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カテゴリ:島津一族
島津義弘没後400年に寄せて
永禄9年(1566)~文禄2年(1593) 島津本宗家に反抗し続けた薩州家最後の将・島津忠辰(ただとき)は戦国時代~安土桃山時代にかけての武将で薩州家7代(最後)当主。母は義久の長女。すなわち貴久の孫である。 父・義虎のあと薩州家の家督を継いで薩摩出水亀ヶ城を居城とし約32000石の領主となる。 天正15年(1587)4月19日豊臣秀吉は肥後八代まで兵を進めていた。島津忠辰は肥後国の高田(こうだ・現在の肥後高田駅周辺)の守備を任せられたが、肥前国島原の有馬晴信の裏切りにより、27日には抵抗も見せず本領の出水に引き揚げた。5月3日豊臣秀吉は泰平寺に入り、ここで剃髪した龍伯(義久)が秀吉に拝謁し、正式に軍門に下ったのだった。ここに島津氏の九州制覇の夢は終わったのである。文禄2年(1593)朝鮮出兵の文禄の役にも従ったが、義弘の配下としての出陣に難色を示したが、やむを得ず朝鮮半島に渡った。しかし、仮病を言い立てて上陸しなかった。この行動が秀吉の怒りをかい、同年5月1日、肥後宇土城主の小西行長に身柄を預けられ幽閉された上で改易(お取り潰し)を申し渡された。忠辰の領地は豊臣直轄領とされ細川幽斎と石田三成が代官となった。その後、小西行長の陣所に預けられ朝鮮の加徳島で病死したという。 享年28歳 弟の島津忠隣(たたちか)、忠清、入来院重高(頴娃久秀)らが他家を継いだため、島津用久(もちひさ)に始まる薩州家は断絶してしまう。 系図の写真は南日本新聞から借用した 参考資料 「薩摩島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ wikipedia 「島津忠辰」 「島津一族」 川口素生 「南日本新聞」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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薩州島津家は継ぐ人が亡くなって絶えてしまったのですね。
血脈はつながっていたのに、間が悪かったのですね。 誰かの配下になるのが気に入らないからと、戦場に行っていながら仮病を 使って出陣しないなんて、変な人ですよね。 戦国の大名は、いろいろ個性的な人がいますね。 (2020.06.11 10:26:13)
ん~~そうなんですか・・・
かつてお隣に大阪がご実家という島津さんがいらしたし、通りのお向かいには 天皇家の貴子様をお嫁さんにお迎えの島津さんが住んでいらしたけれど、その 方々はどういう流れの方だったのでしょうか・・・今になって、とても 興味津々です。 (2020.06.11 12:03:55)
こんにちは。梅雨入りは如何ですか?ジトジトしてはっきりしませんね。自分は歴史は全く駄目です。博物館や、TVなどでは人物も立派に表現されていますが、全部が全部そうとは限らない気がします。中には頼りない、人物もいるでしょうし、ずるがしこい人物もいて人間自体は今の人と変わらない気がします。環境や、身分の差が有りましたから、争い事が多いのではなかったかと思います。島津家から出た九州の代議士が居ましたね。あの人を見て、、島津家てあんなものなの?と感じました。
(2020.06.11 16:18:12)
こんばんは。
時代の流れにうまく乗った者。乗り切れなかった者。 その振れ幅がとてつもなく大きかった時代。 先を見る目を持たないと。 あまりにも。結末は厳しいですね・・ どうぞお健やかに!^^ (2020.06.11 22:30:50)
こんばんは。島津家も400年もたっているんですね。昔は土葬でしたでしょうから、骨ぐらいは、今でも埋もれているのでしょうかね。家系は今は何代目で残っているでしょ?自分は40代に大きな手術をして居まして、尿と便は持病のように出なくなって、医師からそれを退院の時に告げられました。尿の方は3か月に1度、検診に行っています。便は今まで下剤を月に1度位使用して居ました。出来れば、腸を改善したくて、昨年から、おなか快調宣言を1年間頑張ってみようと思って、下剤と切り替えました。個人的には、お腹の周りが細くなって良いと思って居ます。何時もコメント有難うございます。
(2020.06.12 22:48:50)
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