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ジージの南からの便り

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エッセイ

2020.09.21
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カテゴリ:エッセイ

私の所属する男声合唱団・楠声会では「楠声会 会報」を毎年数回定期的に発行している。
これまでも数回投稿してきたが、今年の始めだったか編集者から「クマタツさん、次回発行の会報にブログのことを書いてもらえませんか」という話があった。私は「自慢できるようなブログでもないし、ましてやブログについての投稿なんて・・・」と断った。しかし、編集者の立場も考えて表題の「迷走! 迷走!私のブログ」という文章をどうにか書いて投稿した。

割り当てられた字数で書き上げてはみたものの読み返してみるとなんとも尻切れトンボの文章になってしまった。そう思いながらも当時何があったのか思い出さないが慌ただしくそのまま投稿してしまった。
あたかも続編があるような文章で恥ずかしい限りであるが、恥を忍んでそのまま転載する。


 「ジージの南からの便り」が拙ブログのタイトルである。そのブログは今回振り返ってみると、書き始めていつの間にか13年近くになっていた。休み休み、試行錯誤しながら、迷走に迷走を重ねて、遂に前年の12月末に1100回に到達した。正直言ってもの好きで、好奇心の強い私が大した覚悟も信念もなく、気まぐれに始めたものだった。
 2008年の4月に始めているが、当時、それまでの鹿児島での親会社との共同経営から退き、親会社に復帰する形で監査室勤務となり、鹿児島在住のまま九州管内の関連会社の監査を一手に引き受けていた時代である。週3日くらいの勤務で、パソコンで次の監査先の売掛金などの精査をし、月に一回臨店のため訪問し、3泊4日くらいで監査をするという比較的ゆったりした勤務状況であった。この頃は、市民農園を借りたり、近所の仲間たちとグラウンドゴルフを始めたり、これからの第二の人生を模索していた時である。

 そういう中で始めたブログは、日常の瑣事を書き綴ることが多かった。しかし、ちょうど一年過ぎた2009年5月、銀行勤務から始まった47年2ヶ月の会社生活が全て終わってしまうのである。ときに69歳と5ヶ月の齢を重ねていた。そのあと70歳まで続けていた楠声会の本部会計も終えて気持ちにも余裕ができてきた。
それから2年くらい経って、もともと好きだった鹿児島の歴史を改めて知ろうと思い、史跡の探索を始めた。初めは私の住む武岡周辺の武町や田上、常磐、小野などの史跡を巡っていたが、母校である清水中にあったと言われる清水城跡、これも母校の玉龍高校の裏山にある福昌寺の島津家墓地など市内一円の史跡を訪ねるようになった。次第に足を伸ばして県内の山の中に分け入ったりして、古い石造物や墓標を探して自分で写した写真と共にブログに書くようになっていった。

 私は、楽天ブログを使っているが、当初はカテゴリの分類もなく、途中でカテゴリが導入されるなど13年の間には幾多の書式変更など変遷を経て、今日のスタイルに落ち着いている。拙ブログのカテゴリで現在一番多いのは「未分類」の302件であるが、これは分類の項目がなかった頃の名残であり、不精者の私が未だにその分類を怠っている証である。多い方では「鹿児島県の歴史」267件、「つれづれ」115件、「旅行・ドライブ」97件、「男声合唱」64件などである。

 「鹿児島県の歴史」の他に「西郷隆盛」と「島津一族」などの項目をつくったのは、NHKの大河ドラマ「西郷どん」や南日本新聞の年間連載記事「島津義弘没後400年」に依るもので、高校の同期生の歴史好きで「玉龍八期歴史会往来」を主催し、メーリングリスト化して月に一回、会報を出してくれるKくんの影響が大きい。私もそれには積極的に参加して、いろいろなことを書くようにしているが、シリーズとして書こうと思っていたブログの方は「西郷」も「島津」も完結には程遠いものがある。

 話題は変わってブログを書いていると「ブロ友」というものができる。それはブログの下に「コメント」を書き込む欄があって、同好の士が感想などを書き込むのだが、それが縁で楠声会の第10回演奏会に夏の帰省に合わせて東京から帰ってきて聴いてくれた女性がいる。鹿児島出身で小学生二人を子育て中の女性である。私とは一面識もないが、次の演奏会も心待ちにしてくれているようである。ブロ友については、13年の間にはいろいろな出会いやエピソードがある。一緒に史跡を訪問したこともある30代のブロ友が「鹿児島古寺巡礼」という本を出版したのには驚いた。


 以上が投稿の全文であるが、最初にも書いたようになんとも中途半端なものになってしまった。
会報は今年の春に発行される予定であったが、コロナ騒ぎで編集もままならず、やっと出来上がって昨日の練習時に配布された。同時に全国に500人くらいいる会員にも発送されたものと思う。







Last updated  2020.09.22 17:43:33
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2020.09.04
カテゴリ:エッセイ
「本の整理」というタイトルでいつかエッセイを書いたことがあったなあと思いながら、振り返ってみた。そして当ブログのカテゴリ「エッセイ」欄にそれを見つけた。2012年9月21日に書いていた。
実際は2009年12月10日に書いたものを、あることがキッカケでブログに転載したものだ。

 実際は2009年からそう思っていたことがわかったのだが、その「本の整理」にこのコロナ禍の閉じこもりの閑を幸いに今頃になって、本格的に始めようと思い立ったのだ。

 まず先週の火曜日の紙類のゴミ集配日を目指して一階居間の本棚の整理を始めた。
私と妻のそれぞれの本の整理分類で約250冊のもう必要としない本を選び出して廃棄した。
BOOKOFFに持ち込むことをしなかったのは、もうだいぶ前に持ち込んだ時に、大した本でもなかったせいか、2足3文にしかならなかった経験があったので、今回は再生紙になるようにと願ってのことであった。



 続いて上の写真のほぼ私専用の2階の本棚である。
ここには私が暇にあかして読みあさった多くはBOOKOFFで買ったものである。
好きな4,5人の作家の本を集中して読んで置いてあるが、ここでも3段目に山積している不要な本が200冊以上出た。来週の火曜日にゴミとして出す予定である。

 この10年くらいの歴史に関心を持ってから読み始めた本や史料はー階の廊下の本棚に置いており、必要に応じて取り出している。この部分には現在のところ廃棄するような本などはないと思っている。

 いずれにしても家庭用品や雑貨類、衣料なども断捨離をしてこなかったので、家中モノが溢れている。今回の本類の整理を第一弾として、思い切った断捨離をしようと思っている。






Last updated  2020.09.04 16:40:03
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2020.06.06
カテゴリ:エッセイ
武にあった島津どんの墓地の移設先




昭和21年疎開先の薩摩郡東郷小学校小学校に入学した私は、小学3年生の昭和23年の秋頃だっと思うが、父のフィリッピンでの戦死の公報を受けて、元々の生活根拠地の鹿児島市に帰ることになった。
家族7人での鹿児島市への帰還である。

 男手のない引越しで大変だったようだが、東郷に住む従兄弟たちの加勢で鹿児島市に帰ることができたと聞いたのは大人になってからのことである。
母の話では戦前、住んでいた家(鹿児島市武町で現在は中央町)は土地だけ借りて、家は自前のものだったそうだが、鹿児島市への大空襲により焼失し、焼け跡には風呂釜が転がっていただけで全てを失っていたという。

 因みに鹿児島市への空襲は前後8回あったそうだが、昭和20年(1945)6月17日の大空襲では市内一円に渡り死者2316人、負傷者3500人を数える最大の被害を被った。
120機のB-29がマリアナ諸島から飛来し、午後11時に鹿児島市に達し市内の44,1%が損壊し、最終的には3300人が亡くなったという。市街地の93%が焼失するという大空襲だった。
当時、女学校に通うために一人だけ鹿児島市の叔父の家に残っていた長姉が叔父たちと一緒に私たちの疎開先の東郷町まで命からがら逃げてきた時の話では、城山の入口まで逃げてきた馬などが力尽きて、そこここに倒れて死んでいたそうだ。

 鹿児島市に帰ってきて住んだ家は、疎開前に住んでいた本籍地のある家の山手にあって、現在私が住む武岡の下に位置している。結局生涯を通じて武町周辺とは縁が続くことになる。借家は大叔父の知り合いの隠居所だったようで部屋は畳敷二間、二畳くらいの板の間、土間のある台所、廊下が少しあるという家であり、当時なればこそ住めた家であった。

 小学校3年生で武小学校に転校し、その家に武中学2年の途中まで約5年間住む事になる。
家主さん夫婦は当時70歳代だったと思うが、私や弟を可愛がってくれて、武岡に持っておられた芋畑によく連れて行ってもらったものだ。芋畑へは現在私の住む武岡への急な坂をリヤカーを押して上り、さつまいも(かごっまでは「からいも」という)を収穫したり、また保存のために穴を掘ってその中に埋めてああたりあったりしたものを掘り出して、リヤカーに積んで今度は急坂を逆に紐をつけて引っ張りながら帰るのである。帰りついたらバケツいっぱいのさつまいもをお礼と言っていただくものだった。

 当時は井戸で水汲みをやっていたが、家主さんと共用である。時々井戸の掃除のために家主さんがロープを使って井戸の底に降りてバケツで溜まったゴミなどを汲み出しておられたのを覚えている。
当時の遊びはすぐ近くにあった笑岳寺跡墓地が隠れんぼをしたり、飛び回ったりで格好の遊び場でもあった。広い墓場の山際には戦争中に掘られた防空壕があって、近所の悪童仲間とおっかなびっくりで中に入り、懐中電灯に照らされて見えるゲジゲジと言っていた足の長い虫の集団を見ては、鳥肌を立てながら皆で一斉に大騒ぎをしながら外に飛び出したものだ。怖いもの見たさにやったことである。

 我が家と笑岳寺跡墓地の間には「島津どんの墓」と言っていた島津家の墓地もあり、(上記「武にあった島津墓地の移設先」参照)その下には二階堂家の墓地もあった。そこも子供にとっては神聖な場所にもかかわらずいい遊び場であり、山から竹を切ってきてチャンバラごっこなどをして遊んだ。武町に住んだこの頃は子供遊びが多くたくさんの経験をしたものだ。「目玉」(ビー玉)、「カッタ」(面子)、缶蹴り、独楽、凧揚げ、そして自転車に乗れるようになったのもこの時期だった。友達もたくさん出来たが、やがて中学2年生でここから清水町に引っ越すことになる。小学校一回、中学校一回という2回の転校をすることになったのだった。






Last updated  2020.06.06 16:10:09
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2020.05.05
カテゴリ:エッセイ
コロナは「王冠」とのことだが、今や全世界からの嫌われ者である。
私たちは、時代にそぐわない王冠など戴きたくもないもないのに、知らない間にそれを冠らされようとしている。しかも念入りに「新王冠」だという。そんなものはいらない。

 その騒ぎを知ったのは2月3日、横浜港に到着していたクルーズ船「ダイアモンド・プリンセス号」からもたらされた「新型コロナウイルス」感染のニュースだった。
クルーズ船は鹿児島にも寄港し、乗客が鹿児島観光をしたことなども報じられ、緊張が走ったが、調査の結果、事なきを得てホッとしたのを覚えている。

 その気分が一転したのは、私のメモ代わりの手帳に2月20日に「新型コロナウイルス福岡で発生」とあるるように九州に感染者が発生したことであった。
そのことがあって、いい加減な私も2月22日の講演会「戊辰戦争と薩摩藩」、27日の高校同窓会の幹事会、29日の「鹿児島城御楼門復元の意味するもの」講演会、など出会などを回避する。
3月2日、予定されていたスクールコンサート中止、3月から毎週日曜日のコーラスの練習も休止。
3月7日、かごしま遺跡フォーラム「発掘調査が解き明かす鹿児島城と西南戦争関連の物語」欠席。
3月9日、伊敷歴史研究会「島津家家臣団系図表」「島津歳久と日置島津家」欠席。
3月10日、小学校スクールコンサート中止、12日鹿児島史談会「中世蒲生氏の山城と近世蒲生氏の外城・麓」中止。

 そういう中で、3月26日~28日、不謹慎にも長崎~阿蘇へのドライブ旅行(孫の卒業祝いを兼ねて)心からは楽しめなかったが、それなりに・・・。
老人会の花見中止、追い打ちをかけるように4月末からは週2回のグラウンドゴルフも休止して自粛。

 こうして振り返ってみると、好きなこともできない不自由さを久しぶりに味わういい経験にもなった。
先の見えない中で、これからの「コロナの日々」はどうなっていくのだろう。






Last updated  2020.05.05 11:44:16
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2019.12.29
カテゴリ:エッセイ
1999年12月29日、母は亡くなった。今日は20回目の命日である。
明治41年(1908)1月11日生まれだから、満90歳であった。
あと3日生きていれば、21世紀の空気を感じることができたものをと20年経った今でも思う。

 母は特別な病名は付いていなかったが、それまでも入退院を繰り返していて、それでも盆・正月は自宅に帰れるような状態が数年は続いていた。しかし、3年くらい前からは用心深い母はそれもしなくなり、いわゆる老衰みたいな状態にあった。

 当時、現役だった私は、仕事を終えて三角形に位置した会社→病院→自宅という回路で病院に行って、先に行っていた妻と一緒に帰るという毎日だった。
亡くなる1ヶ月くらい前からは、妻や姉が食事の度に一匙を口に入れて食べさせるのに苦労するようになっていた。もう食べる気力が無くなっていたのだろう。しかし、頭はそこそこに冴えていてそこで苦労することはなかったのは幸いだった。

 亡くなる前日の28日夜、私は1999年の最後の仕事を終えていつものように病院に向かった。
母の様子もいつもと変わらず、この年も病院で年を越すという。そういう母に「また、明日な」と言葉をかけて、妻より一足早く病院の駐車場に向い、エンジンをかけて車を温めていた。しかし、いつもと違って妻がしばらく降りてこない。やっと車のところに来た妻に「えらい、今日は遅かったね」というと「お母さんが、もうかいやっとな」(もう帰るのか)と言ったとのことで、しばらく留まっていたのだという。これまでにそういうことは、記憶になかった私たちは「今日はどうしたのだろうね」とお互いに言いながら家路についた。

 家に帰って、明日からの正月休みを楽しもう、生まれたばかりの孫を連れて娘家族も地方から我が家に帰ってきているし、東京にいる次男も帰ってくるとのことで、久しぶりの家族団欒をと思ってその夜は眠りについた。

 29日の朝、5時過ぎごろだっただろうか、枕元に置いていた子電話の音が、けたたましく鳴り響いた。私は何故か瞬間的に頭の中を何かが駆け巡り「母が・・・」と思った。
病院からの電話だった。「様子がおかしいのですぐきてください」とのこと。私と妻は車を飛ばしてすぐに駆けつけた。看護師さんたちが慌ただしく動き回って、ベッドの周りには大きな機材が置かれていた。
しかし、間に合わなかった。私たちが到着する前に息を引き取っていた。
昨夜の母から妻への「もうかいやっとな」と言った言葉は、母が自分の寿命を悟っての言葉だったのだろうかと後々夫婦で話すことである。

 それからの2,3日のことは、どう過ごしたのか順番など覚えていないが、29日早朝に亡くなったこと、正月が近いことなどを考えてその日の夜に通夜、翌日葬儀ということを決めて、長男喪主ということで走り出した。父は私が5歳の昭和20年6月1日にフィリッピンで戦死しているので、葬儀のことなどは映画の一コマ一コマくらいの記憶しかない。もちろん葬儀を取り仕切るのは初めての経験である。
親戚や関係者への連絡、葬儀社との細かい打ち合わせなど、アッという間に夕方になってしまう。
葬儀社に母を運び、弔問客を迎えるなどするうちに、千葉、神戸、滋賀に住む兄弟家族たちも、年末のラッシュの中を臨時便などを使って帰ってきた。
翌日、葬儀など一式を済ませ、遠くの兄弟や親戚には、帰ってもらうことにして、残こされた我が家は大晦日、元旦など所在なく過ごすことだった。3日になって、子供たちもいることだし、お雑煮くらいは作ろうということで食べたのを覚えている。

 明治・大正・昭和と3代を早くに未亡人となって波乱に満ちた生涯だったと思う母だが、その母の年齢に私もあと10年となってきた。私は90歳まで生きるとは思っていないが、残された人生はどうなるのか、いろいろなことを考える今日この頃である。

 一年間ありがとうございました。
2008年4月9日にもの好きで始めた当ブログも、今日で1100回を迎えました。
記入率は25.3%と4日に一回しか書けていません。長い時は6ヶ月くらいのブランクや2,3ヶ月の空白はザラという頼りないブログです。来年1月5日には満80歳を迎える「ジージの南からの便り」をいつまで続けることができるかわかりませんが、これまで同様、力まずにいきたいと思います。
皆様いい年をお迎えください。






Last updated  2019.12.29 20:38:03
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2019.11.24
カテゴリ:エッセイ
戦局も行き詰まりつつあった昭和19年の秋、生まれた鹿児島市の家を離れ、薩摩郡の上東郷村(現在の薩摩川内市東郷町)五社へ疎開をすることになった。父が2回目の出征をし、残された家族9人の疎開である。
家族は母、父方の祖母、姉3人、私、弟1人、妹2人の大家族だった。

 疎開先は、母の2番目の姉の家(私からすれば叔母の家)の隠居所であった。その叔母の家は子供12人という我が家に負けない大家族である。屋敷が広く家の前には畑もあり、家の周囲は孟宗竹や銀杏木や椿などさまざまな樹木で覆われているようなところだった。

 子供の記憶なのでおぼろげなところもあるが、そういう田舎でも空襲があった。そういう時は従兄弟たちが掘った一人づつ入る「蛸壺」と言っていた防空壕に入って飛行機の去るのを待ったものだ。
防空壕に入る余裕もないくらいの米軍機の来襲が1回あって、防空頭巾を被って家の畳の上に伏せたことがある。そのとき、おっかなびっくり防空頭巾と畳の間から家の前の畑の先にある孟宗竹の林を見ると、米軍機が竹の上を掠めるように飛んで、孟宗竹の上部が揺れていた。
その日だったか、当時 上東郷村の中心部の街と言っていた舟倉に住む母の一番上の姉などが空襲を受けた。私たちは従兄弟達と一緒に五社の入口で街から続々と荷車などを引いて避難してくる街の人々に叔母たちの安否をたずねたものだ。その後の経過は記憶にないが、街に住む叔母一家も無事だった。
その叔母たちも、五社の家にいて、しばらくして屋敷に家を建ててしばらく住んでいた。終戦後にはしばらくして街の家を再建して帰って行ったように記憶している。

 五社での思い出は、前のエッセイにも書いたように「父の戦死の公報」「一番下の妹の死」など悪い思いでもあるが、悪い思い出ばかりではない。
何よりも疎開をしていなければ、母方のたくさんのいとこ達と親密な關係を築くことはできなかっただろうということが一番である。当然のことながらいとこ達とも現在も冠婚葬祭を中心に行き来ができるということがありがたい。
小学校に入学したのが昭和21年、担任の先生方もよく覚えている。3年の時、父の戦死の知らせがあり、田畑もない我が家の行くすえを考えた母や祖母の考えだったのだろうが、再び鹿児島市に借家を借りて帰るまでの間のいい思い出も多い。
 
 田舎ならではの、風習があり、十五夜の綱引きや相撲大会に出場させられすぐに負けてしまったこと。また学校の帰りに牛の引く荷車に乗せてもらったこと。川内川が氾濫すると普段は桑畑の泥水の中で泳いだことなど思い出は尽きない。






Last updated  2019.11.24 11:38:01
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2019.10.23
カテゴリ:エッセイ

 私の生まれたのは、昭和15年1月5日。西暦では1940年である。
この年は紀元2600年とも言われている。いずれもキリが良くて覚えやすい。
戸籍上はそうなっているが、実際は昭和14年の年末に生まれたらしい。これは両親を除く近親者の話でわかったことだ。一時、母親にそのことを聞いたことがあるが、それを強く否定されたので、逆に14年生まれということに確信を持った。それでも覚えやすいことなど利点もあるので、それ以降こだわらなくなった。今頃、紀元2600年なんて言うと、若い人は、「何のことだ! 化石の話か!」と思うかもしれないが、私の頭の中には「♪゜・*:.。. .。.:*・♪紀元は2600年♪゜・*:.。. .。.:*・♪」という部分だけは、メロディが今も頭の中を流れる。(参考までにYou Tubeでも流れています)

 姉が3人いて4番目の誕生が長男の私だったので祖父が喜んで仏壇に燈明をあげたそうだ。
その後、弟、妹、妹と生まれて、7人兄弟だった。しかし一番下の妹はその後、疎開先で短い命を閉じてしまった。ただ荒波をくぐり抜けた6人は88歳の姉を先頭に皆元気である。

 生まれた家には、疎開をするまでの5年足らず住んでいたことになるが、どのような家だったかも、ほぼ記憶にある。角地にあって、2階建で間取りも、2階への階段の位置も、家の中に土間があって、その奥には祖父が縄を作る工場もどきがあったことも、東側にはお茶を売る店もどきがあったことなどもほぼ覚えている。2階には釣り好きだった父がイカ釣りの疑似餌を鴨居にきれいに並べていた。

 父の職業は銀行員だった。
その父との思い出はほとんどないと言っていい。ただ、いろいろな場面場面が写真や動画みたいに頭の中を駆け巡るくらいのものだ。
私が大きくなって聞いたことだが、父は2回出征したという。2回目の出征で帰らぬ人となってしまったのだが・・・。その1回目だったのか、2回目だったのか今になってはわからないことだが、小さかった私は、西鹿児島駅は近かったにもかかわらず連れていってもらえなかったのだろう。家のすぐ裏にあった鹿児島本線を走り去る汽車を誰かに連れられて見送った記憶がある。その時の父の姿は自分で後で作ったイメージかもわからないが、軍服姿に帽子を被っていたような記憶として残っている。

 その武町の家にも防空壕があって、いざという時の準備はあったようだが、それくらいでは危ないと思ったのか、子沢山に父方の祖母まで抱えた母の決断だったのだろう、母の里の薩摩郡の上東郷村に叔母(母の二番目の姉)の家を頼って疎開する。昭和19年の秋のことである。(続く)







Last updated  2019.10.23 17:32:49
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2019.09.06
カテゴリ:エッセイ
このエッセイは、まさに青春だったころの50年以上前の思い出を、10年くらい前に振り返って書いたものである。

                 「フォーガイズ」

 22歳で社会に出て、地元の銀行に就職した私の初任地は、思いもかけず県外の小倉支店であった。
昭和37年の春のことで、北九州市誕生の前年、東京オリンピックの前々年であり大きな希望を持てる時代であった。世間知らずの私には本当にそう思える時代だった。

 小倉の繁華街・京町の商店街に支店はあり、その裏の独身寮が私の住まいとなった。私と相部屋になったのは、社歴では1年先輩ながら19歳のM青年だった。このM君が好青年ですぐに意気投合、一緒に行動するようになった。寮生活に潤いを求めていた私は、学生時代に歌った合唱のことが忘れられないこともあり、歌のうまかったM君を誘って、「小倉市民合唱団」(現在の北九州混声合唱団)の門をたたいた。

 学生時代の男声合唱団とは違って、混声合唱団だったが、私が求めていた雰囲気の合唱団であった。
やがて、そこで気の合った4人の野郎で結成したのが男声カルテット「フォー・ガイズ」である。
トップテノールが問題ガイの私、セカンドテノールが音楽センス抜群で編曲もこなすナイスガイのけんちゃん、バリトンがタフガイのM君、バスが正真正銘のトリガイの4人である。

 始めた頃は、レパートリーも何もあったものではない。私が学生時代に歌った楽譜を引っ張り出して歌っていたが、けんちゃんが編曲も手がけるようになり、彼の編曲による男声四重唱曲「ラ・ノビア」(ペギー葉山がソロで歌っていた)はフォー・ガイズにとって得意な一曲となった。合唱団で出かける慰問演奏会や「北九州勤労者音楽祭」、団員の結婚式、懇親会などでよく歌ったものだ。

 そして、その後のフォー・ガイズのことである。
それぞれ結婚もして、仕事も多忙になり、、転勤もあったりで、いつの間にか合唱団からも足も遠ざかってしまった。しかし、お互いの消息がわかるくらいの付き合いは続いていた。
問題ガイの私は転職して、八幡、長崎、徳山、鹿児島と転勤して波乱の人生をおくっていたのだが、銀行の同僚だったタフガイのM君はその後も、順調に銀行の階段を駆け上がり、各地で経験を積んだ後、若い頃、私と一緒に勤務した小倉に戻り、支店長となる。その後、鹿児島の本部の部長となっていった。
私も鹿児島に帰って、それまでの会社の現地法人を経営するようになっていた。M君の娘さんの結婚式にも呼ばれたりして、今後の交流を楽しみにしていた矢先、そのM君が突然の病で急死してしまった。お葬式で会った娘さんはお腹が大きく、孫の顔を見ることもなく逝ったM君の無念さを思い涙が止まらなかった。

 それから2年後、今度はナイスガイのけんちゃんが亡くなったとの連絡が北九州の仲間たちから入った。彼も私より1歳だが年下である。
4人のうち、二人が50歳そこそこで亡くなって、後に残ったのは問題ガイの私と同じ歳のトリガイの二人である。つまり年長の二人が生き残ったのだ。たまたまこういうめぐり合わせだったのだろうと思うほかない。

 いまでも「ラ・ノビア」の曲がテレビやラジオから流れると、青春真っ盛りの良き時代の「フォー・ガイズ」を思い出して涙が溢れてくる。我が青春の思い出の一曲である。

                                 以上

 ここからは、生き残った二人の物語である。
正真正銘のトリガイは今も、北九州・小倉で元気に暮らしている。
トリガイ夫婦はステンドグラス制作に一生懸命で、力作をたくさん見ることができる。
そして、週一回、北九州混声合唱団の練習も欠かさないという。
私たち夫婦が北九州を訪れる度に、ほかの昔の仲間たちも集まってくれてランチ会などを開いてくれる。
10年くらい前までは、一緒に熊本の阿蘇や大分の国東の石仏巡り、安心院の石橋巡りなどドライブ旅行をしたが、寄る年波には勝てず最近はその機会もない。
私の近況は休み休みではあるが、このブログに書いているような状況である。
トリガイも問題ガイの私も80歳を迎えるが、この状況がいつまでも続くように願っている今日このごろである。






Last updated  2019.09.06 13:27:26
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2019.08.29
カテゴリ:エッセイ
このエッセイも8月4日の「終戦記念日に寄せて」シリーズに入れてもよかったかなと思うが、まあ、戦後4,5年頃の思い出なので、今回のアップになった。これも10年くらい前に「ゆーとぴあ」に投稿したものである。サイダーの名のとおりほろ苦い思い出である。

               「サイダー」

 小学校3年生の途中で疎開先の東郷(現在薩摩川内市)から鹿児島市に帰ってきて大叔父(父方祖母の末弟)の世話で武岡の下に一軒の家を借りて住むことになった。

 父はフィリッピンで戦死し、母と姉3人、弟と私に父方の祖母を入れての7人の大家族である。働き手は母が一人で、姉たちが高校を卒業して働くまでにははしばらくの時間があった。そのような中で高齢の祖母は狭心症などで病院の薬は欠かせなかった。それでも往診や薬などの医療費の心配もなくあの戦後の厳しい時代に養生できたのは、大叔父のおかげであった。大叔父は西田本通りで内科の開業医だった。

 祖母に頼まれて、私は薬をもらいにその大叔父の病院に通った。2週間に一回くらいだったと思うがいつも病院の玄関からではなく勝手口から入って行った。そしてしばらく待っていると、”西田のおばさん”が薬と一緒にお菓子などをハンカチに包んで「これは帰ってから食べやんせ」と持たせてくれたものだった。家族全員とも薬代など払ったことはなかった。

 たまに父の従兄弟にあたる男兄弟3人が自宅にいると、「クマタツ表に回らんか」と言われて、庭にまわって縁側や座敷に上り込み、飲み物やおやつをご馳走になった。そんなある日「よか飲料水があっで飲まんか」と言われて飲んだのがサイダーだった。当時はどういう飲み物かも知る由もない。小学校4,5年頃のことだから、昭和24、5年だったのだろう。
貧乏な家庭でそんな清涼飲料水など飲んだことのなかったその味は喉を刺すようで、それいて甘い不思議な飲み物だった。自分は大変おいしく飲み干した。

 そして事件? が起きたのはすぐそのあとのことだ。「さようなら」を言って病院から出た。すぐ左に本屋さんがあったのだが、その本屋さんの角を曲がらないうちにいきなり大きなゲップがこみ上げてきた。しかもこれまで経験したことのない強烈なゲップである。しかし、その飲み物の名前も知らず、ましてや炭酸入りなんて知る由もない当時のことである。食べたり飲んだりしたものがなにか悪いものだったのかと思い、病院に引き返そうとしたが、頭の中で「いや、病院で悪いものを食べさせたり、飲ませたりするわけがない」と言い聞かせて引き返すのはやめた、しばらく歩いていると再びゲップが出たが、最初のときほどではない。子供の足で20分くらいの我が家に帰りつく頃にはすっかりよくなっていた。

 家族にその話をしたらいつの間にかその話が親戚中に伝わり大恥をかいてしまった。
貧乏だった私たちがラムネなどを六月灯(鹿児島で7月の夜、神社仏閣で順繰りに開催される夏祭り)で飲めるようになったのは、その事件のあと数年たった後だった。
                                  以上

 このような悲喜交々の思い出はたくさんある。書きたくない思い出も多い私たちの年代である。なにしろ終戦時の昭和20年に満5歳で翌21年が終戦後初めての小学校入学という、ある意味では戦争のことを語れる最後の年代かもしれない。折に触れて書いてみようと思う。






Last updated  2019.08.29 10:43:08
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2019.08.23
カテゴリ:エッセイ
このエッセイも10年くらい前に、文芸誌「ゆーとぴあ」に投稿したものだが、今回のブログへの掲載に当たり、再録とし、少し加筆した。

              私とパソコン

 パソコンに出会ってどれくらい経つだろう。はっきりとは覚えていないが、60歳の定年を迎える随分前のことだから、20年近くは経っているだろう。私が入門編を習う前に会社では既に親会社主導のもと売上伝票や請求書、簡単な集計表などは事務員さんたちがやってくれていた。だが、機械音痴の私はなにか怖いものでも見るように、遠くから眺めているような毎日だった。

 そんなある日、ついに私にも支社から召集がかかった。今後これまで月一回、福岡の九州支社で開催されている支社会議の資料や、東京の親会社で開催される我々、子会社の株主総会の資料も全て、パソコン入力文書にするので、講習会を開催するとのことである。一泊二日の日程で経理の事務員さんたちも帯同せよとのことで福岡に赴いた。そこには、私から見るとアンちゃんにしか見えない若い人も混じった親会社の「情報システム室」の一団が待ち構えていた。

 一台づつ与えられたパソコンを前に緊張したおじさんたちの姿、今 思い出すと笑えるが、そのときはテストを受ける緊張した学生に見えたにちがいない。なにしろ、入力の仕方も知らない私同様の販社のおじさん責任者が数名いる講習会である。初めて聞く用語の羅列、やり方、ついていくのも必死で、おじさんあたまでに馴染むはずもない。何も理解できないような状態でその二日間は終わった。

 しかし、そこからが勝負である。好奇心の強い私は、なにか面白そうだと思った。「文字の入力はローマ字のを使ったほうがよい」「最初はソフトに入力するだけだから、むつかしく考えずにやればよい」などなど周りの人に教えてもらいながら素直に? それに従った。
そのうちにフロッピーがどうの、メールがどうの、解凍しなくちゃのどと、教えてもらったり、本を読んだりするうちに少しづつではあるが、パソコンの前に座るのが楽しくなってきた。時間をかけながらの入力ではあったが、必要書類は自力でこなせるようになってきた。この頃になっても、支社会議の提出者類を未だに事務員さんに作ってもらう責任者もチラホラいたようだ。

 しかし、私も新しい場面に遭遇すると、応用力がなく、人に聞くようなことだった。ワードや特にエクセルでの新規文書作成はむつかしく、いつまで経っても高嶺の花であったが、このところ必要に迫られて
こなせるようになった。おかげで、定年後も65歳まで現役を続けることができ、その後も親会社に復帰する形で九州管内の販社の「監査」をするようになって、現在3年目に入った。
 
 この「監査」の仕事もパソコンと密接な関係があり、売上台帳は当然のことながら機械の中である。
鹿児島にある親会社の監査分室にいながら、臨店前には台帳などは全て見て、問題点もわかる。臨店ではその問題点を解明すればよい。事後の報告書も全てパソコンで処理するこになる。
パソコンを使えるようになったことで、自分の会社人生も広がり、65歳以降もこうして、グループ内の仕事を続けることができている。感謝! 
                           以上

 現在読み返してみると、私が70歳まで仕事を続けることができたのは、29歳で転職後、車の免許証
を取得したことと、50歳過ぎてからパソコンに馴染むことができたおかげである。
そして今こうして、10年以上、拙いブログを書き続けることができるのも、パソコンのおかげである。
もっとも、最近はボケ防止のただその一点のために自分を奮い立てせて書いているのが実情である。






Last updated  2019.08.29 07:46:24
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