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カテゴリ:島津一族
島津義弘没後400年に寄せて 亀寿 元亀2年(1571)~寛永7年(1630) 島津義久の三女で島津久保(島津義弘の二男)の正室だったが久保が第一次朝鮮戦役(文禄の役)の途中病没したため、その弟の忠恒(家久)(義弘の三男)(島津家第18代当主で薩摩藩初代藩主)の正室となる。いずれも従弟妹同志の結婚であった。久保と亀寿、忠恒と亀寿の縁組は、義久と義弘の兄弟間での家督争いに終止符を打つためのものであったろう。 久保とは仲睦まじい夫婦であったという。しかし、忠恒(家久)とは仲が悪く、二人の間に実子は生まれなかった。 のちに亀寿は天下を獲った豊臣秀吉の人質として大阪城下の島津邸に住んでいたが、関ヶ原の合戦後、義弘の大阪からの撤退に呼応し大阪から逃げ出すことができた。 なお亀寿には美貌に恵まれていなかったという説もあり、真偽不明の話が残されている。 現在、鹿児島市立美術館の前庭に持明院(じみょういん)様とよばれる柔和な顔立ちの石像がある。(一番上の写真) 「じめさあ」は年に一回、亀寿の命日である10月5日に化粧直しが行われている。 下の写真は福昌寺跡墓地にある亀寿の墓標。「持明彭想庵主」とある。 参考資料 wikipedia 亀寿 「島津一族」 川口素生著 「薩摩島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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あ〜そういう方がいらしたのですね〜。
今の時代には考えられないですが、近くは第二次世界大戦の頃にも兄弟が亡くなると他の兄弟の妻になった、とか聞きます。 鹿児島の女性は強かったのでしょうか、、、 (2020.05.24 11:31:36) |