀吉の九州征討後に後継者に決定していた。しか、その久保が文禄元年(1592)の朝鮮での「文禄の役」に出陣し、21歳の若さで朝鮮で病没する。そこで次期後継者に躍り出たのが三男・忠恒である。ところがその忠恒はそれまでの忠恒は酒食と蹴鞠に溺れ、放蕩三昧の生活をおくっていたといわれる。そのことで父・義弘からも厳しく叱責されていたような状態だった。そのようなことで、久保の死後の島津本宗家の後継者をめぐる地位は微妙であった。

 久保の義父で島津本宗家第16代・義久には男子はなく三女があり、長女の婿は薩州家島津義虎(忠辰の父)、次女の婿は島津彰久(垂水島津家以久の長男)、三女亀寿(持明院様)の婿が久保だった。亀寿と久保は仲睦まじい夫婦だっという。そういう中での久保の死は義久にとっても大きな痛手となったが、久保の弟で義久の同じく甥に当たる忠恒(家久)を世子に迎えた。亀寿は輿入れしたものの夫婦仲は悪く忠恒との間に子供は生まれなかった。
舅の義久は自分の血統を持つ孫を設けられない忠恒に不満であった。義久には娘の於平(御平)の息子・忠辰(ただとき)(弟は忠清)がおり、新城には島津忠仍(ただなお)などの外孫がいた。義久はこれら外孫を自身、又は亀寿、忠棟夫妻の養子に迎えて、家督を譲ることも考えていたという。迷った挙句、鹿児島神宮で籤を引いて、やっと忠棟に家督を譲ったという。 

 家督を譲られた忠恒はそのような事情で子供は無く、次の家督相続人をどうしようかと考えた。
というのも、島津一族は他の大名たちと違って側室を持って子女をもうけるようなことがなかった。
わずかに日新斎忠良(じっしんさいただよし)(義弘の祖父)だけが例外で薩州家重久の娘(御東)を正室に迎え、2男3女を得たほか一人の側室上木貞時の娘(大仁、桑御前?)が1男1女を生んでいる。側室は一人だったと思われる。もちろん側室を亡くし後室を迎えた例は多い。

 忠恒はこのままでは亀寿との間に子供をもうけることは出来ず、かと言って義久の娘を差し置いて島津家の慣習となっている一夫一婦制に縛られて側室を置くこともできない。
そこで後継家督を誰に継がせるか忠恒は考えた。
解決策とし考えたのは外部の権威をもって島津家の不文律を突破することだった。

 慶長15年(1610)忠恒改め家久は駿府で大御所徳川家康と対面した。そこで意外な申し出をする。将軍秀忠の二男国松(のち駿河大納言忠長)を養子にもらい受けたいというのである。
家康は国松が将軍家の跡取りの一人だからと、当然のことながら拒否したが、「家久はまだ若いのだから、側室を置けばよいではないか」と諭したという。家久はその言葉を待っていたのである。つまり、家康のお墨付きにより義久ー亀寿親子の壁を突破することを狙ったのであった。もし、家久が大義名分もなく側室を置き、その間に男子が誕生すれば、義久や亀寿は怒るだろうが、徳川将軍家がそれを認めていれば問題なかろうと考えてのことだった。家久の涙ぐましい苦労が伺える。

 家康のお墨付きにより、家久が選んだ側室が亀寿の長姉於平の孫にあたる娘(慶安夫人)だった。亀寿も慶安夫人と対面して、その美貌に大層喜び話は順調に進んだ。亀寿は彼女が家久との間に男子を生めば、自分の養子として家督に立てると大きな譲歩をした。というのも、慶安夫人は女系ではあるが、義久の曽孫にあたる。彼女が生んだ男子が次の家督になれば、義久の血統が続くことになるからだった。ほどなく彼女が生んだ虎寿丸が後の第二代薩摩藩主・光久である。このようにして、家久の家督継承問題は決着がつけられたのである。



 参考資料 「島津義弘の賭け」 山本 博文 著
      「島津一族」    川口 素生 著
      「薩摩島津家 最強の真実」 桐野 作人 他





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Last updated  2020.04.27 08:57:09
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