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ジージの南からの便り

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西郷隆盛

2019.12.10
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カテゴリ:西郷隆盛


 いわゆる征韓論に敗れた(私はそうは、思っていないが)西郷は、明治6年(1873)10月23日、岩倉首相代理に辞表を提出し、東京日本橋小網町の寓居を28日に出発した。下僕の竹内矢太郎を連れて品川から海路帰途についた。大阪で数泊し、長崎に向かい、茂木港から海路阿久根に上陸、市来に一泊して鹿児島に帰り、懐かしい武村の屋敷(現在の西郷屋敷跡・公園)に落ち着いた。ときに11月10日で47歳であった。明治4年2月に乞われて上京してから、京にいること2年9ヶ月3年ぶりの帰国であった。







 西郷隆盛は明治6年(1873)11月から約4年間この屋敷で生活した。
屋敷は明治2年(1869)薩摩藩の上級武士から譲り受けたもので、敷地約3600平方m。
高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったという。
西南戦争で焼失したが、明治13年(1880)弟の従道が再建した。

 西郷は晴耕雨読の生活で、吉野や西別府で農耕に励んだり、県内各地で狩猟を楽しんだりした。
また、私学校を創設し、青少年の教育に当たるなど「武村の吉」として悠々自適の暮らしをおくった。
自宅には、沖永良部流刑中に出会った川口雪篷を同居させ、近辺の子供たちの教育にあたらせた。



 参考資料 「武郷土誌」など






Last updated  2019.12.10 16:17:02
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2019.12.08
カテゴリ:西郷隆盛


 西郷屋敷を久しぶりに訪ねた。
先日の南日本新聞に新しい詩碑が建てられたと報じられていたからだ。
私はここからすぐ上の山の下に小学校3年生の途中に疎開先から帰ってきて、中学校2年生の途中まで約6年間住んでいたので、馴染みの場所である。ただその頃は、西郷屋敷とは知っていても、草木が鬱蒼と生い茂っていた記憶しかない。公園として整備されたのは、だいぶ後のことだという。
現在は公園もきれいに整備されていて、すぐ横を新幹線の高架が通っている。つくづく時代の移り変わりを感じる今日この頃である。



 この歌碑の案内板には次のようにある。
「右の詩は明治6年の政変により東京から官を辞して、故郷鹿児島のこの地にあった自宅に帰られた南州翁が、騒がしく煩わしい都会から離れて三年振りに我が家での自然に親しむ暮らしを手にされた心境を詠まれたもので、南州翁と徳の交わりを結ばれた旧庄内藩家老の菅実秀翁の贈与された書を原寸通りに石碑に刻し、鹿児島市と鶴岡市との友好都市盟約五十周年の佳節に因み詩碑を建設しました。」
                         令和元年十一月吉日
                            鹿児島中央ロータリークラブ
 

 
 西郷隆盛と菅実秀(すげさねひで)「徳の交わり」の像













Last updated  2019.12.08 12:35:35
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2019.12.02
カテゴリ:西郷隆盛


 「西郷隆盛宿陣跡資料館」のすぐ近くに「西郷菊次郎加療の地」である児玉惣四郎宅がある。
西郷菊次郎は西郷隆盛が奄美大島に1回目の遠島のとき結婚した2番目の妻・愛加那との間に生まれた長男である。



 菊次郎は8歳で鹿児島の西郷本家に引き取られ、12歳でアメリカに留学し、17歳で父・西郷隆盛に従って西南戦争に従軍していた。
 しかし、熊本、高瀬の戦いで重傷を負い、延岡に運ばれて児玉惣四郎宅にて治療を続けた。

 俵野脱出を前に西郷は菊次郎に永遠の別れを告げるとともに、政府軍の陸軍中将として延岡に来ている弟の西郷従道に会って投降するように諭した。菊次郎は右足を膝下切断していたこともあり、それに従った。

 そのときの様子は次のように伝わっている。
「永く西郷家に仕えていた永田熊吉(ドラマ・西郷どんでも頻繁に出てきた)が菊次郎を背負い投降すると、西郷隆盛の弟・従道は、喜んで涙を流して、熊吉に礼をいったそうだ。西郷隆盛の3番目の妻・イトも菊次郎の看病のため、ここ俵野を訪れたと言われる」




 その後の西郷菊次郎は23歳で外務省に入り、アメリカ公使館や本省で勤務し、明治20年(1887)6月、再びアメリカに留学するが、右足の宿痾もあって、留学を中止し帰国する。
帰国の後、明治23年宮内省式部官に就く。

 日清戦争で日本が台湾を統治すると、明治28年(1895)台湾基隆支庁長、宜蘭長官を4年半務め帰国後京都市長を6年半務めるも、右足後遺症の余病を理由に辞職する。辞職後、鹿児島に帰り、明治45年(1912)島津家管理の山ヶ野金山鉱業館長に就任するが、健康回復せず、大正9年(1920)に辞職。昭和3年(1928)鹿児島市薬師町の自宅で満67歳で死去する。
波乱に満ちた生涯であった。

 参考としたもの   延岡市商工観光課 パンフレット「西郷隆盛 青空テーマ館」
           wikipedia            「西郷菊次郎」






Last updated  2019.12.02 10:31:32
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2019.11.30
カテゴリ:西郷隆盛


 延岡市北川町俵野の「西郷隆盛宿陣跡資料館」のすぐ近くにあったのは、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の陵墓として伝わる「北川陵墓参考地」。
延岡市のパンフレットには次のように紹介されている。

 魂に触れるドラマ 出会い 天孫瓊瓊杵尊と西郷隆盛の「時空を超えた出会い」
和田越決戦に敗れた西郷隆盛は、ここ俵野(ひょうの)の可愛山陵(えのみささぎ)が天孫瓊瓊杵尊の御陵墓だということを知っていて、あえて袋小路のようなこの場所に宿陣したことが、近年、資料や証言から明らかになりました。
 西郷は、政府軍が天皇家の先祖の墓に向けて砲撃できないであろうと考えたのです。そして事実、政府軍は3日2晩にわたって攻撃をしませんでした。
 西郷たちは瓊瓊杵尊に守られて一時の安らぎを得ることが出来たのです。
(可愛山陵は、宮内庁から「北川陵墓参考地」として治定されていて、現在も俵野の人達が大切に守り、毎年4月3日には御陵祭として神事や神楽の奉納が行われています) 















 北川陵墓参考地を左に見ながら進むと、30mくらい先に、薩摩西郷軍が登って行った可愛岳登山口がある。
 140m先にあるとの表示の「中津大四郎之墓」というのは、西郷隆盛が解軍令を発したときに政府軍に降伏した瀧口隊の隊長・中津大四郎の墓だが、この日は時間の都合もあり、御参りすることは叶わなかった。







Last updated  2019.11.30 09:05:27
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2019.11.28
カテゴリ:西郷隆盛


 11月19日(火)晴天にも恵まれて、久しぶりに「日帰りバスツアー」に行ってきた。
行き先は宮崎県延岡市。ツアーの旅程にかねてから行きたいと思っていた「西郷隆盛宿陣跡資料館」が含まれていたからだ。

 鹿児島から高速道路で直行し、一番先に訪ねたのが「西郷隆盛宿陣跡資料館」
場所は延岡市北川町の俵野地区(ひょうのちく)
入場料無料なのに、延岡市商工観光戦略課発行のパンフレット等をいただく。
全体の佇まいも建物や駐車場も素晴らしい。今になっても、西郷さんのことを大事に思って手を尽くしておられることが、手に取るようにわかり、感激した。



 明治10年、国内最後の内戦いと言われる西南戦争のこれまでの経過は省くが、遂に宮崎の延岡まで退却を余儀なくされた薩摩西郷軍は、8月14日、延岡の和田越の峠に集結、西郷のもとに桐野利秋、村田新八、別府晋介ら幹部が集い、軍議が開かれた。軍勢は3500人。最大で3万以上いた薩摩軍もそこまで追い詰められていた。明けて15日午前8時、早朝から辺りに立ち込めていた霧も晴れ、戦闘が開始された。このとき、西郷は桐野、村田、別府らと全軍を指揮、一方山縣有朋参軍も和田越からおよそ2km離れた樫山に置かれた第2旅団本営で部隊を指揮した。西南戦争中、両軍の総大将がともに前線で指揮を執るのはこれが初めてのことだった。両軍一進一退の攻防を繰り広げたが、兵力、火力に勝る政府軍が薩摩軍を圧倒し、正午頃には薩摩軍は逃走し、午後2時頃、俵野へと退却する。



 もはや薩摩軍に逃げ道はなく、弾薬、食糧も尽きていて、戦う余力はなかった。
進退窮まる中、8月16日午後、西郷は遂に「解軍令」を発する。「我軍の窮迫ここに至る。今日の事、唯、一死を奮って決戦するにあるのみ。この際諸隊にして、降らんとする者は降り、死せんとする者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯その欲するところに任ぜよ」

 これに応じて、それまで薩摩軍を支えてきた熊本隊、龍口隊、佐土原隊などは相次いで政府軍に降伏した。16日夜、薩摩軍幹部は西郷の宿営所・児玉熊四郎宅に集まり、最後の軍議を開いた。(下の写真)
降伏論、玉砕論など様々な意見が出たが、結局、政府軍の包囲網を突破して脱出するという案が採択された。その後、突出方法について野村忍介は豊後進出を、別府晋介は鹿児島帰還を、桐野利秋は熊本城攻略を主張したが、議論は紛糾するばかりで平行線をたどる。
判断を仰がれた西郷は「まず可愛岳を突破し、三田井に出る。豊後に出るか、熊本へ行くか、それとも鹿児島に帰るか、それからのことはそのときに決めればよい」と決断を下した。
17日夜、西郷は残った数百名の兵とともに可愛岳の突破を敢行する。





 説明をいただいたボランティアの方
        ありがとうございました。








 旅は続きます。

 参考資料   延岡市パンフレット
        サンエイ新書 「戦況図解 西南戦争」






Last updated  2019.11.29 10:59:00
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2019.03.12
カテゴリ:西郷隆盛


 次に訪ねたのは、桐野利秋(中村半次郎)の誕生地。
それは、道路から少し上り坂を進んだ見晴らしのいい場所にあった。
1838年、別府晋介と同じ鹿児島郡吉野村実方の下級武士の家に生まれる。(別府とは従兄弟)
無類の豪胆さで勤皇の志士として活躍し、一般的には中村半次郎の名で有名である。
示現流を体得し、佐幕派に恐れられ「人斬り半次郎」の異名をとる。
戊辰の役で大きな功績をあげ、明治4年には陸軍少将となる。
遣韓掄(征韓論という説もある)に敗れた西郷と帰鹿し、明治7年同志と「私学校」を設立した。
西南戦争では薩摩軍の四番大隊長を務めた。
1977年、西南戦争の最後の城山の戦いで西郷とともに戦死。享年40歳。



 桐野利秋も西郷や同じ薩摩軍の兵士たちと南州墓地に眠る。







Last updated  2019.03.12 11:18:53
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2019.03.11
カテゴリ:西郷隆盛


 大河ドラマ「西郷どん」が終わって2ヶ月以上が経過した現在も、私は未だに西郷隆盛のことにこだわりがある。毎回録画して見てきたドラマは見終わると消してきたが、最終回だけは、録画したまま折に触れて見返している。あの下野竜也指揮のNHK交響楽団が奏でるテーマ曲に勇気をもらったり、西郷の最後の姿など見ることなど考えるとしばらくはそのまま保存したい気持ちが強い。

 明治維新150年の中で、いろいろ新たなことを見聞し、未だに訪れたことのない西郷関連の史跡も多いことも知った。これからもその他の史跡も訪ねる中で西郷関連史跡も訪ねたいと思っている。

 この日は春の陽気に誘われて鹿児島市吉野町実方(さねかた)を訪ねた。
先ずは、西南戦争で西郷と共に戦い、最後に城山で西郷を介錯した別府晋介の誕生地である。

 そこは個人の住宅地内にあった。ただ、夕方6時以降の立ち入りはご遠慮下さいとの表示があるので注意したい。

 別府晋介は当時の吉野村実方で別府十郎の第2子として生まれる。諱(いみな)は景長、通称晋介といった。戊辰戦争では薩摩藩分隊長として奥羽に転戦して戦功を挙げ、維新後鹿児島常備隊長、のち上京して近衛軍少佐。明治6年辞職帰郷し私学校の育成に尽力した。西南戦争では志願者で組織した二大隊を編成し連合大隊長は別府晋介が任についた。六番、七番の連合体で兵員約3千人だったという。
そして、熊本城を攻撃、続いて各地を転戦奮闘したが、9月24日、城山での決戦ではいつまでも自分に従う部下に対し「早く逃げろ」と言ったと伝わっている。最後は重傷の西郷を西郷を介錯し、後に自刃した。時に1877年、享年31歳。
桐野利秋(中村半次郎)とは従兄弟で実の兄弟以上に仲が良かったという。





 鹿児島市上竜尾町にある南州墓地に西郷隆盛や同じ薩摩藩士と眠る。







Last updated  2019.03.11 11:12:12
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2018.09.04
カテゴリ:西郷隆盛


 村田 新八(むらたしんぱち) (1836~1877 明治10年9月24日没 享年42歳)

 高橋八郎の第3子として生まれ、村田十蔵の養子となる。文久2年(1862)寺田屋騒動に連座して西郷は徳之島(のち沖永良部島)、村田は喜界島へ流罪となる。復帰後、王政復古に尽力した。また新選組と剣を交えた。維新後は、鹿児島常備隊の砲兵長。明治4年宮内大丞となり、全権岩倉具視一行と欧米を視察し、明治7年に帰国した。勝海舟は村田を「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり」と賞賛したが西郷に従って西南戦争の挙兵に加わったため政府を驚かせたという。
 
 桐野、篠原、村田の3人は大西郷の三将とも言われるくらいである。西郷は「村田新八は知・仁・勇の三徳を兼備した士。諸君、この人を模範にせよ」と言っていた。西郷とは刎頚の交わりだった。

 また美術を愛し、和歌や漢詩もつくる才人だった。
音楽も好きで、家にいるときはいつも風琴(アコーデオンやコンサーティーナ)を手放さなかったという。西南戦争従軍中も常に持ち歩いたという説もあるようだ。

 西郷とは刎頚の友で、西郷が倒れたあと、「ああ、天なり」と長嘆し、涙が下る間もなく、銃弾があたり、立ったまま腹を切ったという。
西南戦争では薩軍2番大隊長を務めた。


 次は永山盛弘(弥一郎)の墓


 永山 盛弘(弥一郎)(ながやまもりひろ やいちろう)
  天保9年(1838)~明治10年(1877)没 享年40歳

 永山休悦の第1子として薩摩国鹿児島郡荒田村(現在の上荒田町)に生まれる。
若くして勤王の志を抱き奔走した。文久2年(1862)有馬新七らに従って京都の上り挙兵に加担して失敗(寺田屋騒動)したが、年少であったため処罰を免れる。

 明治2年(1869)に鹿児島常備隊がつくられ大隊の教導となった。明治4年(1871)藩が御親兵を派遣した際には、西郷に従って上京し、陸軍少佐に任じられた。しかし、ロシアの東方進出を憂えた弥一郎は、志願して開拓使出仕に応じ、北海道に趣いた。明治6年(1873)征韓論敗れたと言われる西郷が下野し、近衛の将校が大挙して退職した時も、彼らと行動をともにすることはなかった。
明治8年(1875)軍に復帰して陸軍少佐に任じられ、屯田兵を率いたが、政府が樺太・千島交換条約を締結したことに憤慨して、職を辞して鹿児島に帰った。永山は政府高官を無能とはせず、大久保利通や川路利良らに対し一定の評価をし、私学校に与しなかった。

 明治10年(1877)中原尚雄の西郷暗殺計画を聞いた会議に同席し、憤慨したものの出兵するか否かを決した私学校本校での大評議では大軍を率いての上京には反対の態度をとる。しかし桐野利秋の熱心な説得で漸く同意した。弥一郎は3番大隊長となって、10箇小隊2000名を率いた。
4月12日熊本の緑川から川尻を攻略するため進撃を開始したが、砲弾の破片を浴びて足腰に重賞を負い熊本の二本木本営に護送された。しかし、翌13日、苦戦を聞いて人力車に乗って御船に出陣、川路少将の別動第3旅団との戦いの指揮をとった。そして矢尽き刀折れるまで戦い、四面楚歌の状況に陥った。
そこで近くの農家の老婆に数百円を渡し家を買い取り、自ら火を付け自刃した。撤退を勧めにきた税所左一郎に介錯を頼んだとも言われる。
 



 参考資料 「かんまち本」その二  ウィキペディア 
      「激闘田原坂秘録」肥後評論社






Last updated  2018.09.04 17:33:46
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2018.09.02
カテゴリ:西郷隆盛

 明治10年9月1日、今から141年前、西郷隆盛が鹿児島に退却してきたこの日に「上町維新まちづくりプロジェクト」主催の「140年前にタイムトラベル! 西郷さん 城山へ向う・・・」に友人たちと参加した。西郷が鹿児島に入り「一つ橋」の近くの田中七之丞宅に一泊した場所から「西郷隆盛終焉之地」(碑文は南洲翁終焉之地)まで歩こうという企画である。

 明治10年(1877)2月15日、夜間に降った雪が50年来こんなに降ったことがなかったと古老が言う6インチ(15cmあまり)も降り積もった中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面に向けて出発。あとを追って2月17日、西郷隆盛も桐野利秋と共に出発し、加治木、人吉を経て熊本へ向かった。
ことここに至るには、東京から送り込まれた警視庁警部中原尚雄らの告白にもとづく西郷暗殺計画の陰謀があったことがわかり、上京の理由として西郷、桐野利秋、篠原国幹の連名で「今般政府へ尋問の筋これあり」と初代鹿児島県令(知事)大山綱良へ届け出てのことである。続けてこれには「旧兵隊の者共随行、多数出立致し候」と書き添えていた。

 それから約半年後、西南戦争の最後の激戦「和田越の戦い」(宮崎県延岡市)で破れ、8月7日夜、延岡西方の可愛岳を突破した薩軍約600名は鹿児島城山までの退却の道を辿ることになった。

 1、明治10年9月1日、午前10時5分 鹿児島市吉野「帯迫の戦い」
前軍、中軍が吉野私学校(現在の吉野小学校)で休憩。軍議中に帯迫も官軍の攻撃を受けた。
前軍は辺見十郎太に率いられて鹿児島に突入、中軍を率いた貴島清が帯迫で戦い、河野圭一郎が実方橋を守った。西郷隆盛は、狙撃隊に守られて前軍と共に一つ橋の方に向かったと考えられている。

 下の写真が「一つ橋」(現在の橋は平成6年12月に完工したものである)
 (この「一つ橋」は平安時代の末、長谷場氏が鹿児島を支配した頃、アベキ川・現在の稲荷川に架かっていた唯一の橋。それが呼び名の語源と言われている)
因みに私は高校生の3年間、通学の往復にこの橋を渡っていた。当時は西郷とこういう因縁のある橋とも知らず渡っていた。

 
 (橋の向こうに見える山は島津家五代当主貞久が南朝方の肝属兼重らが立てこもる東福寺城を攻略し六代氏久を住まわせた東福寺城のあった多賀山。)

 この日の参加者は34名。朝方強い雨が降ったために中止も検討されたようだが、小康状態となり2班に分かれて出発することができた。



 2、午前11時 西郷隆盛は、一つ橋の田中七之丞宅に着。宿泊。
   田中七之丞宅は現在は「一つ橋 米穀店」とあるが、営業中かは不明。
前軍の辺見十郎太らが私学校突入し、私学校を占領。



 その後、「家鴨馬場」(鹿児島弁では「アヒルばば」を「アヒイばあ」という)を通る。


 「佐衛門坂」は「せもんざか」と言う。

 
 一行はひたすら歩き続ける。


 西郷隆盛他、西南戦争で倒れた戦士の墓地である「南洲墓地」の下を通る。
「般若院小路」は「はんにゃいんこすっ」と言う。


 西郷の薩軍の行動は9月2日、一つ橋の田中七之丞宅を出てから9月24日、終焉の日を迎えるまで城山に籠る動きだったが、ここでは「上町維新まちづくりプロジェクト」の企画による動きに合わせて書いている。

 西郷の薩軍の涙か、「南洲翁終焉之地」に到着する頃にはまた大雨となった。
石碑も周りも雨に霞んでいる。ここは終焉の地ではなく石碑であって岩崎谷全体が「薩軍最後の地」であったことを示している。


 終焉の地はここ。写真撮影の手際が悪く場所がわかりにくいが終焉之地碑から城山に向かって110mほどの場所。島津応吉久能邸前だと言われている。左側には城山トンネルがあり、伊敷方面に抜ける道路になっている。


 ここは西郷の遺体の首が見つかったとされる場所。
介錯されたあと、西郷の首が無くなったと言われたが、このあたりで見つけたという。


  地図の写真はネットから借用した。この地図は南洲墓地の説明版のものと思われる。




 話は前後する。
3、9月1日 本営の移動
   平田盛二日誌 薩摩郡東郷町出身 狙撃隊所属(狙撃中隊は総大将西郷隆盛の護衛を任務とした)
   晴れ、今日蒲生を午前1時に出立、吉田郷鈴松で一時休息、吉野村に突入、同所学校において軍議  のところ、官兵突然後ろの山より砲撃す。よって前軍は鹿児島へ突入、後軍半道を絶たれ、中軍半は官兵を攻撃す。即ち城山を乗っ取り・・・・・今日本営は1ツ橋田中七之丞へ置く、一時は谷山郷までも領し、磯辺まで追撃、谷山郷に味方病院を置く。
  9月2日   晴れ 今日 本営を岩崎江直す。護衛す。谷山口、磯辺等も防兼破歩。
   
   行進中隊小隊長松本利器上申書;下伊敷村 出身より
  9月1日 後軍は花棚で官軍と交戦。夜に入り関谷→牧山→中別府→雀ヶ宮を経て、2日鹿児島に進入、鳥越の塁を守備。官軍に攻められ城山へ。 懲役3年(秋田)

4、9月3日 城山一帯に陣を構えて、戦いに備える。

5、9月24日午前4時 官軍の総攻撃始まる。
 西郷隆盛、洞窟の中で身支度をして、薩軍防塁の大手口とも言うべき岩崎口に向かって、進軍を開始した。しかし、西郷の大きな体に2つの小銃弾が食い込んでつんのめるようにして倒れた。すぐに体を起こし、後の別府晋介をかえりみて、「晋ドン、モウココデヨカ」と伝えると、正座して東を遥拝した。「ごめんなったもんし」(お許しください)の掛け声とともに別府晋介の太刀が一閃して西郷の首は落ちた。
こうして西郷は49歳の生涯を閉じた。
西郷の死を見届けた後、桐野利秋や村田新八といった主だった幹部は堡塁に趣いて壮絶な戦死を遂げた。城山から銃声が途絶えたのは午前7時頃であった。城山の最後の戦いで戦死した薩軍の兵士は約160名投降した者約200名。
西郷の首は薩軍によって隠されたが、すぐ発見され政府軍幹部の実見によって西郷と確認された。

 参考資料 上町維新まちづくりプロジェクト配布の当日資料。
      「かんまち本」その二
      「西南戦争 遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄13」萩原延壽著 など。







Last updated  2018.09.04 06:32:14
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2018.08.23
カテゴリ:西郷隆盛


 桐野 利秋(きりのとしあき)(1838~1877 明治10年9月24日 没 享年40)
桐野の墓は西郷の墓に向かって左隣にある。
桐野利秋といえば 司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(一)の文春文庫の 「はじめに」 に次のように書かれていたことを思い出す。(1980年1月25日第1刷 手持ちは1990年3月15日第31刷)
  ーいっど、吉野に、行たっおじゃはんか。
    (クマタツ鹿児島弁解釈  ー一回吉野に行ってみられませんか。)
という言葉であったか、鹿児島市内の知人に、市内から東北へすこし離れた吉野郷という高原に行くことをすすめられた。吉野郷は桐野利秋という、この小説の最後まで登場する汗くさい男のうまれ在所である。

 そうこの吉野は桐野利秋の在所である。
この時は吉野を吉野郷と呼び、高原といっているが、「翔ぶが如く」は1972年の1月から1976年9月までで毎日新聞朝刊に連載されたことを考えると、司馬遼太郎が吉野を訪ねたのはその構想を練るためであり、1971年(昭和46年)以前のことだろう。私が鹿児島を出る1962年(昭和37年)頃は吉野はまだまだ畑が多かったので司馬遼太郎もそう変わらない桐野の在所を見たのではなかろうか。
その吉野もその先の溝辺に1972年(昭和47年)に鹿児島空港が開港し高速バスとつなぐリムジンバスの通行路になったことや区画整理により見違えるような街に生まれ変わっている。

 桐野利秋は吉野の下級武士の家に生まれた。前名は半次郎。
桐野が西郷と運命を共にするほどになったことについては逸話があるが、長くなるので割愛する。
戊辰戦争の東海道の先鋒、ついで会津征討軍軍監として会津城受け取りの大任を果たした。立ち木を相手に一人で極めた示現流は佐幕派に恐れられ「人斬り半次郎」の異名をとった。明治維新後陸軍少将となるが、明治6年(1873)西郷が対朝鮮問題で当時の他の政府首脳と対立(私はその説はとらないが、いわゆる征韓論)し帰鹿するのに同行し帰鹿する。明治7年同志と私学校を設立、西南戦争では薩軍4番大隊長だったが、事実上の総指揮官として奮戦し、城山岩崎谷で戦死した。



 次は篠原国幹の墓


 篠原 国幹(しのはらくにもと) (1836~1877 明治10年3月4日 没 享年42)
記録奉行の家に生まれる。通称は冬一郎。
剣は薬丸半左衛門に学び、謹厳寡黙な人であった。
薩英戦争では砲台守備に出陣した。
戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いに参戦した。上野の彰義隊を攻めたときは正面の黒門攻めを担当し、その陣頭指揮に経っての指揮ぶりの勇猛さで世に知られた。その後、奥羽に転戦した。後に陸軍少将になる。近衛長官。
言行一致で全軍を統率し陸軍の手本・模範と言われた。
藩校造士館で和漢学を修めて、私学校が創設されると総監督として子弟の教育に当たった。
西南戦争では薩軍の1番大隊長を務める。
熊本城の戦いを皮切りに始まった戦闘は官軍の増援により次第に転戦を余儀なくされていいた。
そして明治10年3月4日、田原坂は吉次超えの戦闘により篠原の元部下・近衛歩兵第1連隊第2大隊長江田国道少佐率いる射撃手に撃たれた篠原は弾を数発受けてその場に崩れ落ちた。壮絶な死であった。



 参考資料 「かんまち本、その二」 肥後評論社発行「激闘田原坂秘録」、ウィキペディア






Last updated  2018.09.04 17:35:47
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