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カテゴリ:島津義弘
えびの市在住のAさんが「飯野城跡」(別名は亀城、鶴亀城)を案内していただけるということで、Aさんの車の後ろに続いた。 「飯野城跡」方向表示板の前にAさんの車が止まると、「縄張り図」とともに「史跡 飯野城」の説明版があった。 飯野城は、永暦元年(1160)に日下部重貞が真幸院司に就任し、真幸院守護の守護の目的で築き居城としたが、その日下部氏が没落すると、康永4年(1345)に北原兼幸が真幸院司に就任し居城とした。 永禄7年(1564)北原氏も滅び、今度は島津氏の保有となり、島津貴久が北への守りとして次男・島津義弘を領主とし送り込み居城となった。義弘は30歳から56歳まで実に26年間ここを居城とし、数々の合戦にここから出陣した。 天正15年(1587)に義弘の嫡男・島津久保の居城となるが、久保は文禄の役に参戦中の文禄2年(1593)に病死する。 それより前、天正18年(1590)6月義弘は栗野の松尾城(栗野城)に移った。 しかし、慶長20年(1615)一国一城令により廃城となる。 下の表示にある「加久藤城連絡道」を使って義弘は加久藤城に住む愛妻の許に通ったという。 石碑に記された文字は飯野城址ではなく、別名の亀城址碑としたのか「亀・・・」とあり、亀の文字は読み取れるが他は読解くことはできなかった。 本丸、二の丸、三の丸に加えて、見張り台、枡形、弓場と呼ばれる郭が存在したという。 物見曲輪跡からの展望 城跡は50mの河岸段丘上にあり、城の南方は川内川に面して、また東方と西方もその支流が流れいずれも険しい崖となっている。北方は押建山が壁の役割を果たしている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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