ジージの南からの便り

2021/12/20(月)19:26

時遊館 COCCOはしむれ と指宿国民休館村の海を訪ねる

旅行・ドライブ(180)

 指宿市の考古博物館「時遊館COCCO はしむれ」を訪ねた。 縄文時代や弥生時代のことについては学校で歴史で教わったくらいの知識しかない私だが、薩摩の歴史を知る中で、歴史全体にも興味を持つようになってきた。最近は機会があれば、できるだけそういうものにも近づきたくなっている。  この博物館もできた当初に1回訪れたことがあって、その時の記憶はレストランで赤米を使ったご飯のランチを食べたことくらいだ。食い助の私ならではのことだが、恥ずかしい限りである。  展示のテーマは「自然と隼人、息づく文化」 橋牟礼川遺跡遺跡を中心に南九州の古代史を通史展示、とある。 第1~第3展示室、シンボル展示、国指定史跡、指宿橋牟礼川遺跡、歴史劇場に分かれている。  ホームページによると、「歴史を変える3つの発見」とある。 1,縄文土器と弥生土器の時代差を日本で初めて証明  「日本考古学の父」と評された京都帝国大学の浜田耕作博士は、橋牟礼川遺跡(当時は指宿遺跡)から縄文土器と弥生土器が一緒に拾われたことを知り、大正7,8年に発掘調査を行った。2つの土器の違いは、使っていた民族が違うからだという説があったが、この調査によって、開聞岳の火山灰の下から縄文土器が、上から弥生土器が出土することが明らかになり、2つの土器の違いは、時代差によるものだということが証明されたという。この発見により、橋牟礼川遺跡は国指定史跡に指定されたという。  2、開聞岳の噴火で埋没した「東洋のポンペイ」   西暦874年の夜、開聞岳が大噴火し橋牟礼川の集落は火山灰で埋もれてしまった。 「日本三大実録」という古文書にある開聞岳噴火の記録と発掘調査の成果が一致して、埋没した日があきらかになった。発掘調査の結果、降り積もった火山灰の重さで倒れてしまった建物跡や畑の跡、道の跡などが見つかり、火山灰の下には、当時の集落がそのまま眠っていることがわかったという。 3,古代隼人の封印を解く   「隼人」が初めて史実に登場するのは、西暦682年の記録である。それから9世紀始めまで、当時の政府と衝突を繰り返していたことが明らかになっている。古事記や日本書紀の神話にも異端の民として「ハヤト」あるいは「クマソ」といった名前で登場する。 南九州の人々はなぜ「隼人」と呼ばれ異端視されたのか、謎はまだ明らかになっていない。橋牟礼川遺跡では、874年の集落と5~6世紀の大集落が見つかった。ちょうど「隼人」やその祖先、子孫に当たる人々のムラであり、この遺跡には「隼人」の実像に迫る手がかりが埋もれている、とある。  今回、このホームページを事前に読んでいたので、わかりやすかったが、やはり古代史は難しいというのが実感である。   指宿には我が家の足跡も残っている。 ここは国民休暇村のすぐ近くの海岸である。 子供たちが小さい頃、それからしばらく経って孫たちが小さい頃、国民休暇村にはよく遊びに行った。 孫が温泉好きになったのも、よく連れて行ったことが影響しているのだろう。  南国らしい風景のこの広場で何回もおにぎりを食べたり、遊んだりしたのはいつの日だったのか。 久しぶりに訪ねて昔日の感があった。 もう遥か彼方の遠いところへ行ってしまったのか。

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