ジージの南からの便り

2020/06/28(日)19:49

島津義弘に連なる人脈(14) 伊集院忠棟

島津一族(57)

 写真は伊集院忠棟が一時居城とした「都之城」 (ネットから拝借) 島津義弘没後400年に寄せて   伊集院忠棟(幸侃)  生年不詳~慶長4年(1599)   織豊時代の伊集院氏分家の当主で伊集院忠倉(ただあお)の子。 若くして義久に仕え、永禄9年(1566)義久が第16代当主になると同時に老中に抜擢される。 天正10年(1582)からは肥後や筑前の平定作戦に従事し。天正11年(1583)から天正12年には、肥後の阿蘇氏の討伐にも参加し実績をあげた。各地の地頭を務めたあと、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州侵攻の際には徐々に悪化する状況を見て降伏を主張した。  この年、島津軍が日向根白坂(宮崎県木城町)の戦いで豊臣秀長(秀吉の弟)に敗れると、これを契機に降伏やむなしとなったため、自ら人質となって高野山の木食上人(もくじきしょうにん)の預かり人となって京に運動して降伏に尽力する。義久とともに出家し幸侃と名乗るようになる。  これらの行動が秀吉に認められ、有力大名の力を削ぐ秀吉の方針により、多大な力を持つと、文禄4年(1595)には庄内に8万石を与えられて義久や義弘と同じくらいの大領主となった。しかし、秀吉の死後の慶長4年(1599)かねてからこれらの忠棟の行為を快く思っていなかった島津忠恒(家久)(義弘の息子であり、義久の娘婿でもあった)に茶の湯と称して伏見の屋敷に呼び出され、忠恒によって手打ちにされた。忠棟は懇意の石田三成と共謀して島津家に代わり薩摩・大隅・日向3ヵ国の守護の地位を得ようと企んだのではとも伝わっている。  父・忠棟の殺害を受けて、息子・伊集院忠真(ただざね)が庄内の乱を引き起こすのである。  参考資料  「島津一族」       川口素生著 新紀元社        「島津家 最強の真実」  KKベストセラーズ        「島津義弘の賭け」    山本博文著 中公文庫

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