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ジージの南からの便り

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鹿児島の城と麓

2019.09.14
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カテゴリ:鹿児島の城と麓

 
 知覧麓の武家屋敷群を訪ねて、前回まで「優れた意匠で構成されており、その手法は琉球庭園と相通じるものがあり、庭園文化の伝播を知る上でも貴重な存在である」として国の名勝に指定された7つの庭園を中心に紹介してきた。

 ここでは鹿児島独特の建築様式である二ツ家の中でも更に特別なものとされる「知覧形の二ツ家」について紹介したい。同じ武家屋敷群の中にある「旧高城家」の建物である。
 昭和57年にここに移築されたというが、今も美しい佇まいを残している。




 手前がオモテで奥に見えるのがナカエである。



 


 これで知覧麓の武家屋敷群の紹介を終わることとし、残る出水麓の武家屋敷群は当ブログで紹介していないので、再訪していずれ紹介したいと思う。






Last updated  2019.09.14 11:53:57
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2019.09.12
カテゴリ:鹿児島の城と麓


 平山亮一氏庭園
       武家門
 天明(1781)の作庭と伝わる。



 石組みの一つもない大刈込一式の庭園である。イヌマキによる延々たる遠山は、その中に三つの高い峯を見せ、前面にはサツキの大刈込みが築山のようで、母ヶ岳を庭園に取り入れて簡素化された借景園として、名園の名をほしいままにしている。




 庭園内から庭園入口を見る



 平山克己氏庭園
     武家門


 明和年間(1764~1771) 作庭と伝わる







 母ヶ岳の優雅な姿を取り入れた借景園である。北側の隅には石組みを設けて主峰となし、イヌマキの生垣は母ヶ岳の分脈をかたどっている。またどこを切り取っても一つの庭園を形づくり、調和と表現にすぐれた庭園として絶賛されている。大海原には無人島が浮かび、遠くには緑の大陸が望まれ、想像とロマンの世界で楽しめる庭園である。




 西郷惠一郎氏庭園
      武家門


 文化文政年間(1804~1829)の作庭と伝わる



 庭の南東部の隅に枯滝の石組みを設けて高い峯とし、この峯から低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの連山を表現している。また鶴亀の庭園とも言われ、一変して高い石組みは鶴となり、亀は大海にそそぐ谷川の水辺に遊ぶが如く配され、石とさつきの組み合わせは至妙である。





 刈り込みを道から見る
変化の妙に富んだ刈込に見とれてしまった。


 庭園の説明文はパンフレットを参考にした。






Last updated  2019.09.12 17:05:04
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2019.09.11
カテゴリ:鹿児島の城と麓


  武家屋敷群を歩いていると、珍しい石造物に出会った。まさに「犬も歩けば棒に当たる」である。
「稽古所跡」と「石敢當」である。

 「稽古所跡」の説明版には概要次のようなことが書いてある。
江戸時代後半、郷士子弟の教育の場が稽古所である。稚児は数え7歳から、二才(にせ)は15歳から25歳までの若者が学問や武術、礼儀作法を学んだ。知覧には5番組まであったとされる。
石碑の右側には、ここは知覧島津氏が領主の時代に武士の青年たちが集まり、書を読み、学問を行い、武芸の鍛錬に励むために設置された場所であると彫られている。「書をよみ、武を練り」の書は太平記や義士伝、太閤記を読み上げ、武は示現流の剣術、弓術、相撲を修練したとされる。



 「石敢當」の説明版には概要次のように書かれている。
 三叉路の突き当たりに建てられているこの石は、屋敷内に魔物が入ってくるのを防ぐとされる「石敢當」という魔除けである。中国発祥の信仰で江戸時代に琉球を経由して鹿児島に伝わり、T字路地や三叉路に設置された。現在知覧では麓(武家屋敷群)と開運で栄えた海岸部を中心に十数基設置されている。

 この「石敢當」については当ブログにも何回か取り上げているが、鹿児島一円にあり、他県にもあるようだ。鹿児島市では旧いものも見かけるが、新興住宅団地でも個人によっては、三叉路や突き当たりに設置している家庭も散見される。







Last updated  2019.09.11 10:01:13
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2019.09.10
カテゴリ:鹿児島の城と麓

 
 佐多美舟邸武家門

 寛延4年(1751)に造られたものといわれ、知覧庭園の中では最も豪華で広い庭園である。





 枯滝を造り、築山の上部に石灯、下部の平地には各所に巨岩による石組を設けている。





 ここまで3ヶ所の佐多邸庭園を見てきたが、佐田氏は島津家の分家であり、最初は大隅半島の佐多にあった。しかい知覧に移され江戸時代の知覧は佐田氏が地頭として、治めていた。
佐田氏には優れた当主が多く出て、薩摩藩の中でも重要な役目を果たした。その功績によって佐田氏16代九達の時代に、知覧の私領地化と島津姓の使用が許された。

 現在残る武家屋敷群は、佐田氏16代島津久達(1651~1719)の時代、もしくは佐田氏18代島津久峯(1732~1772)の時代に造られたものではないかとされる。

 庭園の説明文はパンフレットを参考にした。






Last updated  2019.09.10 11:43:32
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2019.09.09
カテゴリ:鹿児島の城と麓

 
 写真は佐多直忠邸武家門

 門をくぐると切石の目隠しに突き当たる。屏風岩とも呼び、敵の侵入を防ぐことを兼ねた造りで江戸時代中期の武家屋敷の風格を備えている。



 寛保年間の1741~1744に造られた庭で借景の母ヶ岳(松ノ木の向こう側に霞んで見える)を望む庭の一隅に石で組まれた築山を設け、その中心部は3,5mの立石と枯滝の石組が絶妙な趣を呈し、一幅の水墨画をそのままに表した名園である。












 佐多民子邸入口(右側武家門)





 鉢植えの梅の木



 巨石奇岩を積み重ねて深山幽谷の景を映し出し、小舟に乗って石橋の下を潜って行くと、仙人が岩の上から手招きしているようだ。
 麓川の上流から運んだ庭石は、凝灰岩質のもので、巨岩のため石目にそって割り、牛馬で運びやすくしたものである。


 巨岩を使った手洗鉢



 庭園の説明文はパンフレットを参考にした。






Last updated  2019.09.09 11:44:12
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2019.09.08
カテゴリ:鹿児島の城と麓

 
 小雨降る先日、国の重要伝統的建造物群保存地区の一つである鹿児島県南九州市の「知覧麓の武家屋敷群」を訪ねた。それは北海道から沖縄まで118ヶ所ある中で、鹿児島には他に2ヶ所「入来麓の武家屋敷群」と「出水麓の武家屋敷群」がある。入来麓の武家屋敷群については、2016年2月6日から5回にわたって当ブログに書いてあるので、興味のある方は覗いてほしい。

 上の写真に見るように母ヶ岳の優美な姿を借景として、260余念の歳月を経て、歴史の息吹を伝えているここは、「薩摩の小京都」と呼ばれている。

 武家屋敷への入口はいくつもあるが、主要地方道谷山知覧線23号線の武家屋敷に向かって左側から入った。


 入口にある説明版にも概要の説明があるが、パンフレット(抜粋)によると、江戸時代、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に麓と呼ばれる武家屋敷を作り、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治に当たらせた。知覧もそのその外城の一つである。「知覧城の武家屋敷群は、薩摩の麓の典型的な作例の一つで、折れ曲がった本馬場通りに沿って連なる石垣と生垣からなる警官にも優れ、我が国にとってその価値は高い」としている。また地区内の7つの庭園が「優れた意匠で構成されており、その手法は琉球庭園と相通ずるものがあり、庭園文化の伝播を知る上でも貴重な存在である」として国の名勝に指定された。



 森思堅邸武家門

 




 森家は亀甲城の西麓にあり、領主に重臣として仕えた家柄で、住居や土蔵は寛保初年(1741)に建てられたものである。



 曲線に富んだ池には、奇岩怪石を用いて近景の山や半島を表し、対岸には、洞窟を表現した穴石を用いて水の流動を象徴している。
尚、国の名勝に指定されたここ知覧の庭園の中で、この森家庭園のみが池泉式でこれから紹介する6つの庭園は全て枯山水式となっている。







Last updated  2019.09.09 09:12:04
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2012.05.02
カテゴリ:鹿児島の城と麓
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 4月30日、蒲生からの帰り道、平松城跡、重富麓を訪ねた。
御仮屋跡は平松城跡の重富小学校になっているが、校庭が本丸だっという。写真に写った現在の校門は県庁舎が鹿児島市の公民館地にあったころの県庁門で払い下げを受けて移設されたものだという。(姶良町郷土誌)
平松城跡の歴史は下の写真の通りであるが、天文23(1554)年島津15代当主・貴久が帖佐渋谷氏を討ち島津義弘を岩剣城に移した。岩剣城は山上が険しかったので、平松城を築き平常はここに居住した。更に慶長5(1600)年、関が原戦後しばらくここに住み、又慶長11(1611)年にもここに住み、翌年加治木に移った。(姶良町郷土誌)

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 この城は周囲690m、石垣2.5m野面積の石垣である。

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 平松城が出来る前にあった岩剣城は重富小学校の右後方の標高210mの岩剣山頂にあった。麓には岩剣神社がある。
下の写真は岩剣城のあった岩剣山である。

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 岩剣城は祁答院良重が建設したと伝えられるが、築城時期の詳細は不明である。天文年間、祁答院良重は菱刈隆秋、蒲生範清と組んで島津貴久に反旗を翻した。天文23年菱刈・蒲生連合軍が島津側の武将・肝属兼重の居城である加治木城を攻め、貴久は加冶木城を救援するため祁答院良重の住む岩剣城を息子の義久・義弘(当時忠平)・歳久に攻めさせる。そして落城する。(フリー百科事典・ウィキ・ぺディア)

 この時期の戦いは15代当主島津貴久から16代島津義久が三州(薩摩・大隅・日向)平定の足がかりを作った大きな転換となったものと思う。

 麓には麓馬場や武家門がきれいな形で残されている。

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 最後の写真は重富小学校の校門手前の道路手前にあったこの辺一帯の案内板である。

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 この写真では読み取ることは出来ないが、次のことが書いてある。

   “重富郷の歴史”
 重富郷は再建された越前島津家の領地として帖佐郷の脇元村、平松村、船津村、春花村、触田村(吉田郷内)の五カ村をまとめて元文(1739)年創設されました。重富という郷名は越前島津家ゆかりの越前国重富の地名に因んだとされています。

   “越前(重富)島津家の由来”
 越前島津家は島津家初代忠久の二男・忠綱を元祖とし、戦国時代の15代忠長の時に朝日山の合戦で敗れ途絶えていました。
約200年後の藩主継豊の弟・忠紀が16代として越前島津家を再興しました。

 その他、“外城(とじょう)制度(郷士制度)”の解説や近辺の史跡「平松城跡」「岩剣城跡」「越前(重富)島津家墓地」「招魂石」「脇元浦」「御石山」「帖佐八幡神社の大銀杏」古帖佐焼宇土窯跡」「島津義弘居城館跡石垣」「天福寺跡磨崖仏」「米山薬師」「宮田ヶ岡瓦窯跡」の解説が書いてある。

 この日は他の用事もあり、平松城跡と麓を散策しただけで終わってしまった。
いづれゆっくり時間をかけてまわってみたい。

 
 






Last updated  2012.05.02 18:43:34
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2012.02.24
カテゴリ:鹿児島の城と麓
 2月18日、竹田神社を訪ねた後、近くの加世田麓に行く。
加世田麓の地頭仮屋跡は現在「加世田幼稚園」になっている。立派な石柱門や石垣にその名残を留めている。

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そのお仮屋跡から前に立派な木と武家門のある屋敷を見ることができる。

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竹田神社の手前、270号線沿い右側にも武家門があった。白塗りの石蔵もみえる。

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武家屋敷の路地。歴史を感じさせる石垣や生垣。

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格子戸のある武家門もあった。

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別府城跡入り口(加世田小学校跡でもある)。下は案内板

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 別府城(加世田城)は治承元年(1177年)別府忠明によって築かれた。別府氏は桓武平氏良文流で忠明の時に別府を名乗り、別府城を居城にして代々続いたが、応永27年(1420年)島津久豊に降った。島津宗家勝久の跡目を狙った薩州島津家当主島津実久は、嫡子貴久を勝久の養子として宗家を継がせた島津忠良(日新公・竹田神社祭神)と激しく対立するが、天文7年(1538年)島津忠良が猛攻を加えて攻め落とした。現在は尼ヶ城公園として石碑が建てられ遺構は残っていない。公園の東側には別府忠明を祀った別府神社がある。
参考文献「日本城郭大系」(第18巻)

別府城址石碑

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加世田小学校跡門柱

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別府城~尼ヶ城公園までの沿革史 案内板

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武家屋敷に残る仁王像

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別府城の下に残る武家門

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屋敷の間の路地。石垣の上に生垣がある。

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武家門

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武家屋敷のある麓の通り

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 今回、竹田神社と加世田麓を半日かけてまわってみて、有名な「知覧麓の武家屋敷」や「出水麓の武家屋敷」と同じく歴史的にも観光的にも素晴らしい歴史遺産だと思った。
ここを守る方々は大変だろうが、この麓をいつまでも大事にしていただきたいと思うことだった。







Last updated  2012.02.24 18:08:44
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2012.02.23
カテゴリ:鹿児島の城と麓
 2月19日(日)日中の最高気温が8度くらいまでしか上がらない寒い一日だった。
午前中は家でうだうだしていたが、12時過ぎて南さつま市に向かった。
金峰町の道の駅“木の花館”で野菜などの買い物と、食事。ここは数年前に火事で焼けてしまったのだが、食事どころも含めて再建されていた。火事の前は座敷ばかりだったが、今度は椅子席も作ってある。新メニューという“味噌仕立てのそば”とおにぎりをいただく。これが抜群においしかった。

 そこから走ること20分くらいで「阿多麓」に着く。車を降りて散策するが、吹きっさらしでとにかく寒い。写真も2,3枚であきらめ、ここは出直すことにして、270号線を「竹田神社」に向かう。ここも寒さのせいか参拝の人影もほとんどない。
ここは先日のブログに書いた“関が原の戦い”で有名な島津義弘などの祖父・島津忠良の眠る地である。

 フリー百科事典ウィキペディアによると、現在は「たけだじんじゃ」と読むが、神社創建当時は「たかたじんじゃ」と読んでいた。日新偉霊彦命(島津忠良公)を祀る。祭神は島津氏中興の祖とされた。元々は祭神の菩提寺である日新寺(じっしんじ)がここにあったが、明治2年(1869)廃仏毀釈により廃寺とされ神社として創祀され、明治6年に島津氏により社殿が造営された、とある。

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竹田神社鳥居。 道路を隔てて写す。

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 竹田神社案内板

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本殿 建物に島津家の丸に十の字がある。

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本殿右奥の石蔵

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「いにしへの道」案内板

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「竹田の杜を歩く」案内板



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「いろは歌四十七碑由来記」案内板

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いろは歌 歌碑。   左右に47碑ある(一つに一首)

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「島津忠良と日新公いろは歌」案内版

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日新公の三男 島津歳久の墓。

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「常潤院の仁王像」案内板。廃仏毀釈から百十数年ぶりの昭和57年に発掘された。

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 仁王像

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「島津忠良の墓」案内版

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島津忠良の墓

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「大乗妙典一千部塔」案内板 
天文24年(1555)日新公が子孫の繁栄と敵味方の供養のために建てた。

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大乗妙典一千部塔

 この後、加世田城(別府城)や武家門などの残る素晴らしい加世田麓を歩いたが、また後日そのことは書きたい。







Last updated  2012.02.23 14:55:28
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2012.02.15
カテゴリ:鹿児島の城と麓
 2月12日あまりの天気の良さに家にじっとしているのも、もったいなくて、かみさんと一緒にドライブに行ってきた。
ただ準備もなく日置市方面ということだけを決めて行ったので見落としたところも多く、また4時からのおじさんコーラスの練習にも行かねばならなかったので、5時間くらいしか時間もなかった。

 向かった方向は小松帯刀ゆかりの日吉方面である。先ず“城の下物産館”に寄って簡単な案内地図をもらう。そこから2kmと少し南下し「園林寺跡(おんりんじあと)」に行く。ここが小松帯刀も眠る「小松家墓所」である。

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 この写真は案内板と共に墓所入り口にある廃仏毀釈のときに首がなくなった仁王像である。

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ここは園林寺は小松家の墓所である。 
小松清簾(きよかど)(帯刀)の隣には夫人のお近が眠り、墓地の一角には京都祇園の愛妾であって第二夫人となった琴仙子も眠っている。帯刀と夫人との間には子供はなく第二夫人との間に男の子と女の子が一人づついた。尚、男の子の清直は小松家30代当主となっている。

 園林寺跡を出て再び少し南下すると吉利郷の“お仮屋跡”の吉利小学校に着く。ここにも小松帯刀の銅像があり、日々子供たちを見守っている。

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 この吉利のお仮屋は後に小松姓を名乗るようになった祢寝(根占)家の本拠地にあった富田城の別称に因み南谷城(なんでんじょう)と言っていた。
3枚目は吉利小学校の正門を清浄寺の方角から写したものである。

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吉利麓の武家屋敷風景である。もう住居はなく武家門だけが残ったものもあるが、なんとも言えない風情がある。この辺一帯が歴史を今に伝えている。生垣の手入れなど大変だろうと思い頭がさがる。この風景をいつまでも残して欲しいものだ。
この麓から少し下った小高いところに、小松けの菩提寺である清浄寺を見ることが出来る。
車で2,3分で行ける場所だ。

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 あの「篤姫」ですっかり有名になった「小松帯刀」だが一体どういう人物だったのか。
日置市のパンフレット「日置に幕末明治維新をたずねる」には次のように書かれている
「幻の宰相と呼ばれる小松帯刀、それは彼が類稀なる才能と手腕を幕末の混乱期に家老として発揮しながらも、明治3(1870)年に若くしてなくなったことを惜しんでのことである。小松は天保6(1835)年、喜入(現鹿児島市)領主の肝属兼善の三男として生まれ、政情不安定な幕末維新期に生き、活躍する。のちに吉利(現日置市)領主であった小松家の養子となり、小松帯刀清簾と改名した。島津斉彬のもとでは火消防隊長などとなっている。斉彬の死後の文久元(1861)年には側役に昇進して大久保利通を重用するなどしながら島津久光・忠義を補佐した。文久2(1862)年からは家老として、倒幕に向けて薩長同盟や大政奉還、そして明治維新に尽力した。維新後は参与として版籍奉還を画策するなど、これからを期待される人材であったが、明治3(1870)年に病気のため、三十六歳の若さで亡くなった」とある。

 尚、小松帯刀については楽天ブログ「ポンコツ山のタヌキの便り」やまももさんに詳しい。カテゴリ「小松帯刀」で9回にわたり書いてあるのでご一読をされればよいと思う。







Last updated  2012.02.22 16:12:19
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