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ジージの南からの便り

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2025.05.13
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カテゴリ:旅行・ドライブ



 昨年の秋、Kくんとの二人「ちょい旅①」佐賀・大分の旅の6回目をやっと書くことにこぎつけた。

 大分駅から大分バスに乗って約35分で戸次バス停に到着
国道10号線にあるバス停に降りたち右側に少し歩くと草原が広がり真ん中に目的の大野川(当時の戸次川)にたどり着く。夢にまで見た(少し大袈裟? だが)戸次川古戦場跡である。
左側の少し先には長曾我部信親の墓や十河一族の碑もあるのだったが、時間の都合もあり今回は訪ねることができなかった。


 戸次川古戦場跡は天正14年(1586)豊臣秀吉と九州制覇目前と言われた島津氏の戦いが行われた戦場跡である。
九州をほぼ制圧した島津氏が残る豊後の大友氏を制圧しようとすると大友氏から救援を頼まれた豊臣秀吉から派遣された豊臣方先発隊の仙石秀久、長宗我部元親ら四国連合軍と激突したのがこのこの戸次川である。

 戦いがあった当時は戸次川と呼ばれていたが現在は「大野川」と呼ばれている。

 この戸次川の戦いに至るまでに島津氏は「木崎原の戦い」(きさきばるのたたかい)、「耳川の戦い」「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)、「岩屋城の戦い」など九州制覇に向けて名だたる戦いをやってきた。個別の戦いについてはこれまで本ブログで折に触れて書いてきたが、いつか機会があればそれらの一つ一つの戦いについて書こうと思う。

 ここに至るまで「木崎原の戦い」では日向の伊東儀佑と「耳川の戦い」では豊後の大友宗麟と「沖田畷の戦い」では肥前の竜造寺隆信と戦いそれぞれ島津氏が勝利する。「岩屋城の戦い」では大友氏側である筑前を実効支配するために大友氏側の大宰府や博多といった商業都市を制しなければならなかったので、大友氏側の拠点を完全に排除しなければならなかったので、それを実現するために立花城、宝満城、「岩屋城」を制覇する必要があった。その岩屋城に立ちはだかったのが高橋紹運である。
しかしながら時に利あらず紹運も自害し城も玉砕した。
しかし、その後、豊臣秀吉の本隊が到着し島津氏は撤退を余儀なくされる。
余談めくがこの岩屋城の戦いについては、直木賞作家の川越宗一氏の著書・「天地に燦たり」の冒頭部分にも描写されている。

 1586年(天正14年)の岩屋城の戦いで最終的に九州完全制覇の企図を砕かれたのだが、この戦いはそれ以上の重要ないみがあった。島津氏が豊臣秀吉との敵対関係に決定的な出来事となった。
そして12月12日島津家久(四兄弟・ 義久 義弘 歳久 家久)率いる島津勢と長宗我部元親・信長父子、仙石秀久、大友義統、十河存保が率いる豊臣勢の間で戦われ島津勢が勝利した。
この戦いで島津氏軍を率いた島津家久公(後の永吉島津家初代当主となる)の墓地もある鹿児島県日置市の主に永吉南郷会が中心となって大分市との交流が続いている。
現在は毎年11月上旬に「大野川合戦まつり」が行われ日置市からも参加して武者行列・火縄銃の演武などが行われているそうだ。





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Last updated  2025.05.17 19:51:49
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