ジージの南からの便り

2020/10/30(金)12:41

宮崎の史跡を訪ねる旅 佐土原城跡

旅行・ドライブ(180)

7月の宮崎県えびの市歴史旅から3ヶ月、今回は一泊で佐土原と都城を訪ねた。 メンバーは前回と同じ4人組である。 朝7時37分鹿児島中央駅発の特急きりしま号でKくんと出発。途中鹿児島駅で二人が乗車合流し4人旅が始まった。 10時過ぎには宮崎駅に到着、友人のNくんの出迎えを受けて佐土原歴史資料館「鶴松館」(かくしょうかん)まで送ってもらう。ここは佐土原城跡の一角に建てられている。   佐土原城は14世紀半ば頃に伊東氏の一族・田島休助によって田島城として建てられたといわれる。 応永34年(1427)頃、田島氏に代わり日向国に勢力を伸ばしていた本家筋の伊東祐賀が入城し佐土原氏を名乗る。文明12年(1480)に伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、正式に伊東氏が田島城(佐土原城)を支配し伊東四十八城の一つに位置づけられたという。 天文5年(1536)に焼失したが、天文11年から12年にかけて跡地に新しく鶴松城として建てられた。その後、九州の関ヶ原の戦いといわれる「耳川の戦い」に破れ豊後国に一時的に退去した際に島津四兄弟の末弟・家久が城主として入った。  天正15年(1587)に豊臣秀吉の島津氏に対する平定により、島津本宗家の16代当主・義久が秀吉に完敗し降伏する。その直後に家久が急死(死因については諸説あり)し息子・豊久が城主となる。 家久と豊久親子の2代が前期佐土原家と言われる。  寛永2年(1625)の2代島津忠興の代に山の上の建物を壊して、山の下に城を移した。城郭の老朽化による修繕費の増大により藩財政が逼迫したことと、元和元年(1615)の武家諸法度の発令による大名の城郭に対する規制が厳しくなったことなだがその理由と思われる。  慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで島津軍は西軍に参加するが、豊久は討死にし、佐土原城は家康の家臣・庄田三太夫が預かる。その後慶長8年に島津以久(宗本家15代当主島津貴久の弟忠将の嫡子)が3万石を分与されて立藩、明治まで領することになる。以久以降が後期佐土原家と言われている。  下の写真は「佐土原城跡」のパンフレットから 写真の中央付近に佐土原歴史資料館「鶴松館」(かくしょうかん)がある。 佐土原城は山城で中世宮崎平野を治める拠点として、城には曲輪が設けられ、土塁や堀切が築かれていた。江戸時代には現在の鶴松館の部分に佐土原藩主の屋敷が建てられ、明治の廃城のときまで使用されたという。また近年、本丸から発見された天守台や鯱瓦は、貴重な発見例として注目された。 平成16年9月30日 「佐土原城跡」は国指定史跡となった。 佐土原歴史資料館「鶴松館」は城の遺構に基づいて、二の丸跡に大広間・書院・数寄屋が復元され、平成5年6月に開館したという。  今回私たち4人はボランティアガイドのOTさんから懇切丁寧な案内をしていただいた。 OTさんに私たちが宮崎を訪ねることを連絡していただいたのは、ブロ友である「永吉南郷会」の前会長で現在顧問として日置市吹上町の「永吉島津家」の菩提寺・天昌寺跡墓地などのガイドをされている「本〇どん」である。OTさんと本〇どんに感謝の他ない。ありがとうございました。 参考資料  Wikipedia         佐土原城  川口素生著    「島津一族 無敵を誇った南九州の雄  佐土原歴史資料館 鶴松館 パンフレット

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