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カテゴリ:鹿児島の歴史
旧寿国寺跡 島津家墓所(改葬前)(島津久敬氏提供)ということで「武郷土誌」より 鹿児島市武町にある西郷屋敷跡周辺の変貌はこれまでも取り上げてきた。 今回改めて「鹿児島城下絵図散歩」や武小学校PTA郷土誌刊行委員会発行(昭和49年2月20日発行)の「武郷土誌」を見る機会があり、昔の思い出が蘇ってきた。 一番下の地図等は区画整理のあった昭和48年以前のものであるが、私はこの武町に昭和23年から28年まで住んでいたので、この地図等の通りの環境であった。 上の写真は、下の「鹿児島城下絵図散歩」地図では「寿国寺」区画図では「島津どんの墓」と書いている通称「島津どんの墓」である。私たちの遊び場でもあったが、ここには島津家のご家族の4基の墓碑があった。この墓碑は区画整理等により、玉龍中高校の上にある島津家の墓地・福昌寺跡墓地に移されている。それを追った詳細記事は2013年6月25日付けの当ブログに書いている。 下の写真も同じく「武郷土誌」より 島津家墓所の一段下にあった「二階堂家の墓」 二階堂家は鎌倉時代からの名家であった。 たくさんの墓碑があった記憶がある。この二階堂家の墓も東京に移されたと聞いたことがある。 今は亡き衆議院議員・二階堂進氏はその子孫である。 下の2枚の西郷屋敷の写真も「武郷土誌」から転写したが、先日(2021年2月11日)に「史跡独り歩き」からということで紹介した「西郷屋敷の全景」と同じ時代のものである。 私もこの周辺で遊びまわっていたころの記憶が戻ってきて、門構えなどを思い出すことが出来た。 現在の「西郷屋敷跡」の表示板 西郷屋敷跡の公園から九州新幹線の高架を見ることができる。 左側に新幹線最後のトンネルがあり、右側が「鹿児島中央駅」である。 鹿児島城下絵図散歩から転写した西郷屋敷周辺地図。作成年代はほぼ安政6年(1859)ごろ。 地図の中央辺りに「二階堂邸 六百九十坪」とあるが、ここが「西郷屋敷跡」として公園になっている。 鹿児島城下絵図散歩から転写。上と同じ地図上に現在の状況が書き入れられており、「西郷屋敷跡」や最近の町名、「九州新幹線」などとある。しかし、昭和42年から48年までの計画で始まった区画整理事業や、九州新幹線乗り入れによる線路敷設などでこの周辺は大きな変化を遂げている。 〇印が我が家が借りていた借家 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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今は史跡も整備されて。
キレイな観光名所みたいになっているのでしょうけど。 草木の生い茂った中にたたずむ昔の方が。 風情があって好みなのは。変でしょうか?(笑) どうぞお健やかに!^^ (2021.03.03 17:28:44)
TVで見た 西郷どんが 蘇りました。80歳の甥が 鹿児島医大を出て 東京慈恵大に勤めました。一度だけ鹿児島に お邪魔しました。遠い昔を 思い出します。
(2021.03.03 21:00:48)
こんばんは。西郷さんのような一族を何ていうか分かりませんが、由緒ある一族なんでしょうね。反面羨ましくもありますね。お墓にしろ屋敷にしろ、国中で大事に扱われて、、コロナがなければ、観光客で一杯でしょうね。今の静かな時に、色々見てきてください。
(2021.03.03 21:49:33)
鹿児島は長崎と違ってきっと土地も広々としているのでしょうね。
海も山も平地もきっとたくさんあって・・・長崎のお墓は人の家と隣り合わせにその集まりがあったり、丘へ丘へと登って行って、。長崎の人は言います。長崎は墓と坂とバカ(祭り)ばかりだと。言いえて妙ですね。 お墓もみな立派ですね。長崎のお墓は比較的小さなものばかりで、たまにこんなのがあるとそれは由緒ある人のものだったりします。それから外国人墓地も、3か所ぐらいにまとまってあり、お墓の姿も様々です。 でも長崎の人たちが偉いの、そんな外国人のお墓を地域で定期的にお掃除をしてそのお墓を大事にしていることです。 (2021.03.04 07:01:27)
昔の地図ってこんな見方もあったのですね。
年代順に比べると町の様子が変わって行ったことがよくわかりますね。 西郷屋敷の周りも時代の中で変わっていったのだと、その様子が瞼に浮かんでくるようです。タイムスリップを繰り返して、時代を旅しているという感じ。 でも、町は変わり、周囲は変わっても西郷さんにまつわる記念の施設を大切にする鹿児島の人たちの心は変わらないのですね。 西郷愛?ですね。 (2021.03.04 14:02:19)
愛知県名古屋市は、
最大級の区画整理によって大都市へと成長しました。 (2021.10.18 17:27:43) |