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2020.06.13
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カテゴリ:鹿児島の歴史




 今朝の南日本新聞に上記写真記事が掲載された。
それを見て私は2016年初めて「永吉南郷会」の当時会長だった「本〇どん」に連れて行っていただいた日置市吹上町永吉の草田原の「大辻石塔群」との関連性を今後調べるという記事に驚いた。

 先ず今日の記事によると「日置市伊集院町野田の水田地帯に十数基の石塔が姿を現した。平安末期以降に付近を治めた有力者のものとみられる。『塔の原の供養塔群』で木や竹やぶに長い間覆われていた」という書き出しで始まる。
「旧伊集院町教委が立てた案内柱はあるものの、本体は周囲から見ることはできなかった」「案内柱は、吹上町永吉にある桑波田氏石塔と特徴が合致するとして『平安末期からこの辺りを領した紀姓伊集院氏の末裔桑波田氏一族のものと考えられる』と明記。建立時期は示されていない。伊集院郷土史(1976年刊)によると江戸時代以降、石塔は門割制度下の農民集団『野田村西門』が管理していた」とある。「社会教育課の学芸員は『石塔の保存状態を確認できるようになった。現状を見て、永吉の桑波田氏石塔との関連性などを調べてみたい』としている」

 そこで、2016年と2019年の2回、永吉の「大辻石塔群」(上記記事では「桑波田氏石塔」と表現してある)訪ねたことのある私は、両方の桑波田氏の関連を調べてみた。
ネットの 紀氏のルーツ「紀氏の荘園、姓(国別)(31)によると、
 薩摩国伊集院桑波田(伊集院桑畑)発祥 紀氏の一族 紀貫之の子孫 伊集院本家筋
平安末期から紀氏を中心とする伊集院郡司の支配が強化していった。(新聞記事と一致)
 桑波田氏 南朝方
  「桑羽田」伊集院=紀景氏⇒子息・桑波田四郎三郎⇒紀四郎時春の三男⇒桑波田阿闍梨源智
  ⇒その長男・万揚房覚齋「日置南郷」(へきなんごう)の桑波田氏の祖であるという。
    (万揚房覚齋は紀氏と藤原氏の血脈系)
 以上のようなことがわかってきた。

 下の4枚の写真は2016年に写したものであるが、案内いただいた「本〇どん」によるとこの石塔はこの近辺の畑から掘り出されたものだという。それを「永吉南郷会」で1ヶ所に集められて石塔群として保存されているものだという。
同じ永吉字都には南郷城跡があり、ここを本拠地とした「日置南郷」の桑波田氏であったが、康永元年(1342)守護島津貞久の城となっており、守護島津氏領であった。桑波田氏は守護島津氏の老中として力をもっていたので、大栄7年(1526)、南郷城を与えられていた島津忠良(のち日新公)は桑波田栄景に南郷城を管理させていた。しかし、天文2年(1533)、城主桑波田栄景孫六は、薩州家島津実久に味方して、忠良(日新公)に弓を引くことになった。当時伊作を治めていた島津忠良(日新公)は嫡男・貴久を島津本宗家の養子に出して、貴久は15代当主になっていた。自分も本宗家の当主を狙っていた実久は激しく反抗し、忠良・貴久親子と争いになっていた。
忠良は難攻不落といわれた孫六の本拠地を落とすために、策略を練り、孫六が城を出て狩りに出かける日おを探らせ、その日に自分の兵を狩りから帰ってきた孫六の兵だと思わせて、門内に入り、城内に攻め入った。城兵の中に孫六を裏切る者も出て城は落ちた。孫六は驚いて帰ってきたが、間に合わず、伊集院の桑畑に逃げていった。その後、孫六は実久の援軍とともに、現在の日吉町吉利の野首原(のくんばい)付近に陣を敷いた。これを知った忠良は50騎あまりの兵を率いて敵の陣地を攻め、南郷城を守っていた貴久と敵を挟み撃ちにして、実久軍を破った。実久は多くの戦死者を出し、鹿児島へ逃げ出し。後に宮之城島津家に仕えるのである。

 この時より、南郷は永吉と改名され地頭が治めることになる。









 参考資料   南日本新聞   上記写真と記事
        ネット記事   城郭放浪記
        ネット記事   南郷城(鹿児島県日置市)の詳細情報・周辺観光
        ネット記事   紀氏のルーツ






Last updated  2020.06.13 19:25:52
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