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ジージの南からの便り

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鹿児島の歴史

2020.10.20
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カテゴリ:鹿児島の歴史


 「若き薩摩の群像」は鹿児島中央駅前広場の正面にある。
1865年19人からなる薩摩の使節団が串木野(現在のいちき串木野市)の海岸から国の掟を破り英国に渡った。その中に長崎の通詞(通訳)・堀孝之と土佐藩脱藩の後薩摩藩士となった高見弥一(弥市)の二人がいた。しかし、その二人については、この群像が1982年に鹿児島市が人口50万人達成記念と建立された時に藩外出身ということで除外されて17人の像のみ建立した。なんという狭量なことをしたのだろうと思ったのは私だけではなくてく今日までくすぶっていたようだ。
何はともあれ、この度、約40年近くの時を経て、二人の像が加えられて19人の全ての像が揃ったことはおめでたいことである。
地元南日本新聞によると、除幕式は9月30日、制作した彫刻家・中村晋也さん(94)=文化勲章受賞者=や二人の子孫ら関係者が集まって開かれたという。
そこでちょっと遅くなったが見に行ってきた。



 下が完成した高見弥一(左)、堀孝之(中央)の像




 薩摩英国使節団は留学などを終えて帰国後、日本の近代化に貢献している。
初代文部大臣 森有礼 
サッポロビール創始者 村橋久成
大阪商工会議初代会頭 五代友厚 などなど日本に有意の人材を送り込んでいる。

 薩摩は何故国禁を犯してまで英国に使節団を送り込んだのか。
それは、文久3年(1863)7月の薩英戦争でイギリス海軍の実力を見せつけられたからだと言われている。薩摩藩は西洋の技術を学びとることが急務と考え藩士たち19名を密航させたものである。






Last updated  2020.10.21 20:17:19
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2020.10.11
カテゴリ:鹿児島の歴史


 上町五社(鹿児島五社)詣りに誕生日の1月5日に行くようになって3年になる。参詣順路一番の南方神社(お諏訪さあ)は、私が清水町に住んでいた頃から馴染みの神社である。鹿児島での夏の恒例行事・「六月灯」には毎年夜お詣りに行ったものだ。
今日の写真は今年の私の誕生日の一日遅れの1月6日にお詣りに行った時に写したもものである。

 お詣りしながら境内を動き回っていると境内の一角にたくさんの文字を書いた石碑を見つけた。



 「旧射圃記」とある。「きゅうしゃぼき」と読むらしい。
なお、「射圃」とは「弓道場」のことである。



 帰って調べると鹿児島市の「史跡めぐりガイドブック」に概要次のような記述があった。

応永20年(1413)島津家8代当主・島津久豊が菱刈氏を討とうとして出陣した後、伊集院頼久が清水城を攻めた。清水城が危機に瀕したとき、上町の篠原新右衛門が人々に呼びかけて防ぎ戦った。
激しい戦いで数十人の死者がでた。
久豊は市井の人々が困難に殉じたことを賞め、人々に土地を与え弓のけいこをさせた。その後泰平の日々が続き、弓のけいこをする者もいなくなり、射圃は顧みられなくなった。寛政8年(1796)町役人が中心となり射圃を復活することになった。これらのことが記されている。



 「旧射圃記」については「平田信芳選集 石碑夜話」や「鹿児島の金石文」に詳述されている。
興味のある方には一読をお勧めする。






Last updated  2020.10.11 11:01:56
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2020.07.22
カテゴリ:鹿児島の歴史


 コロナ騒ぎでこの約5ヶ月、遠くへの外出を控えていたが、久しぶりに高校の同期生にの自称「歴史会」によるドライブでの史跡探索に出かけた。
 主要な目的は「島津義弘の居城のうち3ヶ所を巡る」ものだった。

 朝8時15分、鹿児島市内のMくん宅に集合し、Mくんの車に便乗させてもらって出発。高速道路を鹿児島空港ICで降りて、一路Mくんの郷里・霧島市牧園町へ。ここはその昔「踊郷」(おどりごう)と呼ばれた。

 江戸時代の1615年、徳川家康が一国一城を唱えたので、薩摩藩は外城のあった藩の各地に「麓」を設けた。そこに半農半士の「郷士」を住まわせ「人をもって城となす」という外城制度である。
外城制度は対外的には中央政権との対決に備えるもの、対内的には農民統治、一揆対策のための役目を果たした。

 Mくんのご先祖は「牧園町郷土誌」によると、M家は今の姶良郡山田から移封を命ぜられて踊郷に住み着いたという。そしてM家などの郷士は戦国の世に、島津氏のために身命を賭して戦った勇士たちであったという。そしてM家のご先祖たちは「組頭」や「名頭」として踊郷のために尽くしておられる。
一族は「戊辰戦争」や「西南戦争」にも出陣し、「戊辰の役従軍記」などが残されていて、後世の歴史家の資料にもなっている。 

 踊郷が牧園村~牧園町となった後、M家からは町長や県議会議員を輩出した。



 その墓地にMくんが墓参りに行くというので私たちも同行したということだ。
そして墓標の一群を見て驚いた。
これまでにも武家の墓標はたくさん見て、当ブログにも紹介してきたが、M家の墓標もそれに劣らぬものだったからだ。

 ただMくんの話ではこの墓地には比較的新しいご先祖のお骨は残っておらず、鹿児島市に新しく作った墓地に改葬されたという。しかし、この墓地を整理した時に、バラバラに置かれていた墓標をここの一ヶ所にに集めて墓標は残したのだという。郷士の一端を知ることのできる歴史遺産として後世に残すべきものであろうと思う。

 もう一つ書いておかないといけないことがある。それは、男性のご先祖の墓標は比較的単純なものであるが、逆に女性の墓標は祠型であるということだ。どういう意味があるのかわからないが、一般に男尊女卑と言われる鹿児島でどうしてだろうと思うことだった。案外世間で言われていることが曖昧なのかもしれない。現在はそういう風潮は欠片もないことを書いておきたい。



 これは他家の墓地だが、ここも夫婦の墓と思われる。
墓地中にオニユリが咲いていた。



 墓地は小高いところにある。帰る時に坂を下りながら見た風景は梅雨明け近しを思わせた。







Last updated  2020.07.23 06:15:46
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2020.06.13
カテゴリ:鹿児島の歴史




 今朝の南日本新聞に上記写真記事が掲載された。
それを見て私は2016年初めて「永吉南郷会」の当時会長だった「本〇どん」に連れて行っていただいた日置市吹上町永吉の草田原の「大辻石塔群」との関連性を今後調べるという記事に驚いた。

 先ず今日の記事によると「日置市伊集院町野田の水田地帯に十数基の石塔が姿を現した。平安末期以降に付近を治めた有力者のものとみられる。『塔の原の供養塔群』で木や竹やぶに長い間覆われていた」という書き出しで始まる。
「旧伊集院町教委が立てた案内柱はあるものの、本体は周囲から見ることはできなかった」「案内柱は、吹上町永吉にある桑波田氏石塔と特徴が合致するとして『平安末期からこの辺りを領した紀姓伊集院氏の末裔桑波田氏一族のものと考えられる』と明記。建立時期は示されていない。伊集院郷土史(1976年刊)によると江戸時代以降、石塔は門割制度下の農民集団『野田村西門』が管理していた」とある。「社会教育課の学芸員は『石塔の保存状態を確認できるようになった。現状を見て、永吉の桑波田氏石塔との関連性などを調べてみたい』としている」

 そこで、2016年と2019年の2回、永吉の「大辻石塔群」(上記記事では「桑波田氏石塔」と表現してある)訪ねたことのある私は、両方の桑波田氏の関連を調べてみた。
ネットの 紀氏のルーツ「紀氏の荘園、姓(国別)(31)によると、
 薩摩国伊集院桑波田(伊集院桑畑)発祥 紀氏の一族 紀貫之の子孫 伊集院本家筋
平安末期から紀氏を中心とする伊集院郡司の支配が強化していった。(新聞記事と一致)
 桑波田氏 南朝方
  「桑羽田」伊集院=紀景氏⇒子息・桑波田四郎三郎⇒紀四郎時春の三男⇒桑波田阿闍梨源智
  ⇒その長男・万揚房覚齋「日置南郷」(へきなんごう)の桑波田氏の祖であるという。
    (万揚房覚齋は紀氏と藤原氏の血脈系)
 以上のようなことがわかってきた。

 下の4枚の写真は2016年に写したものであるが、案内いただいた「本〇どん」によるとこの石塔はこの近辺の畑から掘り出されたものだという。それを「永吉南郷会」で1ヶ所に集められて石塔群として保存されているものだという。
同じ永吉字都には南郷城跡があり、ここを本拠地とした「日置南郷」の桑波田氏であったが、康永元年(1342)守護島津貞久の城となっており、守護島津氏領であった。桑波田氏は守護島津氏の老中として力をもっていたので、大栄7年(1526)、南郷城を与えられていた島津忠良(のち日新公)は桑波田栄景に南郷城を管理させていた。しかし、天文2年(1533)、城主桑波田栄景孫六は、薩州家島津実久に味方して、忠良(日新公)に弓を引くことになった。当時伊作を治めていた島津忠良(日新公)は嫡男・貴久を島津本宗家の養子に出して、貴久は15代当主になっていた。自分も本宗家の当主を狙っていた実久は激しく反抗し、忠良・貴久親子と争いになっていた。
忠良は難攻不落といわれた孫六の本拠地を落とすために、策略を練り、孫六が城を出て狩りに出かける日おを探らせ、その日に自分の兵を狩りから帰ってきた孫六の兵だと思わせて、門内に入り、城内に攻め入った。城兵の中に孫六を裏切る者も出て城は落ちた。孫六は驚いて帰ってきたが、間に合わず、伊集院の桑畑に逃げていった。その後、孫六は実久の援軍とともに、現在の日吉町吉利の野首原(のくんばい)付近に陣を敷いた。これを知った忠良は50騎あまりの兵を率いて敵の陣地を攻め、南郷城を守っていた貴久と敵を挟み撃ちにして、実久軍を破った。実久は多くの戦死者を出し、鹿児島へ逃げ出し。後に宮之城島津家に仕えるのである。

 この時より、南郷は永吉と改名され地頭が治めることになる。









 参考資料   南日本新聞   上記写真と記事
        ネット記事   城郭放浪記
        ネット記事   南郷城(鹿児島県日置市)の詳細情報・周辺観光
        ネット記事   紀氏のルーツ






Last updated  2020.06.13 19:25:52
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2020.06.08
カテゴリ:鹿児島の歴史
「薩摩隼人」とは、デジタル大辞泉によると「上代、薩摩に住んでいた隼人一族が、勇ましくすばしこいことで知られたところから」薩摩出身の武士、また一般に鹿児島出身の男性、とある。
現在はそういう認識を私も持っているが、そもそもはどういうことから「薩摩隼人」という言葉は生まれたのか。私は、これまではその「隼人一族」は現在の霧島市に残る隼人町の名前にだけにその起源は残されていると思っていた。ところがその認識を覆す事実を知ることになった。
それは、今回、南日本新聞に掲載された「隼人起つ」グッド「乱」から1300年 の5回にわたる連載記事を読むことから始まり、wikipediaで知ることができた。

 下の写真は隼人駅近くにある「隼人塚」


 
 古代の南九州で独自の暮らしをしていた「隼人」が何故大和朝廷に抗戦したのか。
養老4年(720)2月、隼人が大隅国府のトップである国守・陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を殺したとの急報が太宰府(福岡)を経て、平城京(奈良)に入る。
大隅国は和銅6年(713)現在の大隅半島を中心とするエリアに朝廷がつくった行政区画といわれる。
出先の統治機関である国府は国分平野に置かれた。 

下の写真は現在の霧島市市国分に残る「大隅国府跡」




 そのトップが襲われたという知らせは中央集権国家づくりに力を入れる朝廷にとって、大きな驚異である。兵1万人以上を編成し、鎮圧に向かわせた。1年近くにわたる「隼人の乱」の始まりだった。
朝廷に従わない、反抗したなどといわれる隼人。本当はどんな人々だったのか。関係の書籍が多い鹿児島国際大学元教授・中村明蔵さんは「実際には、外部を侵略した様子もない。穏やかな民だったのでは」という。
ここからが、私が初めて知ったことだが、隼人と言っても、薩摩半島南部の「阿多君」、大隅半島南部の「大隅直」、鹿児島湾奥分の「曽君」など各地に豪族がいた。

 それより前、5世紀になると南九州の人々は朝廷に従い始め、都に出向いて警備をつとめるなどしていた。朝廷側も南九州に積極的な介入などはしていなかったという。
 だが、7世紀に入ると、中国から伝わった「律令」に基づく政治に乗り出した朝廷は土地人民を全て国の支配下に置こうと目論んだ。そこから税を取立てようともした。
 さらに自分たち以外を卑しい存在とする「中華思想」で、隼人を辺境の異民族として扱い、8世紀の文献には「隼族」(しゅんぞく)、「蛮夷」(ばんい)と蔑視する記述が見られ、野蛮なイメージをつくりあげていた。

 古代の南九州人に「隼人」の呼称をつけたのは、朝廷側である。隼(はやぶさ)のように勇ましく、動きが素早いことなどに由来するなど諸説がある。文献に初めて登場するのは、天武11年(682)7月日本書紀に「隼人多く来たり、方物(くにつもの)を貢ぐ」とある。日本書紀は、朝貢してきた大隅と阿多の隼人が朝廷で相撲を取り、大隅が勝ったと記す。「阿多隼人」は今の南さつまの万之瀬川流域、「大隅隼人」は大隅半島南部をそれぞれ主な居住地としていたとみられる。
大隅隼人については、初めに述べたように、私は現在の霧島市の隼人ということは知っており、そこが薩摩隼人の名称の起源と思っていたのだが、今回wikipediaによって「阿多隼人」が「薩摩隼人」と呼ばれていたことを知った。現在の南さつまには「阿多」という地名は残っているが、南さつま近辺に隼人という地名は見つけることはできなかった。ご存知の方はご教示ください。

 今回の南日本新聞の連載記事をきっかけに鹿児島の古代のことにも大いに興味を惹かれて、初めて知ることが多かった。また鹿児島の古代史には例えば、その時代に40日かけて朝貢したとか、豊前(福岡県東部と大分県北部)や豊後(大分県)から200戸、約4000人を隼人に移住させたなど驚くようなこともあったと知り、またいずれ古代史のことも書けるようになればと思う。

 参考資料  「隼人起つ 乱から1300年」 南日本新聞
       「薩摩隼人」          wikipedeia
                     鹿児島県ホームページ






Last updated  2020.06.08 09:41:43
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2020.04.18
カテゴリ:鹿児島の歴史

 
 今回は鹿児島城の石垣に関する話でちょっとマニアックなことなので、興味の無い方はスルーしてください。

 今回の復元にあたり、門前に新しく石積みのサンプルと説明文が設置された。
上の案内板の文字が読みにくいので、次に概要を書く事にする。
「鹿児島県には溶結凝灰岩が広く分布している。比較的加工しやすく、古くから様々な石造物に用いられ身近な場所に石の文化を垣間見ることができる。鹿児島城にもっとも多く使われているのは約50万年前の噴火によって出来た吉野火砕流堆積物の溶結凝灰岩で、反田土石(たんたどいし)と呼ばれている。鹿児島城の石垣の多くは、石材を方形に加工整形して積む、切込み接ぎという方法で積んである」

 次には具体例として「亀甲積み」の解説とサンプルがある。





 鹿児島城に見る「亀甲積み」
この場所は、御楼門を入った正面突き当たりである。
日本最後の内戦と言われる西南戦争の弾痕が残る。



 明治10年9月、西郷隆盛率いる薩摩軍は鹿児島に戻る。
政府軍との攻防は凄まじくこのような弾痕が私学校跡の石垣にも残っている。



 算木積みの説明とサンプル





 石垣は3重構造になっている



 御楼門を入って右側に見える石垣。右側に「亀甲積み」 左側に「算木積み」






Last updated  2020.04.18 16:14:26
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2020.04.16
カテゴリ:鹿児島の歴史


 先日、当ブログに書いたように鹿児島市の鹿児島城(鶴丸城)の御楼門が147年ぶりに復元した。
4月11日、島津家32代当主・島津修久氏らが参列し完成式が行われ、通り初めもあった。
そして満を持して午後1時から一般公開された。

 官民が一体となり、7年がかりで取り組んだ復元は、事業費10億9000万円のうち、6億円以上もの寄付が趣旨に賛同した企業や民間から寄せられて復元に至ったのである。
鹿児島では一般的に古くから「鶴丸城」と呼ばれて親しまれてきた。鶴丸城という呼称は、屋形の形状が鶴の羽を広げたようであったことによる。
慶長6年(1601)第18代藩主・島津忠恒(義弘の息子で、後の初代薩摩藩主・家久)により築城され、以後 廃藩置県まで島津氏の居城であった。この御楼門も消失や倒壊により、幾度も建て替えられてきた。明治6年(1873)焼失したのちは再建されることはなかった。

 私は4月15日、快晴のもと胸を躍らせて見学に行った。
平日であること、コロナ騒ぎの最中ということもあり、写真に見る様にホボホボの人出である。

 御楼門は江戸時代初期、鹿児島城正面に建てられた2階建ての門であったが、今回の復元でも高さ、幅とも約20mある武家門が復元された。国内最大の城門の完成である。



 正面右側



 史実にもとづき復元された青銅製の鯱(しゃちほこ)右側のこの口を開けた「阿形」が420kg、左側の「吽形」が360kgあるそうだ。



 門を入って中から写した御楼門



 復元には湧水町が寄贈したケヤキの他、全国の国産材を使用した。古い写真や文献を参考に伝統工法で建設された。



 下の写真の大扉2枚は「薩摩義士」を縁に岐阜県から贈られた神木で作ったもので高さ5mある。











 参考資料 地元南日本新聞ほか






Last updated  2020.04.16 22:01:22
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2020.04.09
カテゴリ:鹿児島の歴史


 先日の南日本新聞に「鹿児島城(鶴丸城)の御楼門復元完成」の記事が掲載された。
すぐにでも行きたかったが、この頃の「新型コロナウイルス」騒動のこともあり、極力外出も控えていた。4月6日(月)友人たちと久しぶりに会うことがあって、集合時間より少し早めに出かけて、御楼門の勇姿に接することができた。

 当ブログでは、これまで下記のように数回、御楼門復元について書いてきた。
https://plaza.rakuten.co.jp/kumatake123/diary/20150324
https://plaza.rakuten.co.jp/kumatake123/diary/20180615
https://plaza.rakuten.co.jp/kumatake123/diary/20190810

 上の写真は正面から写したもんである。現在は立ち入りが出来ないようにシャットアウトされている。
下は正面の右方向から写した。



 正面の左方向から写した。
鹿児島城(鶴丸城)は、慶長6年(1601)に島津家第18代当主で薩摩藩初代当主の家久が建設に着手した島津氏の居城で、本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりだった。これは「城をもって守りとなさず、人をもって城となす」という薩摩藩流の考えによるもので、島津氏は中世式の山城を領内各地に残し、最終的には113区域をそれぞれ藩士に守らせる外城制度を敷いていた。



 正面からぐるっと回って城跡内側から写す。



 内側右方向から写す。



 左右には鯱。



 この日は、滅多に見ることの出来ない城壁の草取り・手入れの日だった。



 正面から右側に回ると城壁の上に桜が咲いている。







Last updated  2020.04.09 19:19:59
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2019.09.24
カテゴリ:鹿児島の歴史



 
 パリ万国博覧会は1855年を第一回とし、1867年、1878年、1889年、1900年、1925年、1937年に開催され、1947年にはパリ国際博覧会と名称を変えてかいさいされた。

 9月23日付けの南日本新聞にその第二回パリ万国博覧会に薩摩藩が参加したときに制作した勲章が新たに発見されたとういう記事が掲載された。一面記事は上記の通りだが、22面にも関連記事が書かれている。
22面の見出しは「幕府と外交戦の証し」「独立した立場アピール」というもので、概要は次のとおりである。
慶応3年(1867)の第2回パリ万博で薩摩藩がフランス政府高官らに贈った勲章は星形で最大径は約4CM「薩摩琉球国」の文字と丸に十の字がデザインされ裏には「贈文官兼武官」と記されている。フランス製の革張りのケースに納まっていた。
指宿市の薩摩伝承館が所蔵する勲章とほぼ同一で、胸に付けるタイプと見られる。一回り大きい首掛けタイプ(最大径5、2CM)が尚古集成館に残る。ほかに、羽織はかま姿でブーツを履いた市来政清が写る白黒写真も新たに見つかった。同じ構図で写った使節団長(正使)の岩下方平(いわしたみちひろ)の写真は広く知られており、同時期、同じ写真館で撮ったとみられる。 新聞概要は以上

 この第2回パリ万博に将軍の名代として徳川昭武が出席し国際舞台へのデビューとなった。日本として初めての参加でもあり、幕府の存在と権威を示す外交の場でもあった。
ここに、別途それぞれ参加したのが薩摩と佐賀である。薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政治」の名で幕府とは別に展示し上記の独自の勲章まで制作した。
時は正に維新前夜(翌年1868年は明治維新)であり、対立は万博会場でも繰り広げられたことになる。出品の品々は幕府は「武器」「図画」「漆器」「書籍」など1014点。
薩摩藩は「上布」「砂糖」など琉球の特産品、「薩摩焼」など480箱。
佐賀藩は「伊万里焼」のど陶磁器中心に506箱。

 一方で日本の出品物は日本趣味と呼ばれる流行を欧米に巻き起こし「ジャポニズム」のきっかけになった。政治、経済、文化の面から万博は世紀の一大イベントだった。






Last updated  2019.09.24 11:29:13
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2019.09.03
カテゴリ:鹿児島の歴史
鹿児島における西郷隆盛と大久保利通二人への評価は古くて新しい問題のようにいつも思っている。
一言で言えば、「未だ評価定まらず」ということか。(あくまで私の感じ方)

 そのことからちょっと逸れるかもわからないが、高校の同期生で歴史好きが昨年の「明治維新150年」NHK大河ドラマ「西郷どん」や今年の「島津義弘没後400年」について好きなことを言い合う形ができている。地元のKくんが南日本新聞の連載記事を全国の仲間にメール発信して、それに対する想いなどをそれぞれが言い合ったものをまとめて「八期歴史往来」として月に一回全国に発信してくれるのだ。毎月1~2回の発行で現在27号を数える。

 そういう中で、特別な事例では個人的にメールをやり取りすることもある。
そういう中の一通が昨日届いた。現在、千葉県に住むFくんである。(以下Fくんのメール)

 (前略)昨9月1日、福島県郡山市にある大久保神社で挙行された「大久保様の水祭り」に参加してみました。「子孫に美田を残さず」は西郷さんの言葉として広く知られていますが、大久保利通公もまた同様で、家族には美田は残さず多額の借財だけを残しました。
 しかし、大久保公は国家に対しては見事な美田を提供してくれました。殖産興業と士族の授産事業を目的に、現在の郡山市安積地区の原野に、遠く離れた猪苗代湖から水を引くという「安積疎水大プロジェクト」を推進。

 公没後も事業は引き継がれ、荒地に立派な美田(米の作付面積10,000ヘクタール以上)が誕生しました。大久保公の遺徳を永く後世に伝えるべく、明治時代に大久保神社が建立され、以後毎年9月1日、大久保様の水祭りとして定着、今日に至っております。
 今年は「創建130年記念祭」として、大久保家の子孫の方々や親戚縁者のほか郷里からも多数参列していました。
奉納石灯篭のお披露目等の後、地元の方々の奉納踊りや鹿児島民謡の披露、薩摩琵琶の演奏、はては詩の薩摩弁での朗読など、多彩な催しが披露され盛会でした。(この後、直会)

 かって「大久保家の人間はもう鹿児島には帰れない」と語っていたようなことを新聞か何かで読んだ記憶があります。
 そんな大久保家の方々が遠く福島県郡山に三週している様子を目にするにつけ、奇異な感じを受けました。郷里はもっと暖かく受け入れてほしいなあと思ったことでした。

 クマタツの返信メール

 今も変わらぬ鹿児島へのひしひしとした想いが伝わってきました。
千葉県から福島県郡山市まで出かけられるとは凄い情熱です。
また大久保公に対する想いにも感動です。
大久保公が美田を残されたということは、初めて知りました。
これも、私自身いつの間にか西郷一辺倒になっていて大久保公のことを知らないということです。

 私が読んだ「西郷隆盛と西南戦争を歩く」 正亀 賢司著(NHK記者) 文芸春秋刊
の中に「百四十年目の和解」という章に西郷家と大久保家が恩讐を超えて和解したということが様々な事実のもとに詳述されていますが、それでもなお、世間ではそうもいっていないという事実もあるようです。

 NHK大河ドラマ「西郷どん」の最終回を見て私が感じたのは、ドラマ自体に西郷を善とはしなくても、大久保が西郷を追い込んだという風に見れなくもないものを感じました。
これもあくまでも私見ですが、ああいう描き方だと、大久保を見直しつつある鹿児島人が、また大久保憎しに戻るのではという懸念を持ちました。

 いずれにしろ、大久保利通や大警視の川路利良等が明治政府や日本国民にどれほどの貢献をしたかを冷静に見るべきだと思うことしきりです。

                                   以上






Last updated  2019.10.23 18:38:34
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