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カテゴリ:鹿児島の歴史
鹿児島県霧島市国分中央1丁目にある「大隅国分寺跡」で発掘調査が行われ石塔の直下から、木造塔の心柱を支える礎石である塔心礎が発掘されたという記事が南日本新聞に掲載された。 私は2015年5月に訪れて、2015年6月22日に「大隅国分寺跡を訪ねる」という文章を書いている。 そのブログの最後に「今後の詳細な発掘調査が待たれる」と書いたが、それが今回行われ新しい発見があったという記事である。 記事によると木造塔があった場所に石塔を再建したことを示すと考えられ「まだ明らかになっていない寺の建物配置を探るヒントになる」(市教育委員会)と関心を集めている、とある。 (下の写真3枚は2015年5月撮影) 記事によると、「礎石は、2月末に完了した石塔の修復作業で見つかった。楕円形で最長部の直径 約1,5m。中心に、柱を入れたとみられる直径27cm、深さ7cmの穴が開いている。 国分寺の由来は下の案内板にもあるように奈良時代に聖武天皇の勅願によって国ごとに設置された寺院で僧寺と尼寺があった。大隅国分寺は奈良末期から平安初期の完成とされ、現在残る石塔には平安末期の1142年(康治元年)の銘がある。軸とかさを重ねた6層で、高さは約5mある。 またもう一つ発見があって、石塔を解体した際、2層目の中心部に縦30cm、横17cm深さ7cmのくぼみが見つかった。石塔と同じ平安末期建立とされる隼人塚(霧島市隼人)でも確認され経典を納めた場所ではないかとみられる。 まだまだ解明されないことも多いが、一歩づつ新しいことがわかってくるのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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クマタツさん今日は~!!
久しぶりにお邪魔し、少し遡って 拝見させていただきました。 書かれたことに関連してネット検索し、 薩摩国、大隅国が日向国から 分立した歴史を知りました。 また種子島が初めは薩摩国に属し、後に 大隅国の郡となった経緯も。(^^)v 明治の廃仏毀釈の時に、大隅国分寺が破壊され、 木造の塔も無くなったとは残念でした。( ;∀;) 庭での作業のこと、面白い歌の歌詞と先輩が 造られた人形の話も興味深く拝見しました。 どうもありがとうございました。😊 (2021.04.16 14:44:46)
こんばんは
歴史の謎解きですね。 (2021.04.16 18:59:14)
こんばんは。
いつもありがとうございます。 石塔が示す六重塔があったのかもしれません。 塔の下には通常、仏舎利が納められますが。 新聞には経典とありますね。 発見された空間が大きかったからでしょうか? (2021.04.16 19:50:09)
大隅国分寺跡で 木造塔石の後に 石塔が建てられた 形跡が 見つかったのですね。歴史を辿って行くと ワクワクしますね。
(2021.04.16 21:43:06)
こんばんは。悠悠愛愛さんのコメントはいつも楽しいですね、先輩思いです。以前はよく訪問していました、最近はご無沙汰していますが、元気そうだなと思っています。またまた発掘ニュースですね。目をランランとして見ているんでしょうね。研究材料が出てきて、年寄だなどと言ってられませんね。鹿児島は宝物の発掘所ですね。地震があるみたいですよ。余りほらないでください。
(2021.04.16 22:41:12)
私へのコメントの返信です。
鹿児島はネット検索すると、六地蔵塔がたくさん出てきます。 また庚申などは、下記のように整備されたリンク集まで。 http://5.travel-way.net/~niemon/kagosima/kousin.html 私なら石造物巡りで、鹿児島に住み着いてしまいそうです。 (2021.04.17 00:07:50)
おはようございます。
書き込みありがとうお久しぶりです。 雨が上がっていい日になりました。歴史よくわかりませんが読ませて 頂きました、今お散歩にいい時期ですね。 (2021.04.18 10:00:23)
隼人塚も綺麗に整備され、資料館も併設されて、国分寺の発掘も順調、新しい発展もあって、と、国分、隼人は大きく変わっていますね。
夫の兄弟のうち、1人鹿児島に残っていた義弟が亡くなり、両親の墓も共同墓に移すことになり、コロナが終息したらそれも完了するでしょうから、夫はともかくわたしは鹿児島に行く機会はもうあまりなくなると思います。その前に一度、国分もゆっくり見ておきたい気がします。 (2021.04.18 10:44:54) |